日々是好舌

青柳新太郎のブログです。
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若竹を叩いて晒すおかんじゃけ

2023年06月20日 21時41分06秒 | 日記

オカンジャケは、静岡市葵区羽鳥の曹洞宗の名刹久住山洞慶院の祭日(7月19日~20日)に 境内参道で売られる竹製の玩具。若竹の先の部分を叩いて麻糸の様につぶし、彩色したもので「おかん」は髪の毛「じゃけ」は竹の転訛といわれ‟お髪竹”の訛とも考えられている。

オカンジャケはその年の新竹(真竹)を用いた極めて素朴な作り物で、その二節を伐りとって、一節は手持ち用、あとの一節は、叩いて裂いて繊維状にする。洞慶院のオカンジャケは、この繊維状の房を鮮やかな三色(赤、黄、紫)に染めた縁起物であるが、もとは子供達が河原に出てこれを作り、男の子は采配に、女の子はその房を髪に見立てた人形遊びをする、いわば郷土玩具の一つであった。

今からおよそ560年前の宝徳2年(1450年)、「怒仲天誾禅師」の教えを受け継いだ弟子の「石叟円柱大和尚」がこの地に訪れ、建穂山麗の「喜慶庵」に泊まった。その夜、突如現れた白狐のお告げにより、久住山の麓に法場(てら)を開くことになったのである。

時の守護である「福島伊賀守」は、深く石叟に帰衣して土地を寄進。この地の石上氏の協力と、石叟の法弟「大巌宗梅大和尚」も実務をつかさどり享徳元年(1452年)一棟を建立し、伊賀守の法名により「洞慶院」と称した。現住職の二代前の瑞岳廉芳大和尚は本山永平寺の77世貫首を務めた。

洞慶院に最も近く「門前」と呼ばれる福島家は愚生の伯母の嫁ぎ先で従兄はよく老梅林園の剪定などをしていた。画像出典:久住山洞慶院。

ご依頼に応じて記事を削除した

2023年06月17日 11時02分52秒 | 日記
最近、10年ほど前に『日々是好舌』書いた記事の削除依頼があったので直ちに削除した。それにしもよく見つけたものだと感心した。

湧水の雷井戸は霊水ぞ

2023年06月10日 10時31分42秒 | 旅行

静岡県三島市南本町の民家の脇で大切に管理されている井戸が「雷井戸」。井戸保存のために、市民の有志が土地を買い上げて保存活動を続けている。三島は昭和30年代中頃までは、街のあちらこちらで湧水が見られたが、雷井戸もその一つ。水量は減ったものの、現在でも一年を通してこんこんと水が湧き出ている。

この井戸はかつて田町水道と呼ばれる地域住民の飲料水を供給する簡易水道の水源であった。
雷井戸は、源兵衛川や水の苑緑地の近くにある。住宅街を抜けた先の少し分かりにくい場所であるが、道の分岐点には案内板が設置されている。

この付近には「南本町湧水群」と言われる数多くの湧水があり、その一つの水源として雷井戸は地域住民の生活を支えていた。

三島梅花藻は、1930年(昭和5年)に三島の楽寿園で発見された水草で、水の量・温度・質のどれもが良い条件でないと育たないというデリケートな性質。
この水草が群生しているということは、その水がきれいな水であるという証拠となり、水質のバロメーターとも言われる。

