日々是好舌

青柳新太郎のブログです。
人生を大いに楽しむために言いたい放題、書きたい放題!!
読者のコメント歓迎いたします。

吉原の秘技も知らずに破門さる

2019年08月18日 13時06分13秒 | 日記
フェイスブックの元友達から絶縁されてしまった。経緯は次のとおりである。「不易流行」という題のブログについて読んだら「いいね!!」を押して欲しいということだった。

ブログは「1778年 信州川中島より神来る。」と駿河風土記に書かれている。町内(本通二丁目)に祀られている八朔神社の大祭が1日に行われた。と、いう書き出しであった。
八朔神社の特殊神事として、迎神の儀が有る。つまり大祭の前日に春日の国道とJR線の間に有る場所にお迎えに行くのである。祝詞を春日で奏上し、神様をお連れして神社に戻り、前夜祭の儀式を行う。翌日の8月1日 朝10:30~より本祭を行う。神事を行い、皆で奉納酒を戴き、閉式となる。
本通二丁目の自治会は3組70世帯の小さな町内でありますが、単独町内の社として、八朔神社は240余年の長きにわたり、鎮守神として脈々と続いている。
戦前は吉原での秘技であった技が、現在では各家庭で行われている。(流行)と、書いてブログは終わっている。

私はこのブログに対して「不易流行は俳句を齧っている者として一応の理解はありますが、戦前は吉原での秘技であった技が、現在では各家庭で行われている。(流行)・・・ これが何をさすのやら全く分かりません。八朔神社の由来もわかりません。謎の多い文章です。」とコメントした。そして「不易流行」が本筋の話なら「奥の細道」や「去来抄」にも触れるべきだろうし「八朔神社」が本筋の話ならば祀られている主神や神社の縁起に触れるべきではなかろうか、と書いた。これが相手の逆鱗に触れたのであろう。
少し噛み砕いて話を進めよう。

慶長14年(1609)の駿府町割によって、家康公は古い東海道の道筋であったこの通りを本通(ほんとおり)として、新たに新通(しんとおり)を作らせて東海道の道筋を変更した。つまりバイパスである。昔からの本通は、家康公の時代になると東海道からはずれ、新通が中心となった。地内には時宗の一華堂長善寺があり、家康公から寄進された茶釜がある。これは播磨(はりま)高砂「尾上の釜」(釣鐘)の形で、釜の正面に「播磨高砂」の文字がある。伝承によると家康公のおばあさん(源応尼)が、毎月1度はこのお寺に来て茶をたてたという。

一華堂乗阿とは、江戸前期の和学者・歌人・時宗の僧。甲斐生。武田信虎の子(一説に猶子)。号は乗阿・一華堂・一花堂。駿河長善寺の体光に入門、同寺住職となる。高井尭慶・冷泉為和・三条西実枝らに学び、実枝から古今伝授された。後陽成天皇に進講、また、林羅山・菅玄同らにも『源氏物語』を講義した。晩年は京都七条道場金光寺に住した。元和5年(1619)歿、89才(一説に80才)。

川中島から神が来たという1778年は安永(あんえい)年間で明和の後、天明の前。1772年から1781年までの期間を指す。この時代の天皇は後桃園天皇、光格天皇。江戸幕府将軍は第10代徳川家治の治世である。

神を迎えに行く春日の国道とJR線の間に有る場所とは、「東海道府中宿東見附」。つまりここから「府中宿」という場所であろう。驛傳馬の制度は律令国家の成立とともに整備されたが、当時から安倍郡横田郷は駿河国の五駅六伝馬の一つとして主要な宿駅であったようで、平安期に書かれた『延喜式』などにも見える。以来、横田町近辺は東海道府中宿の中核として江戸期の上伝馬町、下伝馬町に至るまで宿駅としての役割を連綿と続けた。

「不易流行」、芭蕉は江戸を出て95日、越後・出雲崎に到着。この地で詠んだ句こそ、芭蕉が目指した“風雅”の境地を表していると言われます。“荒海や 佐渡によこたふ 天河”時を超えて変わらない、荒海と天の川。その真ん中に位置する佐渡が象徴する、変わりゆく人間の営み。それを芭蕉は「不易流行」と言いました。「不易」とは、永遠に変わらないもの、「流行」とは常に変わりゆくもの。それが同時にこの世にあることを詠む。その「不易流行」という概念こそが、芭蕉が見出した五七五の境地だったのです。
さて、吉原の秘技についてであるが、私は以前、吉原遊郭に伝わる毛生えの妙薬について一文を書いたことがある。その妙薬とは桑の葉であるがパイパンつまり土器(かわらけ)の遊女に毛をはやしてやろうという秘技である。しかし、ブログの秘技はそうではあるまい。

江戸・吉原の遊女たちにも八朔の風習があり、白い小袖を着て客を迎えていたそうである。八朔は、徳川家康の江戸入りした日とされることから、江戸時代にはもっとも重んじられていた行事で、この日を祝うために遊女はみな白無垢を着て、「花魁道中」を行った。吉原の年中行事「八朔」の由来には諸説あるが、とても寒い八朔を迎えたある年、夕霧太夫という遊女が白い袷ではなく白い小袖を着たことより、以後、白い小袖を着ることが慣例化したという説がある。のちに、その習慣は広がり、まだまだ暑さが残るこの時期に白無垢を着るという我慢や見栄が、江戸の『粋』だと言われていたそうだ。。
画像出典:静岡市葵区自治会連合会ブログ。
コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 坂下延命地蔵堂(さかしたえ... | トップ | 氏子衆やまめ祭りの注連を綯う »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (みづき)
2019-08-20 19:18:03
「いいね」をしなかっただけで絶縁とは、大人げないですね。

「吉原の秘技」とは単純に考えて下ネタしか思いつきませんでした。

歴史的な流れがあったのですね。


返信する
下ネタですよ。 (秋山白兎)
2019-08-27 10:41:48
吉原は遊郭ですから話はすべて色がらみです。
イイネをしなかったからではなくて自分の書いたブログに賛同しないばかりか否定的なコメントをよせたからだとおもいます。吉原の秘技なるものは未だに解りません。
返信する

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事