東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

金剛寺坂~旧大門町~礫川公園

2011年06月09日 | 散策

付近の案内地図 新坂下 新坂下 金剛寺坂下 前回の記事の谷道から水道通りの小日向派出所の角を左折する。

これから先は、ほとんど通ったことのある道筋を巡ることになる。左の写真の街角案内地図にあるように、新坂下、金剛寺坂、旧鶯谷(春日二丁目13,15)、金剛寺坂上を右折した小路(同19,20)、荷風生家跡(同20,23)、旧大門町(同24,25)、安藤坂などである。

水道通りを東へ進み、次を左折すると、新坂(今井坂)の坂下である。前回来たときは、工事中であったが、写真のように工事が終わりきれいになっている。坂下からちょっと上の右側に説明板が立っている。坂下を通り過ぎて、鶯谷へと至る道を左折しようとしたが、通り過ぎて次を左折してしまい、金剛寺坂の坂下に入る。丸の内線の上を過ぎて、次を右折すると、荷風生家跡の方であるが、そうせず、坂をまっすぐに上る。坂の途中、なにかが落ちていたのであろうか、鳩や雀がしきりについばんでいる。

金剛寺坂中腹 鶯谷の無名の階段坂 金剛寺坂上右折した道 荷風生家跡 坂上を左折し、鶯谷の無名の階段坂に向かう。このあたりは、最近来たばかりなので、通いなれた道といった感じである。せっかくこの階段坂まで来たので、往復する。ここは、鶯谷といったが、上野駅の近くの下谷の鶯谷とは違う。どちらも鶯の鳴き声がよかったのであろう。

階段坂上から引き返し、金剛寺坂上にもどり、左折し、次を右折する。この通りは、春日通りの南でほぼ平行に延びる道で、荷風生家跡の近くである。荷風は、麻布市兵衛町の偏奇館に移る前の大正八年(1919)9月29日、生家近くに売地があるということで、このあたりに来ているが、その売地は、この通りにあったと思われる。そのとなりは石橋思案の家であった。

突き当たりを右折し、ちょっと歩くと、次第に下り坂となって、荷風生家跡にでる。この坂下に赤子橋があった。このあたりもすっかり通いなれた道である。

川口アパート前 旧大門町への小路 旧大門町 旧大門町 荷風生家跡の坂下を左折し、左に荷風生家跡の説明板を見ながら東へ進むと、すぐに、川口アパート前のクランク状の折れ曲がり道である。いつ見てもみごとに折れ曲がっている。尾張屋板江戸切絵図を見ると、この折れ曲がりが安藤飛騨守の屋敷の北側にあるが、そこから北に延びる道が見える。この道は現在、残っていないのだろうと思いながら見ると、ちゃんと小路があった。これまで気がつかなかったということである。

折れ曲がりから通り抜けて振り返って小路を撮ったのが二枚目の写真である。その通り抜けた裏道に、旧大門町の旧町名案内が立っているが、それによると、伝通院前白壁町(白壁造りの家があった)と、陸尺町(伝通院の役夫が住んだ)があり、ともに小石川村の内で、慶長七年(1602)伝通院寺領町屋となった。明治二年(1869)、両町を併せて、伝通院の大門に近いので大門町と称したとのこと。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、通り抜けたところ一帯が陸尺町(ろくしゃくちょう)で、右の写真のように、安藤坂を横切ってさらに東へ道が延びているが、そちら側を白壁町といったらしい。

上記の旧町名案内に、「西隣の旧金富町と結ぶ赤子橋通りがあった」という説明がある。明治地図を見ると、荷風生家跡(上記のように赤子橋があった)から西側の金剛寺坂のまわりまでが金富町であったので、折れ曲がりと金剛寺坂中腹とを結ぶ東西に延びる通り(金剛寺坂に向けて緩やかに下る坂道)を赤子橋通りといったらしい。

西岸寺日限不動尊 常泉院 常泉院わきの煉瓦塀 牛天神裏 旧大門町を東へ進むと、安藤坂で、これを横断してさらに旧大門町を進み、突き当たりを左折しまっすぐに歩くと、春日通りにでる。ここを右折し、次を右折しちょっと歩くと、右手に西岸寺日限不動尊が見える。

荷風「断腸亭日乗」昭和19年(1944)9月21日に次のようにある(全文は以前の記事参照)。

「九月廿一日。秋陰漫歩によし。小石川牛天神附近の地理を知る必要あり三時頃家を出でゝ赴き見たり。砲兵工廠の構内むかしとは全くちがひたれば従つて其裏手なる仲町の様子も今は全く旧観を存せず。西岸寺日限の不動に賽し電車通に出で大門町の陋巷を過ぎ金冨町を歩む。・・・」

荷風は、この不動尊から電車通り(春日通り)に出て安藤坂の西側の大門町、金富町へと歩いた。

西岸寺を右に見て、南へ歩くと、右側に常泉院があり、そこの角を右折すると、みごとな煉瓦塀が続いている。この塀に沿って歩き、突き当たりを左折し進むと、牛天神裏に出る。右の写真の右側が牛坂上である。

富坂上 富坂上 富坂上 礫川公園 牛天神から引き返し、春日通りの歩道に出て、右折すると、そこは富坂上であるが、下りはまだ見えない。

一、二枚目の写真のように、通りの向こう側に東京ドームわきのジェットコースターが見える。坂下側に向かって進み、坂上側で左に折れてからはこの光景を見ることはできない。

坂上側で右に入り、戦没者慰霊苑から礫川公園の上側に出る。ここから公園を見渡すことができるが、右手にハンカチの木が見える。

ハンカチの木 ハンカチの木 ハンカチの木 階段を下り、木の近くに行ってみるが、ハンカチの木とされるもととなった白い花びらは、部分的に見える程度である。遠くから見てはわからない。最盛期にはもっとたくさんできるのであろうか。

ここから後楽園駅へ。

携帯歩数計による総距離は14.8km。

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
永井荷風「新版断腸亭日乗」(岩波書店)

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