画像は旅行サイト「たびらい」からお借りしました。

鬼岩寺に祀る黒犬物語り

2023年06月04日 12時20分05秒 | 日記

【山号寺号】楞厳山鬼岩寺(りょうごんざん きがんじ)
【所在地】藤枝市藤枝3-16-14
【宗 派】高野山真言宗
【本 尊】聖観世音菩薩 行基菩薩作
【由緒縁起】
神亀3年(726年)に行基上人により開創されたと伝わる古刹です。寺名は、寺の裏山にある鬼岩(おにいわ)と言われる巨岩・岩穴に由来しており、弘法大師空海が人々を苦しめる鬼を封じ込めた岩穴と伝えられています。境内には鬼が爪を研いだ跡と言われる「鬼かき石」が安置されているほか、黒犬伝説と神犬クロを祀る「黒犬神社」があります。その他、境内からは南北朝から戦国時代までの中世の石塔が多数見つかっており、貴重な歴史資料として市の有形文化財に指定されています。
古代、東海道が直角に曲がる角に位置する鬼岩寺が、旅人の布施屋(宿泊施設)と、街道の魔魅降伏の機能を併せ持ち、その後、一時衰退するが、平安末期には密教寺院として再興され、そして中世、北条氏の影響下で真言律宗に転じ、南北朝時代は今川氏の保護のもと、三昧所(葬地)としての性格を併せ持つようになったとされています。

