2014年4月19日公開 アメリカ 97分
1979年カリフォルニア。歌手を夢見ながらもショーダンサーで日銭を稼ぐルディ(アラン・カミング)はゲイであることを隠して生きる弁護士のポール(ギャレット・ディラハント)と出会う。また同じ頃に、アパートの隣の部屋に住むダウン症の少年マルコ(アイザック・レイヴァ)が母親から疎んじられていることに気付く。その母親が麻薬で捕まりマルコが施設に入れられると知ったルディは、彼を保護しようとポールに助けを求め、それがきっかけで三人は家族のように寄りそって暮らし始める。しかし幸福な時間は長く続かなかった。ゲイであるがため、法と偏見が立ちはだかり、ルディとポールはマルコと引き離されてしまい・・・。
自由と平等の国の筈なのに、差別や偏見も強烈なのがアメリカです。
しかも、この物語に登場するのは同性愛・ダウン症といったマイノリティな人たちです。
若くもなく美しくもないゲイカップルとお世辞にも可愛いとは言い難い14歳の少年の取り合わせは、正直観ていて惹きつけられるものではありません。しかし、次第に彼らの内面・人間性に気付いていくと、もう外見なんてどうでも良くなるから不思議
ルディは自分がゲイであることを隠そうとはしません。彼の生い立ちについては触れられていませんでしたが、おそらくは辛く不当な扱いを受けてきたと思われます。そんな中でも誇りを失わず頭をあげて前を向いて生きたきた人に見えます。彼がマルコに手を差し伸べたのは、愛情に飢えた過去の自分を見たからかもしれないし、母性本能かもしれません。
一夜限りの関係だったルディがオフィスに現れた時、ポールは脅しにきたのだと思ってしまいます。自分がゲイであることを心のどこかで恥じているポールには、ルディのマルコに対する損得なしの愛情がこの時はまだわからなかったのです。ルディに軽蔑されて初めて、ポールは自分の過ちに気付きます。元々正義を信じ世の中を変えようと弁護士になった人ですから、心が決まればルディのために一肌脱いじゃいます服役中のマルコの母親から保護監督権を得て、三人は束の間の幸せに浸ります。それはどこにでもある家族の姿に見えます。マルコが好きな人形のアシュリー、ディスコダンス、ハッピーエンドのおとぎ話、そしてチョコレートドーナツ(邦題はここからきてるのね)。走馬灯のように流れる一つ一つの場面が笑顔で溢れんばかりです。
ところが、ポールの上司が二人の関係に気付いたことから三人の蜜月は終わりを迎えます。
ゲイのカップルに子供を任せられないという世間と家庭局の偏見が彼らを引き裂いたのです。
必死に審理にこぎつけたルディとポールは、マルコが通っていた学校の教師やルディの同僚、聞き取り調査員らの好意的な陳述を得ますが、それでもなお判事はゲイのカップルにはマルコを渡せないとの判断を下します。
それでも諦めず、新たに弁護士を捜す二人が見つけたのが有能な「黒人の」弁護士です。ゲイ・ダウン症、そして黒人。まさに差別の図鑑があったらまっさきに出てきそうな取り合わせです。ところが、今度は審理そのものが却下されてしまいます当局が服役中の母親と裏取引をして仮出所させてまで、彼らにマルコを渡すことを拒んだからです。母親に勝る保護者はいない。それが裁判所が、世の中が認める正義です。
しかしヤク中で育児放棄の母親に引き取られたマルコは幸せになったのでしょうか。失意の中にも歌手の道を歩き始めたルディの歌声に乗せて、ポールが書いた関係者への手紙の内容が胸に突き刺さります。
同封された新聞の片隅に載った小さな記事には一人の少年の死が書かれていました。
ポールの手紙を読む元上司、判事らの表情の中に彼らの後悔を感じることができたなら少しは慰めになるでしょうか?
