新富士見坂下を左折し、南へ進むと、すぐに四差路に至るが、ここが青木坂の坂下である。左角に標柱が立っている。ここで左折すると、東へほぼまっすぐに比較的急に上っている。狭い道で下りの一方通行。となりの新富士見坂と同じように麻布台地の古川流域を望む西南端で台地と谷を東西に結ぶ坂である。
ここに来てまた驚いた。坂右側(南)が工事中で、無粋な白い工事用パネルが建っている。このため以前来たときの印象からずいぶん変わり、妙に明るくて安っぽくなっている。はじめて来たとき、もっと落ち着いた感じの坂で、坂上はもっと暗い感じであった記憶がある。以前の坂は、たとえば、山野にある写真や「東京23区の坂道」で見ることができるが、むかし風の好ましい雰囲気を醸し出しており、坂上は樹木で鬱蒼としていた。
この坂に限らず、坂というのは、単なるスロープではなく、その両わきの状態にきわめて影響を受け、建物、壁、塀、樹木などによりかなり変わることを改めて感じる。それらとスロープとが渾然一体となって独自の雰囲気をつくり、一つの風景をつくり出している。工事が終わったらどのような雰囲気の坂になるのだろうか。
「あおきざか 江戸時代中期以後、北側に旗本青木氏の屋敷があったために呼ばれた。」
尾張屋板江戸切絵図(東都麻布之絵図)を見ると、四差路の東北側へ進むと、青木甲斐守の下屋敷があるが、坂名も坂マークもない。反対の西南側へ行くと古川のそばに天現寺がある。この四差路が現在と同じ青木坂下と思われる。坂上の青木屋敷は、南部坂上を右折し南へ進んだ突き当たりである。近江屋板には、坂名はないが、坂マーク△があり、坂上は青木美濃守の下屋敷となっている。ここもまた、坂の近くにある屋敷名が坂名の由来である。
戦前の昭和地図には、ちゃんと青木坂とあり、このあたりの旧町名は富士見町であった。別名が富士見坂であるが、横関は、早くから富士の見えない坂になっていたとし、となりの新富士見坂からはまだよく富士が見えると書いている。
この坂上は麻布台地の西南の角にあるが、石川によれば、一帯の台稜は麻布御殿跡地といわれ、『江戸砂子』に、「元禄のころ麻布御殿といふあり、今は武家屋敷なり。此地眺望他にすぐれたり。故に富士見御殿とも申せしなり」とあるという。
坂の南側にはフランス大使館があるが、昭和8年1月に現在地に広尾から新築移転してきた(石川)。右の写真の坂上右側に大使館の塀が見える。坂上を左折すると新富士見坂上の方で、直進すると新坂の方に至る。
(続く)
参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)