【弘法大師と魔魅の岩】
 開創してから百年程過ぎた弘仁年間(810~823)、鬼岩寺のあたりに悪い鬼が住んでいて、村人を苦しめていた。ちょうどそこへ弘法大師が通りかかり、鬼退治をしてもらうことになった。大師は不動尊の像を描くと、七日七夜の祈祷を始めました。満願の日、ついに鬼は捕らえられ、大きな岩の中に封じ込まれてしまいました。その岩をよく見るとたくさんの穴があいています。それが鬼を封じ込めたときにできた穴で、以来その岩は「鬼岩」と呼ばれるようになり、また、そこにできたお寺を鬼岩寺と呼ぶようになったのだそうです。
今でも寺の裏山には岩穴があり「鬼岩」とか「魔魅の岩」と呼んでいる。また鬼が鋭い爪を研いだと言われる傷あとの残った「鬼かき岩」(学者の説では玉を研いだ石であると言う)が境内に安置されている。
 その後、鬼岩寺は有名になり、建久3年(1192)には、鳥羽天皇が先帝後白河法皇の追善供養のため、法皇所持の仏舎利二粒を宝塔に入れて鬼岩寺に奉納したという。
【静照上人大蛇退治】
 平安末期の長寛年間(1163~1164)、鬼岩寺の南方2.5キロ程の村の大池に大蛇(竜)が住みついていた。この大蛇は池の近くを通る人々を次々に飲み込んでしまうので、村人たちは困りはてていた。鬼岩寺二世住職であった静照上人は、池のまわりの丘に7ヶ所の護摩壇を築き、天台宗三井寺開山智証大師円珍(814~892)の刻んだ不動明王を祀り、大蛇退散の不動護摩の修法を行った。さしもの大蛇もその法力によって教化され封じ込まれ、広大な池の水も干上って陸地となり、後には田畑として利用されるようになった。霊験あらたかなこの不動明王は、承安3年(1173)鬼岩寺境内に不動堂を築き安置した。人呼んで「池旱不動・いけほすふどう」と称し、今でも多くの人々に篤く信仰されている。鬼岩寺の正面の不動堂に安置され、最近、市の文化財に指定された本尊がこの不動明王である。左の眼は天をにらみ、右の眼は地を見つめている天地眼の不動尊像である。天台宗寺門派では天地眼の不動明王を祀る特徴を持っているから、慈覚大師との関係は深いと言える。
 大蛇を退治した鬼岩寺の静照は、戒走慧三学を究めた名僧として広く知られ、後に源頼朝からも帰依された。頼朝は純錦の自分の礼服をお袈裟に仕立て直して、静照に賜ったと言う。鬼岩寺ではこの静照を中興開山としてあがめている。
 この静照の大蛇退治の伝説は「水上池の悪竜退治」の伝説として、水上村万福寺、志太の九景寺等の開創縁起として伝えられている。それぞれ内容は少しずつ異っているが、水上という地名でもわかるように、大きな池(低湿地帯)があった。中世の時代水上池を開拓し、田畑に変え、食糧の増産を図るため、僧侶による宗教的・技術的指導の下で土地開発が行われた。この開発が伝説として伝えられたのであると、磯部武男氏の優れた学問的研究「水上池の悪霊退治伝説について」(藤枝市郷土博物館紀要三)があるので参照されたい。
【足利義満・足利義教宿泊】 鎌倉時代に入っても鬼岩寺はこの地区の名利として街道に名が知られ、名僧が住職となっている。永仁年間(1293~1298)には良観上人が、また後には鎌倉極楽寺開山の忍性上人が住職となり、二重塔を建立し、その中には、書写した大蔵経を納めたと言われている。
 嘉慶2年(1388)、足利幕府3代将軍義満は、富士山を見物のため下向した時、この鬼岩寺に宿泊した。さらに永享4年(1432年)9月17日、室町幕府の将軍・足利義教は富士山を見るために 大勢の家来を従えて駿河に下りました。駿府に入る前日、将軍は鬼岩寺に一泊しました。その時、裏山に上がって高草山越しに富士山を見物し、和歌を詠みました。それ以後、将軍が富士山を眺めた場所を富士見平と呼ぶようになったのだそうです。富士見平と呼ばれるところには、4世紀末から6世紀にかけて造られた古墳群があります。市内でも最も古い古墳群で、28基の古墳が整然と並んでいます。現在、蓮華寺池公園「古墳の広場」として保存整備されています。
この時のことは、『続太平記』『今川記』『富士御覧日記』等にも詳しく記されている。将軍義教は鎌倉公方の足利持氏に将軍の権威を誇示するため「富士遊覧」と称して、大行列を仕立てて京都から駿河国に下った。飛鳥井雅世、三条実雅、勧修寺教秀の公家や歌人や殿上人の他に、一説には6千騎ともいわれる武士を率いて、「山も川もとどろき渡りけり。」と称される程の大部隊を伴って大井川を越えて来た。駿河国守護職今川範政が出迎え、一行は鬼岩寺に1泊した。帰路にも1泊し、この時鬼岩寺裏の岩田山に富士山を眺めるための望事を築いたという。この故事によってこの山を「富士見平」とか「天がすみ」と呼ばれ、高草山の山越しに富士山が眺められることで有名になった。
文明5年(1473) 歌人の釈正広は富士見平にて、「富士はなお上にぞ見ゆる藤枝や高草山の峰の白雲」という歌を残している。
【飛行舎利】
1568年(永禄11年)より駿河侵攻を開始した武田信玄は、1570年(永禄13年)正月、城主・大原資良以下今川家臣の立て籠もる花沢城に攻め入った。信玄は高草山中腹に布陣し、武田勝頼・武田信廉・長坂長閑らが攻撃を行った。城兵は14日間に渡り奮戦したが、同月27日に降参し開城、大原資良は遠江に退去したと伝わる。月末には田中城を攻略した。この時、武田軍は飽波神社、清水寺、東光寺、遍照光寺等の名だたる神社仏閣を焼き払った。鬼岩寺もこの兵火によって本尊の聖観世音菩薩を除いて貴重な寺宝や記録が残らず焼失した。この時、鳥羽天皇が奉納した仏舎利二粒は、燃えさかる炎の中を飛び出したので、「飛行の舎利」と呼ばれた。信玄はこの舎利を甲斐に持ち帰り、武田勝頼の手を経て高野山に奉納した。江戸時代に入ってから高野山成慶院住職秀雅は、この舎利が藤枝宿鬼岩寺のものであったことを知り、延宝7年(1679)鬼岩寺に返納した。その後、鬼岩寺の復興は慶長7年(1602)幕府から12石の朱印領を賜り、伽藍が再興されてからである。現在の不動堂はこの時建立されたものである。


