日々是好舌

青柳新太郎のブログです。
人生を大いに楽しむために言いたい放題、書きたい放題!!
読者のコメント歓迎いたします。

神宮に神嘗祭の神酒捧ぐ

2023年10月15日 16時14分43秒 | 日記


神宮に神嘗祭の神酒捧ぐ    白兎

じんぐうにかんなめさいのみきささぐ

神嘗祭(かんなめまつり)は晩秋の季語。子季語に、度会新嘗祭、かんなめさい、しんじやうさい。 
十月十七日、新穀で造った新酒と神饌とを、伊勢神宮に奉納し、五穀豊穣を感謝する祭礼。新嘗祭とともに、大切な国民の祭日であったが、戦後、現行憲法により廃止された。皇室では賢所で祭儀が、伊勢神宮でも祭礼がとり行われている。画像出典:伊勢志摩経済新聞。

小流れに数多は要らぬ網代打 

2023年10月14日 12時26分37秒 | 日記


小流れに数多は要らぬ網代打  白兎

こながれにあまたはいらぬあじろうち

網代打(あじろうち)は晩秋の季語。子季語に、網代木打つ。
川や湖に杭などを打って、網代を作ること。網代は網の代わりに柴、竹などを編んで端に簀を設け、魚を捕る仕掛けである。画像出典:コトバンク。

吹き鳴らす唇乾く瓢の笛

2023年10月13日 21時57分38秒 | 日記


吹き鳴らす唇乾く瓢の笛     白兎

ふきならすくちびるかわくひよんのふゑ

瓢の実(ひょんのみ)は晩秋の季語。子季語に、ひよん、蚊母樹の実、蚊母樹、蚊子木、瓢の笛。
実といわれているが果実ではなく、マンサク科のイスノキの葉に生じる虫瘤をいう。大きさは鶉の卵くらいになる。
イスノキの材は本州や四国に自生する木の中ではウバメガシと並んで非常に堅く重い部類となる。家具、杖の素材にされ、とくにイスノキ材の木刀は、薩摩示現流系統の剣術で使用されているのは有名。材や樹皮を燃やした灰(柞灰(いすばい))は陶磁器の釉の融剤とする。また、樹皮はトリモチの原料ともなる。樹皮を採取した後のイスノキを長く放置すると辺材が失われて心材のみとなるが、この心材をスヌケと呼ぶ。スヌケは濃い茶色で、磨くと光沢をもつ。
樹木そのものは乾燥に強く丈夫なので街路樹や生垣として栽培されることもある。 また、虫瘤(ひょんの実)は成熟すると表面が硬く、内部が空洞になり、出入り口の穴に唇を当てて吹くと笛として使える。これが別名ヒョンノキ(ひょうと鳴る木)の由来とも言われる。また、この虫こぶにはタンニンが含まれ、染料の材料として使われる。画像出典:英彦山からの便り。


晩年は流刑に処さる世阿彌の忌

2023年09月08日 12時39分05秒 | 日記
晩年は流刑に処さる世阿彌の忌  白兎

ばんねんはるけいにしよさるぜあみのき

世阿弥忌(ぜあみき)は仲秋の季語。

世阿弥(ぜあみ、世阿彌陀佛) 嘉吉3年8月8日は、日本の室町時代初期の大和猿楽結崎座の猿楽師。父の観阿弥(觀阿彌陀佛)とともに猿楽を大成し、多くの書を残す。観阿弥、世阿弥の能は観世流として現代に受け継がれている。
足利義満の庇護のもと、父、観阿弥の猿楽を幽玄美の芸術に高め、能楽を大成した。「老松」「高砂」「実盛」などの多くの能を作り、「風姿花伝」「花鏡」などの著作がある。
静岡浅間神社(静岡市葵区)の楼門の傍らに「観阿弥の碑」が建てられている。世阿弥の記した『風姿花伝 第一 年来稽古条々』に「亡父にて候ひし者は、五十二と申しし五月十九日に死去せしが、その月の四日の日、駿河の国浅間の御前にて法楽仕る。その日の申楽ことに花やかにて、見物の上下、一同に褒美せしなり。」とあり、浅間神社は観阿弥終焉の地とされている。

