東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

勢揃坂~熊野神社

2010年12月18日 | 坂道

勢揃坂下 榎稲荷の前の道を左折し、榎坂下を左にみて坂を下り、坂下の大きな通りを横断し、そのまま道なりに歩いていくと、外苑西通りの大きな通りに至る。ここの霞ヶ丘団地の横断歩道を渡り直進し、一本目を右折すると、道がまっすぐに延びている。南に向けて緩やかな上り坂が続いているが、ここが勢揃坂である。ここも以前にきたことがあり、二度目だが、いつきても裏道のような雰囲気で静かなところである。人通りもほとんどない。

上り坂中腹右側に龍厳寺の山門が見え、そのちょっと先に説明板が立っている。次の説明がある。

「勢揃坂(せいぞろいさか) ここのゆるい勾配の坂を勢揃坂といい、渋谷区内に残っている古道のひとつです。後三年の役-永保三(一〇八三)年に八幡太郎義家が奥州征伐にむかうとき、ここで軍勢を揃えて出陣して行ったといわれ、この名が残されております。このとき従軍した武士の中に坂東八平氏(平氏の一族)のひとり河崎重家(渋谷の領主)がおり、手柄をたてたという伝説があります。真偽についてはもちろんわかりませんが、区内に伝わる源氏に関する伝説のひとつとして注目されます。」

説明板にあるように、坂名の由来は11世紀の相当に古い故事である。現在、東京都心とよばれている地域には色んな名所・名跡があるが、それらは、ほとんど江戸期以降のものである。徳川家康の関東入国が天正18年(1590)であるので、正確にはこれ以降である。

勢揃坂上竜岩寺(龍厳寺)から熊野権現へと南に延びる道が尾張屋板江戸切絵図にのっているが、坂名も坂マークもない。しかし、近江屋板には、△印の坂マークとともに、里俗源氏坂とある。この別名は、もちろん上記の故事によるのであろう。

「新編武蔵風土記稿」巻之十に次の説明があるという(横関)。

「原宿町 当所は古へ相模国鎌倉より奥州筋の往還係て宿駅を置し所故此名ありと、又村内竜岩寺の伝に、往昔源義家奥州下向の時、渋谷城に滞溜当所にて軍勢着到せし故、今に門前の小坂を勢揃坂と唱ふと云、当時街道なりし事証しへし、村の東青山五十人町の通衢は今も相模国矢倉沢に達する往還なり。」

横関によれば、竜岩寺には天満宮があって、源義家がここで出陣の連句をやり、社前に奉納したことがあって、この天満宮は俗に句寄の天神とも呼んだとのことである。

「江戸名所図会」に竜岩寺庭中の挿絵があるが、大きな庭が描かれ、枝のわたり三間あまりの笠松というのが有名だったらしいが、これが真ん中に大きく描かれている。

熊野神社 横関に、龍厳寺前の下り坂の写真(昭和30~40年頃)がのっているが、両脇から木々が伸びて、いまよりさらに静かな感じである。

坂上を進むと、左手が熊野神社である。交差点を左折すると参道がある。この神社は尾張屋板江戸切絵図で熊野権現であり、原宿の鎮守であるという。この神社の前の道を熊野通りというらしい。現代地図にのっている。

勢揃坂下と熊野神社との間の距離は短いが、静かな坂の散歩を楽しむことができる。都会の隠れた静寂な散歩コースである。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
鈴木棠三・朝倉治彦校注「江戸名所図会(三)」(角川文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)

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