マルコの幸せを本当に考え望んでいたのは、行政側でもなくまして母親でもありませんでした。二人がゲイのカップルだというただそれだけで、他のどんな利点も考慮せず、彼らはマルコの幸せを取り上げてしまったのです。
劇中流れるルディの歌声、彼が歌うボブ・ディランの曲が、その胸の内を切ないまでに現していて圧倒されます。
うん、素晴らしい映画です。
1979年カリフォルニア。歌手を夢見ながらもショーダンサーで日銭を稼ぐルディ(アラン・カミング)はゲイであることを隠して生きる弁護士のポール(ギャレット・ディラハント)と出会う。また同じ頃に、アパートの隣の部屋に住むダウン症の少年マルコ(アイザック・レイヴァ)が母親から疎んじられていることに気付く。その母親が麻薬で捕まりマルコが施設に入れられると知ったルディは、彼を保護しようとポールに助けを求め、それがきっかけで三人は家族のように寄りそって暮らし始める。しかし幸福な時間は長く続かなかった。ゲイであるがため、法と偏見が立ちはだかり、ルディとポールはマルコと引き離されてしまい・・・。
自由と平等の国の筈なのに、差別や偏見も強烈なのがアメリカです。
しかも、この物語に登場するのは同性愛・ダウン症といったマイノリティな人たちです。
若くもなく美しくもないゲイカップルとお世辞にも可愛いとは言い難い14歳の少年の取り合わせは、正直観ていて惹きつけられるものではありません。しかし、次第に彼らの内面・人間性に気付いていくと、もう外見なんてどうでも良くなるから不思議
ルディは自分がゲイであることを隠そうとはしません。彼の生い立ちについては触れられていませんでしたが、おそらくは辛く不当な扱いを受けてきたと思われます。そんな中でも誇りを失わず頭をあげて前を向いて生きたきた人に見えます。彼がマルコに手を差し伸べたのは、愛情に飢えた過去の自分を見たからかもしれないし、母性本能かもしれません。
一夜限りの関係だったルディがオフィスに現れた時、ポールは脅しにきたのだと思ってしまいます。自分がゲイであることを心のどこかで恥じているポールには、ルディのマルコに対する損得なしの愛情がこの時はまだわからなかったのです。ルディに軽蔑されて初めて、ポールは自分の過ちに気付きます。元々正義を信じ世の中を変えようと弁護士になった人ですから、心が決まればルディのために一肌脱いじゃいます服役中のマルコの母親から保護監督権を得て、三人は束の間の幸せに浸ります。それはどこにでもある家族の姿に見えます。マルコが好きな人形のアシュリー、ディスコダンス、ハッピーエンドのおとぎ話、そしてチョコレートドーナツ(邦題はここからきてるのね)。走馬灯のように流れる一つ一つの場面が笑顔で溢れんばかりです。
ところが、ポールの上司が二人の関係に気付いたことから三人の蜜月は終わりを迎えます。
ゲイのカップルに子供を任せられないという世間と家庭局の偏見が彼らを引き裂いたのです。
必死に審理にこぎつけたルディとポールは、マルコが通っていた学校の教師やルディの同僚、聞き取り調査員らの好意的な陳述を得ますが、それでもなお判事はゲイのカップルにはマルコを渡せないとの判断を下します。
それでも諦めず、新たに弁護士を捜す二人が見つけたのが有能な「黒人の」弁護士です。ゲイ・ダウン症、そして黒人。まさに差別の図鑑があったらまっさきに出てきそうな取り合わせです。ところが、今度は審理そのものが却下されてしまいます当局が服役中の母親と裏取引をして仮出所させてまで、彼らにマルコを渡すことを拒んだからです。母親に勝る保護者はいない。それが裁判所が、世の中が認める正義です。
しかしヤク中で育児放棄の母親に引き取られたマルコは幸せになったのでしょうか。失意の中にも歌手の道を歩き始めたルディの歌声に乗せて、ポールが書いた関係者への手紙の内容が胸に突き刺さります。
同封された新聞の片隅に載った小さな記事には一人の少年の死が書かれていました。
ポールの手紙を読む元上司、判事らの表情の中に彼らの後悔を感じることができたなら少しは慰めになるでしょうか?
マルコの幸せを本当に考え望んでいたのは、行政側でもなくまして母親でもありませんでした。二人がゲイのカップルだというただそれだけで、他のどんな利点も考慮せず、彼らはマルコの幸せを取り上げてしまったのです。
劇中流れるルディの歌声、彼が歌うボブ・ディランの曲が、その胸の内を切ないまでに現していて圧倒されます。
うん、素晴らしい映画です。