「日記」のブログ記事一覧(3ページ目)-日々是好舌

日々是好舌

青柳新太郎のブログです。
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鼻水と聞かば串童の鼻之助   白兎

2023年12月17日 11時17分05秒 | 日記

鼻水と聞かば串童の鼻之助   白兎

はなみづときかばかげまのはなのすけ

水洟(みづばな)は三冬の季語。子季語に、鼻水、みずつぱな。
冬の寒い時、風邪を引いていなくても、鼻の粘膜が刺激されて水のような鼻汁が出る。これが水洟である。
静岡市出身の有名人に十遍舎一九がいる。その戯作「東海道中膝栗毛」の発端に次のようにある。(現代語訳)
「武蔵野の 尾花がすえに かかる白雲」
武蔵野の広大なススキの原野が歌に詠まれたのも、昔むかし、まだ定家や西行が浦の苫屋や鴫立つ沢の夕暮れを愛でていたころのこと。
今や夕景色は、吉原仲の町の雑踏にかわり、井の中に鮎が泳ぐ水道が町中を流れ、土蔵の白壁立ち続く大江戸の賑わいっぷり。所せましと家々が立ち並び、漬けもの桶や明俵、破れ傘の置き所からも地主が金をふんだくれば、そりゃ他国から見たら大道に金銀でもまき散らしてあるのかと思って、「どれ、ひと稼ぎ」と後から後から人がやって来る。
その中に、駿河国府中生まれの栃面屋弥次郎兵衛という者がいた。親の代からの立派な商人で、百、二百の小判にはいつも困らぬ身分だったが、安倍川町の色酒におぼれ、旅役者の華水多羅四郎の弟子、鼻之助という若衆(男娼)に入れ込んで──その道にハマる。黄金のカマを掘り当て、夢ごこちでアホウのかぎりをつくせば、やがて身代にもトホウもない大穴を掘りあけ、尻のしまいは若衆とふたり、尻に帆かけて府中の町を夜逃げする。
「借金は富士の山ほどあるゆえに そこで夜逃げを駿河ものかな」
こうして二人は、人を足久保茶にするような軽口をたたいて江戸の町にやって来た。画像出典:不詳。
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椎茸の記録に伊豆国多し

2023年11月07日 12時10分45秒 | 日記


椎茸の記録に伊豆国多し    白兎

しひたけのきろくにいづのくにまねし

椎茸(しひたけ)は三秋の季語。子季語に、椎茸干す、茸干す、干茸。
椎茸(しいたけ)は、ハラタケ目-キシメジ科に分類されるキノコである。異説ではヒラタケ科・ホウライタケ科・ツキヨタケ科ともされる。
和名のシイタケは、特にシイ(椎)の倒木などに発生したことから、この名が付けられている。
中国では紀元前5000~4500年の浙江省の遺跡にきのこが出土している。唐時代の詩文にあり、五代時代には菌(きのこ)の記載があり、南宋時代は香椎と栽培法が記載されている。日本渡来は9世紀と考えられる。椎茸は天然の茸であるから、さぞかし昔から食べられていたことが推測されるが、文献に登場するのは意外に新しい。当時、日本で栽培されていた椎茸の多くは中国に輸出されており、最も古いのは、1237年に道元が宋(中国)に留学した際、日本船が着くと寺の老僧が乾シイタケ(倭椹)を買いに来たという話で、『典座教訓』に載っている。その後は1465年の日記に伊豆の円城寺(現・韮山町)から将軍足利義政に贈ったことが記録に残されている。また、『節用集』(当時の辞典、1495年)に登場するくらいで、あまり記録に残っていない。
『兎園小説』文政8年(1825年)という江戸時代の書物に日本のシイタケ栽培草創期の話がある。伊豆の岩地村という所に猟師の子で斉藤重蔵という者がいた。14歳の時、家を出てシイタケを作り、その商売のために諸国を歩き回っていたが、行方がわからなくなり、30年近くたった。ある日、豊後の岡という所から25両が岩地村へ送られてきた。ところが全然心当たりの無いことなので、一体誰が送金してきたのかと問い合わせたら、その昔、家を出た重蔵からであった。
干し椎茸にも傘の厚い順から「冬茹(どんこ)」「香茹(こうこ)」「香信(こうしん)」などの種別があり、それぞれ香りや味に個性があるが、いずれも食物繊維やミネラルは豊富で、低カロリーである。
シイタケの人工栽培がどこで始まったのかは諸説がある。一つは豊後国の炭焼き源兵衛が寛永の頃始めたという説、もう一つは豊後岡藩藩主中川家の記録で寛文4年シイタケの栽培技術を導入するために伊豆国三島の駒右衛門を招いたのが始まりという説。豊後・伊豆以外では、津藩が1700年代末に直営事業でおこなっており、1800年代には紀州藩、徳島藩、長州藩、土佐藩、人吉藩、薩摩藩、尾張藩、盛岡藩、宇和島藩、さらには蝦夷地(北海道)で栽培が広がっていた。
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海豚狩り安良里に残る供養之碑

