あぽいち

温泉とヨガ、たまに心臓外科医

病気を作るのは自分自身

2007-08-22 22:57:04 | Weblog
自分が病気になってみて、改めて病気とは何ぞやと考えるようになり、いろいろな本を読み漁った。
自分の学んだ西洋医学というものは、病気を臓器別に診て対処的に治療していくものであるが、、、。
そもそも西洋医学なんて無かった時代が何千年もあったわけで、もともと生き物には、自己治癒力というものが備わっているはずである。
少々の怪我であれば、ほっておいたって自然と治るわけで、術後の傷だって糸で寄せてはあるが自分でくっついて治っていくものである。
当然、それは体の表面だけの話だけではなく、体の内部、内臓、細胞レベルにいたっても同じ話で、風邪だって普通の人はほっとけば治るものである。
ではなぜ人は病気になるのか?、それは自己治癒力が弱るのだからと考えるのが普通であり、ではなぜ自己治癒力が弱るのかと考えると、それは人間が不自然な環境におかれているからなのではないかと考えられる。
時代とともに産業は発達して物が便利になり、それと同時に人は自然から離れていき、環境は汚染され、食生活が変わり、不規則な生活になり、競争社会でストレスが増え続けるばかりである。
いったいどこまで進んでいくのかわからないが、こういった変化が人間の体に悪影響を与え病気を招いているのは間違えないと思う。
特に毎日口にする食事や、生活習慣、ストレスといったものは大きいと思う。
西洋医学でも最近になって、メタボやストレスといった予防医学に目を向けるようになったが、まだまだ人々の認識は甘い気がする。
今の西洋医学中心の医療では、病気になったら医者にかかって検査して、治療してもらえばそれでよいという風潮がある。
自分もこれまでは、風邪には風邪薬、痛ければ痛み止め、高血圧には降圧剤、悪いところは手術でとる、取り替えるなどなど、対処的な治療しかしておらず、病気になった原因というのを治す治療をしてこなかった。
それが医学だと思い込んでいたし、患者さんもそのつもりで治療を受けに来る方がほとんどの気がする。
しかし、これでは病気を押さえ込んでいるだけで、本当の意味で治していないということに気がついてしまった。
そもそも病気を作っているのは誰かといえば、患者さん本人なのである。
いくら病気がわかって薬を飲んでも手術をしても、それを理解し自分の生活を改善しないと、ひとつの病気はよくなったかに思えても、再発の可能性があるし新たな病気を次々と起こす可能性はなくならないのではないかと。
薬にしても、どうしても必要なものはあるとは思うが、自分で飲んでいてわかるが必ず副作用があるし、飲み続けるというのはとても体に良いとはい思えない。
一時的には効果を必要とするものは確かにあるが、基本的には薬を飲まなくて良い体に持っていくのが本当は最高の治療なのではなかろうか。
しかし、それを今の何でもかんでも薬薬の医療に慣れてしまった国民に広めるのは、相当大変なことだろうし、わかっていても薬を求める患者さんも多いだろう。
医者側の意識も改善するのは大変だろうし、薬を求められたら処方しないわけにはいかないし、薬出さなきゃ病院経営成り立たないし、泥沼の社会である。

もし自分が臨床に戻ったらそういった予防医学的なものを取り入れて仕事をしていきたい。
心臓外科の仕事にしても、これまでは手術したはいいけど、その後は、ただ外来で薬出して検査して、はいまた次回ね、という感じであった。
患者さんも、手術をしたからこれで安心、もう何しても大丈夫、またもとの生活に戻れると勘違いしている人がほとんどだと思う。
でもそれは大きな間違いで、これまで体に無理をかけてきた結果、手術が必要になってしまったのだから、手術で治したところをこれ以上悪化させないように患者さんも努力してもらわなくちゃいけない。
患者さんもこっちもせっかく命を懸けて手術して治したのだから、それを無駄にしてほしくないわけで。
術後の患者さんみんなに、どういった教育をしていけばよいのか、また浸透させていくにはどうしたらよいものか。
新しい技術や研究も大事かもしれないが、今目の前にいる患者を治療していくことを考えれば、手術した患者が末永く健康でいることが大切であり、そのために手術するのだから、心臓外科の立場から予防医学というものを考えると、こういったことをやらなければいけないと思うのである。
まー、復帰できたらいつか取り組んでみたい。