義満の死後、将軍が足利義持の代になり、義持は猿楽よりも田楽好みであったため、義満のころほどは恩恵を受けられなくなる。義持が没し足利義教の代になると、弾圧が加えられるようになる。1422年、観世大夫の座を長男の観世元雅に譲り、自身は出家した。しかし将軍足利義教は、元雅の従兄弟にあたる観世三郎元重(音阿弥)を重用する。一方、仙洞御所への出入り禁止(1429年)、醍醐清滝宮の楽頭職罷免(1430年)など、世阿弥・元雅親子は地位と興行地盤を着実に奪われていった。
1432年、長男の観世元雅は伊勢安濃津にて客死した。失意の中、世阿弥も1434年に佐渡国に流刑される。1436年(永享8年)には『金島書』を著す。後に帰洛したとも伝えられるが、幼少時に参学した補巌寺に帰依し、世阿弥夫妻は至翁禅門・寿椿禅尼と呼ばれ、田地各一段を寄進したことが能帳に残っている。写真はFBフレンド伊藤彰さん撮影。

義理に哭く婦系図や鏡花の忌

2023年09月07日 10時04分34秒 | 日記

義理に哭く婦系図や鏡花の忌    白兎

ぎりになくをんなけいずやきやうくわのき

鏡花忌(きやうくわき)は初秋の季語。
小説家、泉鏡花の忌日。九月七日。金沢に生まれる。尾崎紅葉に師事した。明治から昭和にかけて独自性のあるロマン主義文学の境地を開いた。代表作として『夜行巡査』、『高野聖』、『歌行灯』『婦系図』などがある。昭和十四年(一九三九)六十五歳で没した。
『婦系図』の主人公の早瀬主税(ちから)は陸軍参謀本部のドイツ語翻訳官。が、前歴は「隼(はやぶさ)の力(りき)」を名乗るスリだった。芸妓(げいぎ)だった恋人との仲を引き裂かれた彼は失意の中で故郷の静岡に戻り、ドイツ語塾を営みながら、出自や血筋にこだわる上流の者たちへの復讐を誓うのだ。ラスト、静岡の名門一族当主との対決シーンは市内の名所・久能山。しかもそれは日蝕の日であった。太陽が欠ける中で火を噴くピストル。圧巻の幕切れである。画像出典:あらら本店。

桐一葉且元眠る誓願寺

2023年09月05日 09時27分56秒 | 日記

桐一葉且元眠る誓願寺     白兎

きりひとはかつもとねむるせいがんじ

桐一葉(きりひとは)は初秋の季語。子季語に、ひとは、一葉、一葉落つ、桐の葉落つ、桐散る、一葉の秋、桐の秋。
秋に桐の葉が落ちること。桐一葉、あるいは一葉という。本来の桐はアオギリ科の梧桐を指すがゴマノハグサ科の桐を含めて「桐」と称されている。
『桐一葉』(きりひとは)は、坪内逍遥作の歌舞伎の演目。関ヶ原の戦い後の大坂が舞台で、豊臣家の忠臣片桐且元の苦渋を描く。
片桐且元の墓は静岡市の大鑪山誓願寺にある。
中国には『淮南子』や『文禄』に、「梧桐一葉落天下盡知秋」すなわち「梧桐の一葉が落ちて天下の秋を知らせる」という諺があり、「桐一葉」はその諺を俳句(俳諧)の季語として使うために縮めたものと考えられる。画像出典:誓願寺。

正史にはみえぬ金山梅ヶ島

2023年08月17日 13時31分40秒 | 日記

大正2年(西暦1913年)に編集された『安倍郡梅ヶ島村誌』より、梅ヶ島の金山の起源についての記述があるので、以下に原文を読みやすくしてご紹介する。
「本村字関之沢なる旧家秋山英一郎氏方所蔵明和二年(西暦1765年)七月(大正元年より百四十八年前)時の郡代小田切新五郎様御役所宛として仝(同)家の祖名主儀兵衛外百姓代二名組頭等の連署を以て差出したる「梅ヶ島村御金山申伝之覚」(写しならん)なるものあり。
其前文に左の如き一節あり、
駿州安倍郡梅ヶ島村御金山の儀者仁皇十七代豫に仁徳天皇の時 黄金献候由申伝使 右の後延喜二年(西暦902年)黄金出申候由申伝候又候 中絶仕候各享禄年中(西暦1528年から1531年)御山繁昌仕此節を元栄と申伝候云々」(以上『安倍郡梅ヶ島村誌』大正2年)。