2023年11月03日 12時06分41秒 | 日記

海豚狩り安良里に残る供養之碑   白兎

いるかがり あらりにのこる くやうのひ

海豚(いるか)は三冬の季語。子季語に、海豚狩、真海豚、ごんどう鯨。
クジラ類のうち、歯がある歯鯨類に属し、体長は大体五メートル以下。多くは背びれを持つ。知能が高く芸を仕込むこともできる。安良里出身の小学校の恩師から安良里漁港の海豚狩りの話は何度か聞いた。画像出典:おでかけたいむす。
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神宮に神嘗祭の神酒捧ぐ

2023年10月15日 16時14分43秒 | 日記


神宮に神嘗祭の神酒捧ぐ    白兎

じんぐうにかんなめさいのみきささぐ

神嘗祭(かんなめまつり)は晩秋の季語。子季語に、度会新嘗祭、かんなめさい、しんじやうさい。 
十月十七日、新穀で造った新酒と神饌とを、伊勢神宮に奉納し、五穀豊穣を感謝する祭礼。新嘗祭とともに、大切な国民の祭日であったが、戦後、現行憲法により廃止された。皇室では賢所で祭儀が、伊勢神宮でも祭礼がとり行われている。画像出典:伊勢志摩経済新聞。
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小流れに数多は要らぬ網代打 

2023年10月14日 12時26分37秒 | 日記


小流れに数多は要らぬ網代打  白兎

こながれにあまたはいらぬあじろうち

網代打(あじろうち)は晩秋の季語。子季語に、網代木打つ。
川や湖に杭などを打って、網代を作ること。網代は網の代わりに柴、竹などを編んで端に簀を設け、魚を捕る仕掛けである。画像出典:コトバンク。
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吹き鳴らす唇乾く瓢の笛

2023年10月13日 21時57分38秒 | 日記


吹き鳴らす唇乾く瓢の笛     白兎

ふきならすくちびるかわくひよんのふゑ

瓢の実(ひょんのみ)は晩秋の季語。子季語に、ひよん、蚊母樹の実、蚊母樹、蚊子木、瓢の笛。
実といわれているが果実ではなく、マンサク科のイスノキの葉に生じる虫瘤をいう。大きさは鶉の卵くらいになる。
イスノキの材は本州や四国に自生する木の中ではウバメガシと並んで非常に堅く重い部類となる。家具、杖の素材にされ、とくにイスノキ材の木刀は、薩摩示現流系統の剣術で使用されているのは有名。材や樹皮を燃やした灰(柞灰(いすばい))は陶磁器の釉の融剤とする。また、樹皮はトリモチの原料ともなる。樹皮を採取した後のイスノキを長く放置すると辺材が失われて心材のみとなるが、この心材をスヌケと呼ぶ。スヌケは濃い茶色で、磨くと光沢をもつ。
樹木そのものは乾燥に強く丈夫なので街路樹や生垣として栽培されることもある。 また、虫瘤(ひょんの実)は成熟すると表面が硬く、内部が空洞になり、出入り口の穴に唇を当てて吹くと笛として使える。これが別名ヒョンノキ(ひょうと鳴る木)の由来とも言われる。また、この虫こぶにはタンニンが含まれ、染料の材料として使われる。画像出典:英彦山からの便り。