またひとつ見えちゃった

2007-08-22 22:14:41 | Weblog
お盆の間、北海道の友達に会いに行ったのだが、いろいろと話をしたおかげか、またひとつ自分の中でわだかまりが吹っ切れた。
医者になった自分の使命がようやく見えてきたきがする。

一番最初は、純粋に自分で手術のできる心臓外科医になりたいと思ったことが始まりである。
大学にいてはだめだと思い、医局を飛び出して武者修行の旅に出るしかないと思った。
アウトローの道を行くからには、誰にも頼らず、すべては自分一人で考え行動し、そしてどんな方法でもよいから、とにかく手術の腕を磨くこと、すべてはそれからだと思っていた。
ただひたすらに手術を求め、有名な外科医、有名な病院と求めていくうちに、いつの間にか目の前にいる患者を診ることをが無い環境に自分を追い込んでいた。
そしてそれに疑問を持ちながらも、手術に対する欲望は捨てきれないうジレンマに悩まされ、前に進めなくなってしまった。
手術がうまくなりたい、一流になりたい、そんなことばかりにこだわっていた。
でも、ふと、自分は何のために医者になったのか、医者になって何をやりたかったのか、改めて考えてみたときに、純粋に目の前にいる患者を助ける仕事をしたかったのではないかということに気づいた。
自分の欲を満たすことばかり考えているから苦しいのであって、それを捨てて、単に一人一人の患者さんを治していくことが自分の仕事なのだとわかった。

また、誰にも頼らず一人で生きていこうなんて考えていたことも、無理な話で、もっともっと周囲に甘えて頼って生きていって良いのだということに気づいた。

仕事を休みだして、半年がたとうとしているが、ようやく自分の中での決着がついて、仕事に復帰できそうな気がする。
単純に、自分のできる範囲で目の前の患者を救えばよいのではないか。
それ以外のことは、あとからついてくるものだと思われる。

引越し

2007-08-22 21:07:02 | Weblog
先月で職場を退職し、来月には地元に一旦引き上げることにした。
今度の住居はなかなかよい環境のところで、引っ越すのが楽しみである。
大きな川の土手沿いでマンションの前には桜の木が植えられており、土手はサイクリングコースになっている。
横には水門があり船が係留されているのである。
都会の片隅にこんなに癒される場所はなかなか無いのではないかと思っている。
まー、まだ実際に住んでないから、わからないがのんびりできそうなところではある。

富士山

2007-08-22 20:56:12 | Weblog
先日、またまた山登りにいってきました。
今回は泊まりで富士山のご来光にアタックです。
これまでも学生のころ何度か登ったことはありましたが、いつも日帰りでしたので、山小屋に泊まるのははじめてでした。
五合目を出たのが夕方5時ごろで7合目の山小屋に7時ごろ到着、夕飯のカレーをいただき仮眠。
山小屋から山頂までは通常2時間程度のコースだが、夜間で渋滞が予測されたため十分な余裕を持って、午前1時に山小屋を出発。
予想通りの渋滞で、頂上を目前にご来光となってしまったが、それでも十分であった。
標高3000mm以上ともなると夜間はさすがに真冬のスキー場なみの冷え込みだったため、渋滞で足が止まると体が冷えてしょうがなかったが、朝日が昇るとともに体が温まるのを感じ、「ご来光」といわれ太陽があがめられる理由を身をもって感じ太陽に感謝したのであった。
今では太陽は昇って当たり前であるが、農作が中心であり、光も暖房設備もなかった時代では太陽とは大きな存在であったのだろう。
やまり、展望は最高である。
山小屋からは御殿場付近の打ち上げ花火を見ることができたが、花火を上から見下ろすというのはなかなか経験できないものである。
頂上では雲がはるか下方に見られ、伊豆半島から三浦半島、日本アルプスまできれいに見渡すことができた。