【黒犬神社】
鬼岩寺の境内に鎮座する境内小社です。このお社は、神犬クロが祀られています。これには次のような伝説が伝わっています。その昔、領主の田中城の城主・本多公は闘犬を好み、洋犬の血を引く土佐犬シロを飼っていました。あるとき城下の鬼岩寺に春埜山から遣わされた狼の血を引く神犬クロがいると知り、殿様の愛犬シロと勝負せよと寺に命じました。城庭の広場で衆人見守るなか、神犬クロはたちまちのうちに殿様の愛犬を咬み倒してしまいました。これに怒った殿様の本多公は、家臣団数百名に命じてクロを追わせました。城下を追い回されたクロは逃げ場を失い古井戸に身を投げて死んでしまいました。このとき火柱が立ち黒雲が湧き起り、百雷のような恐ろしいうなり声が城下に響きわたりました。また異説では春埜山からクロの仲間の山犬の群れが押し寄せて来たとも伝えられています。この神威に恐れをなした本多公は、平伏合掌して詫び、お社を建ててクロを祀ったのがこの黒犬神社だと伝えられています。
黒犬神社は今でも「死しても負けずの神」、武運長久大願成就の守護神として信仰を集めています。春埜山は、狼を遣わすとされた遠州三山、山住、秋葉山、春埜山の内の一つです。この伝説から春埜山の犬飼集団は江戸時代になっても狼犬を貸し出す事業を行っており、その勢力は藩主である大名家を屈服させるほどだったことが分かります。

有東木は水のふるさと山葵咲く

2023年05月18日 10時16分51秒 | グルメ

有東木は水のふるさと山葵咲く  白兎
うとうぎは みずのふるさと わさびさく
山葵の花(わさびのはな)は初夏の季語。子季語に、花山葵。
山葵は、日本原産で北海道から九州まで渓流のほとりに自生する。栽培されることも多い。五月ごろ、小さい白い十字の花を、短い房状ににつける。根茎は和食に欠かせない香辛料「わさび」。花穂も食用になる。
有東木は「うとうぎ」と読む。静岡市葵区有東木である。旧安倍郡大河内村に属し、静岡市街から安倍川沿いに三〇キロメートルほど北上した山間高地に位置する。
十枚山、仏谷山、青笹山と続く安倍山系の中腹に開けた戸数八〇戸ばかりの集落であるが、寺や神社もあれば、商店や農協の出張所もあり、路線バスの運行もあるので、所謂、山間僻地の感覚はない。「静岡のチベット」などともいうが、これは伝統芸能や昔からの習俗をよく伝えていることに対する譬喩だろう。この地の標高は五〇〇メートルを超えており、一般的に温暖と言われる静岡にあって、冬季には積雪もみられる寒冷な地域である。
慶長年間、一六〇〇年頃というから丁度関ヶ原の合戦があったころだが、有東木の人、白鳥亀衛門がワサビ山の野生ワサビを村内「井戸頭」湧水地に移植したところ非常によく成長繁殖したので、他の村民もこれを見習ったのがワサビ栽培の始まりとされる。このワサビの人工栽培を我が国で最初に始めたのが有東木の人たちであったと言うのが、何と言ってもこの土地の人たちにとって最大にして最高の自慢の種なのである。
慶長一二年(一六〇七年)七月、駿府城へ入城した大御所家康に献上した折に、その味が絶賛されたことや、葉が徳川家の葵の家紋に通じることから、幕府の庇護を受けることとなり、村外不出の御法度品扱いとなって厳重に管理された。

ワサビの栽培技術が有東木以外へ流出したのは家康の時代からずっと下って延享元年(一七四四年)に伊豆の天城から当地へシイタケ栽培の技術指導のために来ていた板垣勘四郎と与市主従によって翌延享二年五月に伊豆の天城へ伝えられた。これは東照権現家康公の決めた掟を破るものとして寛延三年(一七五〇年)五月十日、駿府町奉行所の白洲において訴訟裁判が行われたが、九代将軍家重の御側御用取次側衆の大岡忠光によって一切お構いなしの裁定が下されている。写真はFBフレンド白鳥洋子さん撮影。