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晩年は流刑に処さる世阿彌の忌

2023年09月08日 12時39分05秒 | 日記
晩年は流刑に処さる世阿彌の忌  白兎

ばんねんはるけいにしよさるぜあみのき

世阿弥忌(ぜあみき)は仲秋の季語。

世阿弥(ぜあみ、世阿彌陀佛) 嘉吉3年8月8日は、日本の室町時代初期の大和猿楽結崎座の猿楽師。父の観阿弥(觀阿彌陀佛)とともに猿楽を大成し、多くの書を残す。観阿弥、世阿弥の能は観世流として現代に受け継がれている。
足利義満の庇護のもと、父、観阿弥の猿楽を幽玄美の芸術に高め、能楽を大成した。「老松」「高砂」「実盛」などの多くの能を作り、「風姿花伝」「花鏡」などの著作がある。
静岡浅間神社(静岡市葵区)の楼門の傍らに「観阿弥の碑」が建てられている。世阿弥の記した『風姿花伝 第一 年来稽古条々』に「亡父にて候ひし者は、五十二と申しし五月十九日に死去せしが、その月の四日の日、駿河の国浅間の御前にて法楽仕る。その日の申楽ことに花やかにて、見物の上下、一同に褒美せしなり。」とあり、浅間神社は観阿弥終焉の地とされている。

義満の死後、将軍が足利義持の代になり、義持は猿楽よりも田楽好みであったため、義満のころほどは恩恵を受けられなくなる。義持が没し足利義教の代になると、弾圧が加えられるようになる。1422年、観世大夫の座を長男の観世元雅に譲り、自身は出家した。しかし将軍足利義教は、元雅の従兄弟にあたる観世三郎元重(音阿弥)を重用する。一方、仙洞御所への出入り禁止(1429年)、醍醐清滝宮の楽頭職罷免(1430年)など、世阿弥・元雅親子は地位と興行地盤を着実に奪われていった。
1432年、長男の観世元雅は伊勢安濃津にて客死した。失意の中、世阿弥も1434年に佐渡国に流刑される。1436年(永享8年)には『金島書』を著す。後に帰洛したとも伝えられるが、幼少時に参学した補巌寺に帰依し、世阿弥夫妻は至翁禅門・寿椿禅尼と呼ばれ、田地各一段を寄進したことが能帳に残っている。写真はFBフレンド伊藤彰さん撮影。
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義理に哭く婦系図や鏡花の忌

2023年09月07日 10時04分34秒 | 日記

義理に哭く婦系図や鏡花の忌    白兎

ぎりになくをんなけいずやきやうくわのき

鏡花忌(きやうくわき)は初秋の季語。
小説家、泉鏡花の忌日。九月七日。金沢に生まれる。尾崎紅葉に師事した。明治から昭和にかけて独自性のあるロマン主義文学の境地を開いた。代表作として『夜行巡査』、『高野聖』、『歌行灯』『婦系図』などがある。昭和十四年(一九三九)六十五歳で没した。
『婦系図』の主人公の早瀬主税(ちから)は陸軍参謀本部のドイツ語翻訳官。が、前歴は「隼(はやぶさ)の力(りき)」を名乗るスリだった。芸妓(げいぎ)だった恋人との仲を引き裂かれた彼は失意の中で故郷の静岡に戻り、ドイツ語塾を営みながら、出自や血筋にこだわる上流の者たちへの復讐を誓うのだ。ラスト、静岡の名門一族当主との対決シーンは市内の名所・久能山。しかもそれは日蝕の日であった。太陽が欠ける中で火を噴くピストル。圧巻の幕切れである。画像出典:あらら本店。
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桐一葉且元眠る誓願寺

2023年09月05日 09時27分56秒 | 日記

桐一葉且元眠る誓願寺     白兎

きりひとはかつもとねむるせいがんじ

桐一葉(きりひとは)は初秋の季語。子季語に、ひとは、一葉、一葉落つ、桐の葉落つ、桐散る、一葉の秋、桐の秋。
秋に桐の葉が落ちること。桐一葉、あるいは一葉という。本来の桐はアオギリ科の梧桐を指すがゴマノハグサ科の桐を含めて「桐」と称されている。
『桐一葉』(きりひとは)は、坪内逍遥作の歌舞伎の演目。関ヶ原の戦い後の大坂が舞台で、豊臣家の忠臣片桐且元の苦渋を描く。
片桐且元の墓は静岡市の大鑪山誓願寺にある。
中国には『淮南子』や『文禄』に、「梧桐一葉落天下盡知秋」すなわち「梧桐の一葉が落ちて天下の秋を知らせる」という諺があり、「桐一葉」はその諺を俳句(俳諧)の季語として使うために縮めたものと考えられる。画像出典:誓願寺。
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正史にはみえぬ金山梅ヶ島