第16代天皇とされる仁徳天皇の時に梅ヶ島から金を献上したとある。仁徳天皇(神功皇后摂政57年~仁徳天皇87年1月16日)は、日本の第16代天皇。『日本書紀』での名は大鷦鷯天皇。その業績から聖帝(ひじりのみかど)とも称される。
仁徳天皇は神功皇后57年(257年)の生まれであり、3世紀から4世紀の人である。このころには梅ヶ島の温泉も発見されていたはずだという推測が、「1700年の歴史ある梅ヶ島温泉」の根拠となっている。
ところで、『続日本紀』には、文武天皇2(698)年3月に因幡国から、同年9月にも周防国(現在の山口県西部)から銅鉱が献上されたという記事が記載されている。梅ヶ島村の金については、『古事記』にも『日本書紀』にも『続日本紀』にも記録が無いようである。
閑話休題。
梅ヶ島温泉の北側、山梨県南巨摩郡早川町西山温泉「慶雲館」は、慶雲2年(西暦705年)に藤原鎌足の長男、真人が開湯したという言い伝えがある。
当時の源泉から今日まで一度も涸れることなく、こんこんと湧き続けており2011年には「ギネスワールドレコーズ」で「世界で最も古い歴史を持つ宿」に認定された。
藤原真人は藤原鎌足の長子で学僧として渡唐し、出家し定恵と名乗っていた。
真人は、この地方に流浪し「柳が島」に住んでいたが土地の娘をめとり双児の兄弟をもうけた。名を兄が四郎長磨、弟を六郎寿磨と名づけたという。
ある日、真人は狩猟の途中、湯川のほとりにさしかかった時、岩の間より盛んに噴き出している熱湯を偶然に発見した。試みに入ってみたところ、神気爽快、四肢軽快、今までの疲れもすっかり治ってしまったので大変驚き、また喜んだ。その後、真人は険しい山の中に道を開き、湯つぼを造らせた。やがて「近隣に隠れた名湯あり」とまで諸村に伝えられるようになった。慶雲2年3月のことであり、これが、西山温泉の起源と伝えられている。
医薬品らしいもののなかった往古の時代、病弱に苦しむ人々が湯治に訪れるようになり、西山温泉に入浴する人の数は年ごとに増えるようになっていった。
また、天平宝字2年(758年)には、46代 孝謙天皇がご不例のため吉野に移られた時、この西山の霊泉が夢枕にたち、京よりはるばる80人もの供を引き連れ慶雲館まで湯治に来られ、20日余りで全快されたという伝説も残っている。
私は、正史に記録もない梅ケ島金山と温泉の開湯を仁徳天皇の御代1700年前にしたいのは、西山温泉を意識してのことではないかと理解している。


ねじ式忌 その人徳を 偲びけり

2023年06月30日 14時52分42秒 | 日記
 現代俳句協会の千葉県協会長であり本部IT部長を務めていた大畑等氏は2016年1月10日に急逝されました。前年の12月半ばに倒れ、入院したものの、回復が叶わず、1月10日午後亡くなった。65歳という若さだった。

大畑等(おおはた・ひとし)

1950年、和歌山県新宮市生れ。
早稲田大学理工学部建築科、同大大学院理工学研究科卒業。
千葉県船橋市。一級建築士事務所・大畑建築設計事務所代表取締役。
千葉県在住。建築士。
昭和63年「麦」の東京研究会にて田沼文雄の指導を受ける。
「遊牧」同人、
「西北の森」会員。
「麦新人賞」
「麦作家賞」
「現代俳句評論賞」受賞。
私家版句集「むぎ懲役」、共著「おおいとⅡ」、『ねじ式』。など、現代俳句の期待の作家であった。

(主要作品)
うしろから突き落とされて滝である
おにはにはにはにはとりがゐるはるは
くびれつつ実るものあり秋の暮
なめくじりいちいち尻を見るなかれ
なんと気持ちのいい朝だろうああのるどしゅわるつねっがあ
ねじ式で卵うみたる秋のマリア
のどぼとけ明日鳴るはずの非常ベル
ぼんの凹私と蛇がよじれ合う
みの虫の百ほど垂れて家建てる
らっきょう噛めば解体新書の音する
三島忌やまだうら若き洗面器
不惑とは何ぞ新茶はなまぐさし
人形より遅れて人間杖をつき
前略百年同じところのがまがえる
大いなる籠を探せり冬の鵙
嫁が君渡世は意外に簡単だ
心は腸である高感度フィルム
心臓を乱用したり秋の蠅
愛あれば死んだふりする田螺かな
我が頭跨がれやすき彼岸過
月蝕下大根おろしがうまくすれた
栓抜を探しておりぬ秋の蛇
梅雨空や遺書書くまえに落書きす
歎異抄屈伸運動しておりぬ
水平線にうどんを垂らす頭痛かな
流星群来よ大根を煮ておくから
父にしあれば枯野のなかを内出血
男の首絞めたり葱を作ったり
絶対電柱少女ぎしぎし歩く
葛の花産湯さびしく出でしかな
薔薇の園笑い過ぎても死にますよ
踏んづけて亀を鳴かせり十二使徒
仏壇をたたき壊して浅草寺
黒に黒かさねて女薄目せり
予言書に白いコートがぶらさがる
ざっくりと地獄見てきし色眼鏡