阿里山の甘蕉に黒き斑が著し

2023年05月17日 15時51分21秒 | 日記


阿里山の甘蕉に黒き斑が著し  白兎
ありさんのばななにくろきふがしるし
バナナ(ばなな)は、三夏の季語。子季語に、実芭蕉。世代によって異なる評価がバナナには与えられる。かつては夢の高級フルーツであった。バナナが日本へやってきた1903年(明治36年)、台湾の基隆(キールン)港から神戸港に向けて、7籠(約70kg)が積み込まれたという。輸送中に蒸れた「籠熟れバナナ」や、一部不良品などは早く換金する必要から、露天商の口上で売りさばかれ、「バナナの叩き売り」が始まった。JR門司港駅前(旧門司三井倶楽部側)に「バナナの叩き売り発祥の地」という記念碑が建つ。門司港バナナの叩き売り連合会によってこれが継承され、「門司港バナナ塾」が毎年開講される。啖呵売口上の一例を書いて置く。
「さぁ、さぁ、寄ってらっしゃい、見てらっしゃい。門司港名物バナナの叩き売りだよ~。春よ三月春雨に、弥生のお空に桜散る 生まれは台湾台中の 阿里山ふもとの片田舎~。台湾娘に見初められ、ポッと色気のさすうちに、国定忠治じゃないけれど、一房二房もぎ取られ、唐丸籠に詰められて、阿里山ふもとを後にして ガタゴトお汽車に揺すられて、着いた所がキールン港。キールン港を船出して、金波銀波の波を越え、海原遠き船の旅、艱難辛苦の暁に、ようやく着いたが門司みなと。門司は九州の大都会。門司のみなとで検査され、一等二等とある中で、私のバナちゃん一等よ。さぁさあ、こうた、こ~た。スーパーで買うなら1000円だ。1000円くれとはいわないが、さぁ、ひと房みんなで500円。さぁ、どうだ?どうだ?今日のお客は渋ちんか、それでは、480、450?買わなきゃ損だよ。一等バナちゃん。越中富山の反魂丹。鼻くそまるめて万金丹。馬のしょんべん、水薬。チョーク削って粉薬。それを飲むのはあんぽんたん。ゴホンといったら龍角散。万病の薬にゃこのバナナ。毎日1本食べなさい。長生きするならこのバナナ。10年20年長生きよ。死ぬまで長生きしなさいよ。はい、では大勉強、400と50!あれ?450ないか?
早く買わなきゃ人が買う。人が買ったら後はない。もってけ買っちゃえ。え~い、親戚価格の430。え?いないか内科、耳鼻科、産婦人科?歯科たないか?今日のお客は渋ちんか。えい、ひっちゃかめっちゃか、やけのやんぱち、400丁度でいいや。どうだどうだ? はい。そこのおじょうさん!どうもありがとうさん。」
バナナの食べごろは雀斑(そばかす)のような黒い斑点がでた時である。黒い斑点は、シュガースポットと言ってバナナが熟したサインだ。「バナナ」の漢字表記は、「芭蕉」「実芭蕉」「甘蕉」と全部で3種類。画像出典:豊洲市場ドットコム。