2023年08月17日 13時31分40秒 | 日記

大正2年(西暦1913年)に編集された『安倍郡梅ヶ島村誌』より、梅ヶ島の金山の起源についての記述があるので、以下に原文を読みやすくしてご紹介する。
「本村字関之沢なる旧家秋山英一郎氏方所蔵明和二年(西暦1765年)七月(大正元年より百四十八年前)時の郡代小田切新五郎様御役所宛として仝(同)家の祖名主儀兵衛外百姓代二名組頭等の連署を以て差出したる「梅ヶ島村御金山申伝之覚」(写しならん)なるものあり。
其前文に左の如き一節あり、
駿州安倍郡梅ヶ島村御金山の儀者仁皇十七代豫に仁徳天皇の時 黄金献候由申伝使 右の後延喜二年(西暦902年)黄金出申候由申伝候又候 中絶仕候各享禄年中(西暦1528年から1531年)御山繁昌仕此節を元栄と申伝候云々」(以上『安倍郡梅ヶ島村誌』大正2年)。

第16代天皇とされる仁徳天皇の時に梅ヶ島から金を献上したとある。仁徳天皇(神功皇后摂政57年~仁徳天皇87年1月16日)は、日本の第16代天皇。『日本書紀』での名は大鷦鷯天皇。その業績から聖帝(ひじりのみかど)とも称される。
仁徳天皇は神功皇后57年(257年)の生まれであり、3世紀から4世紀の人である。このころには梅ヶ島の温泉も発見されていたはずだという推測が、「1700年の歴史ある梅ヶ島温泉」の根拠となっている。
ところで、『続日本紀』には、文武天皇2(698)年3月に因幡国から、同年9月にも周防国(現在の山口県西部)から銅鉱が献上されたという記事が記載されている。梅ヶ島村の金については、『古事記』にも『日本書紀』にも『続日本紀』にも記録が無いようである。
閑話休題。
梅ヶ島温泉の北側、山梨県南巨摩郡早川町西山温泉「慶雲館」は、慶雲2年(西暦705年)に藤原鎌足の長男、真人が開湯したという言い伝えがある。
当時の源泉から今日まで一度も涸れることなく、こんこんと湧き続けており2011年には「ギネスワールドレコーズ」で「世界で最も古い歴史を持つ宿」に認定された。
藤原真人は藤原鎌足の長子で学僧として渡唐し、出家し定恵と名乗っていた。
真人は、この地方に流浪し「柳が島」に住んでいたが土地の娘をめとり双児の兄弟をもうけた。名を兄が四郎長磨、弟を六郎寿磨と名づけたという。
ある日、真人は狩猟の途中、湯川のほとりにさしかかった時、岩の間より盛んに噴き出している熱湯を偶然に発見した。試みに入ってみたところ、神気爽快、四肢軽快、今までの疲れもすっかり治ってしまったので大変驚き、また喜んだ。その後、真人は険しい山の中に道を開き、湯つぼを造らせた。やがて「近隣に隠れた名湯あり」とまで諸村に伝えられるようになった。慶雲2年3月のことであり、これが、西山温泉の起源と伝えられている。
医薬品らしいもののなかった往古の時代、病弱に苦しむ人々が湯治に訪れるようになり、西山温泉に入浴する人の数は年ごとに増えるようになっていった。
また、天平宝字2年(758年)には、46代 孝謙天皇がご不例のため吉野に移られた時、この西山の霊泉が夢枕にたち、京よりはるばる80人もの供を引き連れ慶雲館まで湯治に来られ、20日余りで全快されたという伝説も残っている。
私は、正史に記録もない梅ケ島金山と温泉の開湯を仁徳天皇の御代1700年前にしたいのは、西山温泉を意識してのことではないかと理解している。

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