 インターネット俳句会ではG1クラスの講評を担当。高得点句に対しては、辛口の指摘で更なる精進を促し、0点の句の中から丁寧に選んだ注目句に対しては、その良さを褒め、励まし、愛情溢れる文章であった。小生は0点常習者であったから前後数回の講評をいただいている。

 小生は大畑等先生の前任管理者から除名処分を受けていたが、先生から名誉回復をしていただき、同時に現代俳句協会加入の推薦人を引き受けていただいた。小生にとっては俳句界に於ける最大の恩人であった。深く感謝し、心からご冥福をお祈りします。

白兎の句 ついに英訳 されました

2023年06月27日 19時34分16秒 | 日記
 群馬在住の俳人・国比呂さんという方の「上州俳句茶屋」というサイトに「上州諷詠」というページがあって、上州(群馬)の風物を詠い込んだ俳句を紹介している。



<迦葉山>  夏木立迦葉天狗と遊びけり     白兎
<上州>   上州の風ひりひりと野良の梅    たかし
<上州>   上州に入るいきなりの春みぞれ   久栄
<上州>   上州を訪へば茶受けの夏蕨     珪子
<空っ風>  上州の空っ風さへなく晴れて    汀子
<前橋市>  前橋は母の故郷霜夜明け      立子
<榛名山>  種蒔や萬古ゆるがず榛名山     鬼城
<榛名山>  竹秋や布団干し居る榛名駕     元
<赤城榛名> 麥浪や赤城榛名も程近く      春夫
<榛名山>  雲少し榛名を出でぬ秋の空     漱石
<高崎観音> ほほえみは碧空にあり初観音    康弘
<浅間山>  浅間から分かれて来るや小夕立   一茶
<赤城山>  赤城から男体にかけ大根干す    等
<前橋市>  前橋の初市風に明けにけり     蓼穂
<妙義山>  福だるま妙義は雲を飛ばしけり   青児
<浅間山>  上州に友あり親し初浅間      鉄之介
<嬬恋村>  じゃがたらの花裾野まで嬬恋村   伊昔紅
<嬬恋村>  嬬恋に玉菜すすぎの雨いたる    忠男
<赤城榛名> 寒月に雲跳飛ぶ赤城榛名かな    碧梧桐
<榛名富士> 榛名富士雨後のみどりの濃かりけり 喜久子
<赤城榛名> 元旦や赤城榛名の峰明り      鬼城
<赤城>   秋霞赤城をとほき山とせり     秋桜子
<谷川岳>  雪崩して谷川岳はなほ拒む     青畝
<妙義山>  秋風や野に一塊の妙義山      蛇笏
<榛名富士> 榛名富士映る湖畔にキャンプ張り  章
<一の倉沢> 雲飛び去り一の倉沢梅雨月夜    日郎
<荒船山>  柿すだれ荒船山の下に住む     霜舟
<榛名山>  氷解けて桜咲くなり榛名山     子規
<谷川岳>  谷川岳天そそる巌の雪被たる    日郎
<碓氷峠>  火の見高う碓氷峠や冬の山     碧童
<湯桧曽川> 栗咲くや月夜翳濃き湯桧曽川    羊村
<赤城山>  何時とて赤城降ろしや玉子酒    利正
<空つ風>  空つ風村は大地にしがみつく    等
<赤城山>  迅雷や黒檜の肩のうるし雲     うしほ
<赤城山>  一村の吹き流しみな赤城指す    銀葉
<榛名山>  榛名山大霞して真昼かな      鬼城
<上 州>  上州の寒さ半鐘いまも吊り     昭彦
<碓氷峠>  芒咲く車まばらな旧碓氷      きらら
<妙義山>  秋風や妙義の岩に雲はしる     子規
<妙義山>  凩や妙義が嶽にうすづく日     鬼城
<嬬恋>   葛咲くや嬬恋村の字いくつ     波郷