蟹漬けに合ふ甜酒を見繕ふ

2023年05月10日 10時30分20秒 | グルメ


蟹漬けに合ふ甜酒を見繕ふ   白兎

がんづけにあふたむざけをみつくらふ

蟹胥(かにびしこ)は三夏の季語。子季語に、蟹醤、蟹漬。
蟹の塩辛のこと。蟹の肉や味噌に塩と唐辛子を混ぜ熟成させる。酒肴などに珍重される。
『がん漬け』は干満差の大きい干潟として知られる有明海沿岸地域で昔から食べられている郷土料理。干潟に棲む小型のカニをよく洗った後で丸ごとすりつぶし、塩や唐辛子などと混ぜ合わせてねかせる塩辛の一種だ。『がに漬け』、『がね漬け』などと呼ばれることもある。『万葉集』の第16巻3886番に『がん漬け』の作り方を詠んだ愉快な歌がある。
『万葉集』の原文は全て万葉仮名であるから訓読みを書いて置く。
おしてるや 難波の小江に 廬作り 隠りて居る 葦蟹を 大君召すと 何せむに 我を召すらめや 明けく 我が知ることを 歌人と 我を召すらめや 笛吹きと 我を召すらめや 琴弾きと 我を召すらめや かもかくも 命受けむと 今日今日と 飛鳥に至り 置くとも 置勿に至り つかねども 都久野に至り 東の 中の御門ゆ 参入り来て 命受くれば 馬にこそ ふもだしかくもの 牛にこそ 鼻縄はくれ あしひきの この片山の もむ楡を 五百枝剥き垂り 天照るや 日の異に干し さひづるや 韓臼に搗き 庭に立つ 手臼に搗き おしてるや 難波の小江の 初垂りを からく垂り来て 陶人の 作れる瓶を 今日行きて 明日取り持ち来 我が目らに 塩塗りたまひ きたひはやすも きたひはやすも。歌作者不詳(乞食者)。 
意訳は以下の通り。
私めは難波の小江に棲んでひっそり隠れている葦蟹(あしがに)でござんす。あいや聞いて下され、その私めを大君が召しておられるというじゃありませんか。どうして私めなんかお召しになるのでしょう。明らかなことは、歌う人とこの私めを、笛吹き人と私めを、琴弾き人と私めを、一緒に所望なさったらしい。とにもかくにもお召しをお受けしようと、今日明日の飛鳥に至り、置くともの置きなに至り、つかないとの都久野に至り、東の中の御門より参内して用命をお受けしました。私めが馬なら手綱、牛なら鼻輪で、片山の楡(にれ)の木につなぎとめるが、私めは蟹ゆえ幾日も日に干し、からからとさえずるような音を立てて、韓臼で搗き、庭に出て、手臼に搗くのでございます。そうしておいて、私めの故郷である難波の小江から作った濃く辛い初塩を陶職人の作る瓶(かめ)に垂らし込む。その瓶を早急に取り寄せてわが目に塗り込めるんでござんす。そうしておいて、干物にさらし、干物にさらすんでがんすよ 。画像出典:ウイキペディア。



横沢の大嶽鉱山マンガン鉄

2023年03月10日 15時23分01秒 | 日記

満州事変は、1931年(昭和6)9月18日、奉天(今の瀋陽)郊外での柳条湖事件を契機に始まった。
丁度そのころと思われるが、静岡県静岡市葵区横沢にあった含マンガン鉄鉱の大嶽鉱山は、日本鋼管株式会社が開発に着手し、その後、静岡市の小原藤太郎が坑内の探鉱に主力を注ぎ、さらに中外鉱業株式会社に譲渡した。戦時中は数百名の人力と機械力とによって1番坑地並以上、4番坑地並に至る間を露天掘りと坑内掘りを併用して大々的に稼行し、昭和10年度には年間3万トン以上を出鉱した。また昭和19年頃から1番坑地並以下を探鉱するため、本坑・中切坑・ 嶽ノ腰坑等の鋸入坑道を開鑿した。本坑では坑口より約120m附近で着鉱し、『南北方向と東西方向に鑓押し、約10m切上り等で鉱体の規模・形態・品位等を探索した程度で採鉱はほとんど行われていない。中切坑・嶽ノ腰坑は鎭入不充分で未だ着鉱しないままで掘進を中止している。

終戦と同時に坑内外に集積された多大の貯鉱を送鉱することもなく、放棄廃業したままで今日に及んでいる。第二次世界大戦末期には「日本屈指の鉄山」とされたといわれる。
昭和28年新鉱業権者木村達三氏(東京都渋谷区神山町55番地)が企業再開のため鉱区を設定している(静岡県試掘権登録第4141号)。

マンガンの一番有名な用途は、二酸化マンガンがマンガン乾電池やアルカリ乾電池の正極に使われる。また、リチウム電池の正極にも用いられ、リチウムイオン二次電池の正極材料として研究されている。また、磁性材料として、マンガン、亜鉛、鉄を含む金属酸化物であるMn-Znフェライトがインダクタやトランスのコア材料として用いられている。
マンガン単体が金属材料として用いられることはほとんどなく、合金として、マンガン鋼の原料や、フェロマンガンとして鋼材の脱酸素剤・脱硫黄剤などに使用される。鉄鋼用途で耐磨耗性、耐食性、靭性を付加するために、マンガン合金(フェロマンガン)や金属マンガンとしてマンガン分が添加される。
蛇足ですが静岡市葵区足久保奥組にあった美和鉱山(閉山)もマンガン鉄鉱山でした。画像出典:ミネラルマーケットブログ。



