のぞき坂の坂下を高南小学校で左折し少し歩くと、四差路につくが、ここを左折すると、金乗院の門前で、宿坂の坂下である。坂下から見るとわずかにうねりながら緩やかに上っている。のぞき坂と同じ低地から同じ高台まで上っており、高低差は変わらないと思われるが、坂の長さが長くなっているため、のぞき坂ほどの勾配はない。
尾張屋板江戸切絵図を見ると、前回の記事のように、金乗院前を通って目白台に上る宿坂の道筋があるが、その神田川よりの道に、ジヤリバト云、とあり、近江屋板にもほぼ同じ位置に、コノヘンジヤリバト云、とあるので、この坂下の低地には砂利場があったのであろう。このため、砂利場坂の別名がある(石川)。
金乗院は、門前の説明板によると、真言宗豊山派の寺院で、開山永順が本尊の聖観世音菩薩を勧請して観音像を築いたのが草創とされ、永順の没年が文禄三年(1594)六月であることから天正年間(1573~1592)の創建と考えられるとのこと。関口駒井町にあった目白不動堂は戦災で焼失したため金乗院に合併され、本尊の目白不動明王像が移ってきた。
「中世の頃、「宿坂の関」と呼ばれる場所がこの辺りにありました。天保七年(1836)出版の『江戸名所図会』には、金乗院とともに「宿坂関旧址」が描かれています。金乗院の裏門の辺りにわずかな平地があり、立丁場と呼ばれ、昔関所があった跡であるとの伝承が記されています。この坂の名が「宿坂」といわれているのは、おそらくこれにちなむものと思われます。
また金子直徳著『若葉の梢』(寛政十年・1798)によれば、宿坂の関は関東お留めの関で、鎌倉街道の道筋にあったといわれています。鎌倉街道は、高田馬場から雑司ヶ谷鬼子母神方面へ抜ける街道で、現在の宿坂道よりやや東寄りに位置していたようです。
江戸時代には竹木が生い茂り、昼なお暗く、くらやみ坂と呼ばれ、狐や狸が出て通行人を化かしたという話がいまに伝わっています。」
上記の説明文の左となりに写真のような江戸名所図会の挿絵(宿坂関旧址 金乗院 観音堂)が転写されている。これを見ると、金乗院の前の道に宿坂とあり、緩く曲がりうねりながら上っている。
この坂は、金乗院前から坂上の高台までずっと傾斜が続き、かなり長い。中腹まではわずかながらうねっているが、これは旧道の名残であろう。その上はまっすぐに上っている。
ところで、前回の記事の千駄ヶ谷八幡(鳩森八幡神社)の前の道やその近くの榎坂や勢揃坂を横関の著書で調べると、古道(鎌倉街道、奥州街道など)との関係で一緒に説明されており、この宿坂も同様である。
横関は、各地の榎坂に着目し、その榎は一里塚に植えられた榎の場合が多く、江戸時代の榎坂と榎地名またはそれに関係するものを東京図に記してつなぎあわせることで、一時代昔の奥州街道や鎌倉街道、甲州街道を再現できるとしている。これによれば、これまで巡ってきた都内のいくつかの坂が古道という一本の線でつながりそうで、はなはだ興味ある視点である。
千駄ヶ谷八幡から宿坂までは次のように説明されている。すなわち、千駄ヶ谷八幡の前から、内藤新宿の内藤屋敷の東わきを四谷大木戸に出て、さらに一里塚のある大久保百人組を通る。つづいて、ここから尾州家の山屋敷そばを通り、高田の馬場から神田上水(江戸川)を姿見橋のところで渡る。そして、南蔵院わきから金乗院前へやって来るが、ここが宿坂である。宿坂の先は雑司が谷の鬼子母神の並木道であるという。
以上の道筋を尾張屋板江戸切絵図でたどろうとしたら、かなり大変であった。この範囲だけでもそうであるから、横関が示している道筋をすべてたどるのはかなり難しそうである。
写真は宿坂の坂上から撮ったもので、坂上でまた少しうねっている。坂上は目白通りであるが、のぞき坂の入口からそんなに進んでいない。今回の坂は、目白通りから下る坂で、台地と谷の間を平行に上り下りするので、これからも目白通り方向(西から東へ)にはなかなか進まない。
(続く)
参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
鈴木棠三・朝倉治彦校注「江戸名所図会(四)」(角川文庫)