 松本たかし、稲畑汀子、星野立子、村上鬼城、島村元(はじめ)、夏目漱石、小林一茶、瀬尾蓼穂、大嶽青児、松崎鉄之介、河東碧梧桐、水原秋桜子、阿波野青畝、飯田蛇笏、岡田日郎、正岡子規、倉橋羊村、富田うしほ、吉田銀葉、金子伊昔紅、小澤碧童、石田波郷などなど俳句界の巨星がずらりと名前を連ねている。

 康弘とは地元群馬の大政治家で俳人でもあるあの大勲位・中曽根康弘元総理である。

 その中に <迦葉山>  夏木立迦葉天狗と遊びけり  白兎   と、あるのは誰あろう不肖秋山白兎(はくと)なのだから尻の穴の周りがこそばゆいことこの上もない。この句は俳句を始めたばかりのころどこかのサイトへ投句したものであるが幸いにも国比呂さんの御眼にとまって「上州諷詠」に収録していただいたものとこころより感謝している。

 迦葉山は、高尾山薬王院、鞍馬寺と共に「日本三大天狗」と言われている。沼田市街地から北方約16km、武尊山系に連なる深山幽谷の浄域にあり、春は新緑、夏は霊鳥「仏法僧」の声を聞き、秋は全山紅葉、冬は白雪四囲を覆う。

 弥勒寺(みろくじ)は嘉祥元(848)年に開創。桓武天皇の皇子・葛原親王の発願により天台宗比叡山座主・慈覚大師を招いて第一世とされ、康正2(1456)年、曹洞宗に改宗され、徳川初代将軍の祈願所として御朱印百石・十万石の格式を許された由緒あるお寺である。
 迦葉山参りでは、最初の年、中峰堂から天狗面を借りて帰り、次にお参りする機会に借りた面を持ち、さらに門前の店で新しい面を求めて添え、寺に納め、また別の面を借りてくるという、ならわしになっている。

 さて、英訳されたというのはOmamori - Japanese Amuletsというサイトに掲載されている。

夏木立迦葉天狗と遊びけり  
natsu kodachi Kashoo Tengu to asobikeri

trees in summer -
we play with the tengu
of Mount Kashoozan    

Shiro-usagi 白兎

Haiku from Joshu 上州俳句茶屋
source : musasi555jp

と、いうことで、私の俳号がシロウサギになっているのはいささか遺憾であるが、これも国比呂さんの「上州俳句茶屋」から転載されている。私は英語はさっぱりなのでOmamori - Japanese Amuletsというサイトのことも含めて詳しくお解かりになる方はぜひご教授願いたい。

若竹を叩いて晒すおかんじゃけ

2023年06月20日 21時41分06秒 | 日記

オカンジャケは、静岡市葵区羽鳥の曹洞宗の名刹久住山洞慶院の祭日(7月19日~20日)に 境内参道で売られる竹製の玩具。若竹の先の部分を叩いて麻糸の様につぶし、彩色したもので「おかん」は髪の毛「じゃけ」は竹の転訛といわれ‟お髪竹”の訛とも考えられている。

オカンジャケはその年の新竹(真竹)を用いた極めて素朴な作り物で、その二節を伐りとって、一節は手持ち用、あとの一節は、叩いて裂いて繊維状にする。洞慶院のオカンジャケは、この繊維状の房を鮮やかな三色(赤、黄、紫)に染めた縁起物であるが、もとは子供達が河原に出てこれを作り、男の子は采配に、女の子はその房を髪に見立てた人形遊びをする、いわば郷土玩具の一つであった。

今からおよそ560年前の宝徳2年(1450年)、「怒仲天誾禅師」の教えを受け継いだ弟子の「石叟円柱大和尚」がこの地に訪れ、建穂山麗の「喜慶庵」に泊まった。その夜、突如現れた白狐のお告げにより、久住山の麓に法場(てら)を開くことになったのである。

時の守護である「福島伊賀守」は、深く石叟に帰衣して土地を寄進。この地の石上氏の協力と、石叟の法弟「大巌宗梅大和尚」も実務をつかさどり享徳元年(1452年)一棟を建立し、伊賀守の法名により「洞慶院」と称した。現住職の二代前の瑞岳廉芳大和尚は本山永平寺の77世貫首を務めた。

洞慶院に最も近く「門前」と呼ばれる福島家は愚生の伯母の嫁ぎ先で従兄はよく老梅林園の剪定などをしていた。画像出典:久住山洞慶院。