素魚と書く俳人のなかりけり

2023年03月05日 12時51分03秒 | 日記

素魚と書く俳人のなかりけり  白兎

しろうおとかくはいじんのなかりけり

白魚(しらうお)は、シラウオ科の体長10㎝程の半透明な白色で、死ぬと白くなる。霞ケ浦の春の風物詩「帆びき網漁」が有名であるが、現在では動力船のトロール網で獲っている。春の季語であり、傍題として、白魚網、白魚舟、白魚汲む、白魚火などがある。
一方、素魚(しろうお)は、ハゼ科の体長5㎝程のほぼ透明な魚で、脊椎などが透けて見えるが、死ぬと白く濁って見えなくなる。漁法は四手網などを使う漁が春の風物詩として有名で、他には地引網や簗によるものもある。九州地方で有名な「踊り食い」の対象となるのは、この「素魚(しろうお)」である。この「素魚」を春の季語として所収している歳時記は確認できていないが、著名な俳人もこの二つを混同している例が多い。

活白魚とて口中をまだ動く     稲畑汀子

昼深く生ける白魚をすすり食ぶ   五所平之助

静岡市清水区の庵原川は、「由比のサクラエビに清水のシロウオと言われた東海道の名物」であるシロウオ(絶滅危惧IA類)が遡上・営巣し、産卵する、数少ない河川の一つで、平成22年3月~4月に実施したシロウオの遡上・営巣調査では、0.7km付近(東海道新幹線下流)まで遡上・営巣が確認されています。
遡上する絶対数は興津川と比べると少ないのですが、興津川が河口閉塞でシロウオが遡上できない年は、庵原川と隣接する波多打川が年魚であるシロウオの生命線になると言われています。本日、令和5年3月5日のNHKテレビで放映されていました。

教会を焼失させた罰当たり

2023年02月28日 09時42分56秒 | 日記

日本カトリック谷津巡回教会(にほんカトリックやつじゅんかいきょうかい)は、日本の教会堂建築。所在地は静岡県静岡市葵区谷津389。

画像出典:静岡県都市住宅部建築。。
1902年(明治35年)に創建された。1917年(大正6年)、フランス人のドエラ神父が教会堂を設計した開堂。1997年(平成9年)6月12日に国の登録有形文化財に登録されたが、2012年(平成24年)5月24日未明に放火による火災で焼失し、同年12月13日登録を抹消された。

国の登録有形文化財「日本カトリック教会谷津巡回教会」に放火して全焼させるなどしたとして、静岡県警静岡中央署は18日、県中部の14歳未満の少年を現住建造物等放火と非現住建造物等放火の非行事実で児童相談所に送致した。

同署は2~8月に起きた6件の放火事件も少年が起こしたとみている。

発表によると、少年は5月24日午前0時頃、静岡市葵区谷津の谷津巡回教会に火をつけて全焼させた疑い。また、同25日午前11時半頃、静岡市葵区牧ヶ谷の市営牧ヶ谷団地の一室に火をつけた疑い。いずれもけが人はなかった。

少年は火を付けたことを認め、「イライラがたまり、我慢できなくなった時に、イライラを心の中から消すための一番の方法が炎を見ることだった」などと話し、その後、「大変なことをしてしまった」と反省しているという。

同署は、少年が1人で自宅から灯油が入ったペットボトルを持ち出し、燃えやすく、人目につきにくい場所を狙ってライターで火を付けていたとみている。
現場での目撃情報から少年が浮上し、同署が9月に補導し、事情を聞いていた。

同署は9月中旬、少年の自宅を捜索し、ペットボトルやライター、懐中電灯が入ったリュックサックを押収した。
焼失した谷津巡回教会は、国の登録有形文化財としての登録を抹消される見通し。(2012年10月19日 読売新聞)