東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

小布施坂~豊坂

2010年12月24日 | 坂道

小布施坂中腹 日無坂を下って進み、突き当たりを左折し、次を左折してから直進すると、小布施坂の上りとなる。日無坂までは豊島区であったが、ここは文京区である。

この坂は坂上からアクセスすることが多いが、坂の雰囲気が一変している。坂上左側で工事が始まっており、坂は養生のためゴムシートで覆われている。左に階段が露出し、その上では中央に階段があらわれている。工事中とはいえ、無残な姿となっており、ちょっと残念であった。

この坂は、もっと樹木で覆われ、薄暗い感じだったと記憶しているが、妙に明るくなっている。この季節、落葉樹が落葉してももっと風情があるはずである。以前に撮った写真をアップできればよいが、これまでのパソコンが故障したため写真を取り出せない。山野や東京23区の坂道にこの坂の写真があるので、見ると、樹木で鬱蒼としている。

小布施坂上近く 写真のように坂上に近づくと、もとの階段があらわれており、かろうじてむかしの坂の雰囲気が残っている。

坂上(写真の右手)に説明板が立っており、次の説明がある。

「小布施坂(こぶせざか)
 江戸時代、鳥羽藩主稲垣摂津守の下屋敷と、その西にあった岩槻藩主大岡主膳正の下屋敷の境の野良道を、宝暦11年(1761)に新道として開いた。その道がこの坂である。
 坂の名は、明治時代に株式の仲買で財をなした小布施新三郎という人の屋敷がこのあたり一帯にあったので、この人の名がとられた。古い坂であるが、その名は明治のものである。」

尾張屋板江戸切絵図に、稲垣・大岡両家の屋敷があるが、その新道はのっていない。近江屋板も同様である。

小布施坂上 写真は坂上から撮ったものであるが、以前は、こんなに遠くは見えなかったと思うが。やはり樹木が伐採されたのであろう。

明治地図には、この坂と思われる道筋はなさそうであるが(一部重なる道がありそうではある)、戦前の昭和地図には坂名はないが、この道筋があり、坂上東側に小布施邸がある。ここはいま、日本女子大学付属豊明小学校になっている。

小布施は信州の生まれで、明治12年に株式の仲買ならびに金銀売買の小布施商店をはじめて巨富をつみ、後年は株式取引所取締役そのほか株式金融方面の役員をつとめたという(石川)。

工事の後、この坂はどうなるのであろうか。願わくはこの秋にでかけた明治坂のようにならず、もとのような雰囲気のある坂道にしてほしいものだが。

坂上東側の公園で一休みしてから目白通りを東に進む。通りの向こう側に日本女子大学が見えてくる。次の交番のところで右折する。

豊坂上 写真は右折してちょっと進んだ豊坂の坂上から撮ったものである。まっすぐに下っており、坂下側で勾配がきつめになり、坂下で大きく二回カーブしている。

坂下に立っている説明板に次の説明がある。

「豊坂(とよさか) 文京区目白台一丁目7と9の間
 坂の名は、坂下に豊川稲荷社があるところから名づけられた。江戸期この一帯は、大岡主膳正の下屋敷で、明治になって開発された坂である。坂を下ると神田川にかかる豊橋があり、坂を上ると日本女子大学前に出る。
 目白台に住んだ大町桂月は『東京遊行記』に明治末期このあたりの路上風景を次のように述べている。
 「目白台に上れば、女子大学校程近し、さきに早稲田大学の辺りを通りける時、路上の行人はほとんど皆男の学生なりしが、ここでは海老茶袴をつけたる女学生ぞろぞろ来るをみるにつけ、云々」
 坂下の神田川は井之頭池に源を発し、途中、善福寺川、妙正寺川を合わせて、流量を増し、区の南辺を経て、隅田川に注いでいる。江戸時代、今の大滝橋のあたりに大洗堰を築いて分水し、小日向台地の下を素堀で通し、江戸市民の飲料水とした。これが神田上水である。」

上記の説明文中の云々以下を補うと、「早稲田よい処目白をうけて魔風恋風そよそよと、といふ俗謡が思ひ出さる。魔風恋風とは小杉天外の小説の名にして、一時青年男女の間に愛読せられたるものなり」(石川)。

豊坂カーブ 坂を下ると、左へ大きく曲がり、ちょっと進むと、右へふたたび大きく曲がっている。写真はこれらのカーブを坂下側から撮ったものである。見事に二回カーブしてクランク状の坂道となっている。以前、初めてこの坂に坂下から訪れたとき、このクランク状の折れ曲がりを見て感動した覚えがある。坂道でこのように見事に折れ曲がっているのは珍しい。しかも、ここは二車線で、かなり車の往来がある。

江戸切絵図に台地の通りから入るまっすぐの道があるが、途中で途切れている。明治になってからの坂ということだが、明治地図にはない。戦前の昭和地図には豊坂とあり、いまのようにクランク状に折れ曲がっている。 坂下の先の神田川に豊橋がかかっている。

大正6年(1917)、東京市電が豊橋南方の早稲田車庫前まで延長されてからは、この坂道は女子大への通学路としてにぎわうようになったとのこと(石川)。

豊坂下 写真は坂下から撮ったものであるが、このあたりはかなり緩やかである。写真中央右に上記の説明板が見えるが、そのとなりに旧町名案内板が並んで立っている。ここは旧高田豊川町といったらしく、次のように説明されている。

 「旧高田豊川町(昭和41年までの町名)
 もと、小石川村の内である。延享年間(1744~48)以前に町屋を開き、小石川四ッ家町(伝通院領)といった。
 明治2年、町内の豊川稲荷の豊川と、付近一帯を下高田と呼んでいたので、町名を高田豊川町とした。
 同5年、旧大岡主膳正、稲垣摂津守、小笠原信濃守などの大名屋敷地及び武家地を併せた。
 同34年、元小石川村飛地字豊川、高田村字神明下を併せた。
 明治34年、日本女子大学校(日本女子大学)が、目白台2丁目に、成瀬仁蔵によって創立された。成瀬記念講堂は、コンドルの孫弟子田辺淳吉の設計により建てられた。」

坂下を進み、突き当たりを左折し、次を左折しちょっと進むと、豊川稲荷がある。上記の説明のように、ここから豊坂や旧高田豊川町の名がきている。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)

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