東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

目白坂

2010年12月27日 | 坂道

東京カテドラル聖マリア大聖堂 クリックすると拡大します 胸突坂上から目白通りに出て右折し少し歩くと、右手が椿山荘で、その通りの反対側に東京カテドラル聖マリア大聖堂が見えてくる。やや湾曲した大きな壁が特徴的で金属製の表面が白銀色に反射し、左側にある高い鐘の塔とともによく目立っている。写真は、椿山荘前の歩道橋の上から撮ったものである。

ここの歴史は明治から始まるようである。明治10年(1877)築地の外人居留地に敷地千坪余を買い求め聖ヨゼフ教会を設け、その後、明治19年(1886)ここ関口の四千八百坪の土地を購入し、明治32年(1899)聖堂ができ、翌年関口聖母教会と称した。その後、東京大空襲で焼失し、昭和39年(1964)に現在のカテドラルが完成した。

持参の携帯音楽プレーヤーから森田童子の懐かしい歌声が聞こえてくる。
東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤 1978年7月29日 盛夏

きょう電車に乗ってこのライブ盤を聞いていたら急に目白通りを思い出し、それで行き先を変更した。何時まで何処何処に行かねばならないという外出ではないので気のむくまま変更自在である。

森田童子とは不思議な歌手で、本名も素顔も不明であり、昭和58年(1983)12月にそれまでのライブ中心の音楽活動を終了し、いまどこで何をしているのかもほとんど知られていないらしい。かなり前にでた何枚かのCDで聞くことができるのみで、アルバムのジャケットで音楽活動の履歴がわかる程度である。本人にとっては、つくりたいときに詩と曲をつくり、歌いたいときに歌い、それが終わったらやめるというのがきわめて自然なことであったのであろう。その鮮やかな引き際からそんなことを思ってしまう。

目白坂上 椿山荘の前から右手の道を進むと、やがて緩やかな下り坂になるが、ここが目白坂の坂上である。緩やかだが長い坂で坂下の音羽通りへと東に下る。これまでの坂は目白台地から神田川の低地へと南に下る坂であったが、ここは、目白台地の東端にあたるため東側へと音羽通りに下る坂である。坂下右手に進むと神田川にかかる江戸川橋に至る。この坂は、緩やかに曲がってうねっており、わたし好みである。

このあたりの旧地名は関口村の高台である目白台にあったので関口台町といった。坂下側は関口駒井町であった。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、目白坂とあり、その坂上側に関口臺町、坂下側に関口駒井町とある。坂上の南側に目白不動があり、別當新長谷寺とある。近江屋板も同様である。このため別名を不動坂といった(石川)。明治地図にもあり、戦前の昭和地図には目白坂とある。目白不動は前回の記事のように戦災で焼失し、宿坂下の金乗院に移った。

目白坂上側 坂下に立っている説明板には次のようにある。

「西方清戸(清瀬市内)から練馬経由で江戸川橋北詰にぬける道筋を「清戸道」といった。主として農作物を運ぶ清戸道は目白台地の背を通り、このあたりから音羽谷の底地へ急傾斜で下るようになる。
 この坂の南面に、元和4年(1618)大和長谷寺の能化秀算僧正再興による新長谷寺があり本尊を目白不動尊と称した。
 そもそも三代将軍家光が特に「目白」の号を授けたことに由来するとある。坂名はこれによって名付けられた。『御府内備考』には「目白不動の脇なれば名とす」とある。
 かつては江戸時代「時の鐘」の寺として寛永寺の鐘とともに庶民に親しまれた寺も、明治とともに衰微し、不動尊は豊島区金乗院にまつられている。
     目白台の空を真北に渡る雁
        稀に見る雁の四・五十羽かも       窪田空穂(1877-1967)」

目白不動は、二代将軍秀忠の命で建立され新長谷寺と称し、目白の号は三代将軍家光の命名ということらしい。

目白坂下側 坂下側に永泉寺というお寺があるが、ここに太宰治の心中相手の山崎富栄(以前の記事参照)のお墓があるらしい。ここは江戸切絵図にも見え、江戸時代から続く寺院のようである。

永井荷風は大正13年(1924)4月このあたりのことを「礫川逍遥記」に次のように記している。

「日輪寺を出で小日向水道町を路の行くがままに関口に出で、目白坂の峻坂を攀(よ)ぢて新長谷寺の樹下に憩ふ。朱塗りの不動堂は幸いにして震災を免れしかど、境内の碑碣(ひけつ)は悉くいづこにか運び去られて、懸崖の上には三層の西洋づくり東豊山の眺望を遮断したり。来路を下り堰口の瀑に抵(いた)り見れば、これもいつかセメントにて築き改められしが上に鉄の釣橋をかけ渡したり。駒留橋のあたりは電車製造場となり上水の流れは化して溝瀆(こうとく)となれり。」

荷風は目白坂の峻坂をよじ登って、新長谷寺に出たとあるが、これは音羽通りから台地に緩やかに上るこの坂でなく、いまの神田川わきの江戸川橋公園から高台に上る急な坂道であったと思われるが。あるいは、坂上でやや傾斜がついているので、そこを峻坂といったのか。来た道を下って、堰口の滝に行くと、セメントになっており、駒留橋のあたりは電車製造場となり上水の流れはどぶとなっていた。

目白坂下 写真は坂下から坂上を撮ったものである。歩道わきに上記の説明板が立っている。この説明板は車道側に坂名が大きく表示され、その裏の歩道側に説明文がある構造となっている。

20年ほど前この坂を上ったことがある。坂上の椿山荘に行くためだが、有楽町線の江戸川橋駅から江戸川橋を渡って、この坂を上ったことを妙によく覚えている。ちょっと薄暗くだらだらと上る、時間のかかる坂であったからであろうか。

当時は街歩きや坂巡りなどにはまったく関心などなく、その後、いまのように坂巡りと称してわざわざ出かけるようになるとは変われば変わるものである(と我がことながら驚いてしまう)。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
山田野理夫「東京きりしたん巡礼」(東京新聞出版局)

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