「この国のかたち」的こころ

敬愛する司馬遼太郎さんと小沢昭一さんに少しでも近づきたくて、書きなぐってます。

「時代小説の愉しみ」隆慶一郎

2005年01月14日 16時21分32秒 | 書評
 書き直します。隆慶一郎さんのエッセイ「時代小説の愉しみ」にある「編集者の頃」を読むと気分が良くなる。隆慶一郎さんは、60才から小説を書き始めた。活動わずか6年間で亡くなってしまったが、「吉原御免状」をはじめとして「影武者徳川家康」、少年ジャンプに劇画化され大ヒットとなった「花の慶次」の原作「一夢庵風流記」などを発表、多くの方面から支持を得た。なぞはなぜ60才になってから書き始めたのかと言うこと。鍵は小林秀雄が握る。
 昭和23年、東大仏文科を卒業した隆さんは教授の退官のパーティに出た。そこで先輩小林秀雄の名演説「失われたスピーチ」を目の当たりにする。就職が決まってなかった隆さんは初対面で出版会社の重役小林秀雄に「働かせてください」と頼む。「いいよ。明日からおいで」と言われて創元社という野武士集団のような出版社で鍛えられることになる。
 自分が良いと思ったものは必ず売れると思い込んでいる会社で、それが小林秀雄や河上徹太郎というから困ったモンだ。編集会議ではその企画がいかに売れるかではなく、いかに自分が惚れたかを説明しなければならない。
 いじめられて泣くものが続出するという会議だ。なかでも現学習院の哲学科の教授が、小林の奥さんの案内に失敗して泣かされる下りは圧巻である。
 隆さんが60歳まで小説を書かなかった理由は一つ、小林秀雄が生きていたからだ。下手なもん書いたら何言われるか分かったもんじゃないと云っている。尤も隆さんはシナリオライター池田一朗としてずっとテレビ界に係わってきた人だけどね。
 椎名誠や群ようこの「本の雑誌血風録」の世界も好きだが、教科書の文章でしか触れられなかった小林秀雄が妙に人間的魅力を溢れさせてくる。
 本に接していたい。本に関わる仕事をしていたい。時に命がけだけど文学していたいと思えるエッセイである。

ハワイにて9 不況

2005年01月14日 10時15分15秒 | 紀行
 観光立国ハワイにとって、同時多発テロの影響は根深い。日本がバブル後の不況下にあっても日本人観光客は減ることが無かったらしい。ところが9・11以後は観光客は激減。以前の半分にも満たないという。我々が宿泊した。ホテルもオーナーが替わり日系企業が撤退。アメリカの企業が買収し、経営されている。今回、多くの部屋でセカンドベットが足らず、ソファーで寝たり、逆にスイートルームに部屋換えになった人がいたが、それも従業員が定時で仕事を終わり、連絡・連携が取れてなかったせいだといわれている。アメリカらしいと言えばそれまでであるが、こっちは迷惑はなはだしいい。そういえばホノルル空港での風物詩となっているハワイレイも、必ずもらえるものと思っていたのに、ごく一部の団体客しかもらっていなかったのもそのせいか?とにかく彼の国もこの国も大変なんだなあと思うこのごろである。

ハワイにて8 サーフィン

2005年01月14日 10時13分48秒 | 紀行
 ダイアモンドヘッドに行くには、ワイキキビーチから海岸沿いに東にぐるっと回り込むように行くのがルートのようである。ホノルル動物園や水族館の脇を抜けて、道が上り坂になると、眼下に多くのサーファー達の姿が見られる。エルビスプレスリーの映画以来、ハワイはサーファーたちのメッカとして名高い。でも、本格的なのは北側の海岸で、このあたりは初心者向けだそうである。「こんなところに来るは日本のへたくそだけネ。」と現地の人は手厳しい。そういわれてみれば島の裏側の波とは明らかに質の違いを感じさせるものがあった。(と、わかったような口ぶりになってみる)

ハワイにて7 ハワイの香り

2005年01月14日 10時11分56秒 | 紀行
 ハワイホノルル空港に着陸し、空港ロビーから外に出ると、独特の匂いか私達を迎えてくれる。リピーターにとっては、この香りこそハワイに来たことを実感させるものである。この香りには、いくつかの候補がある。空港で我々を迎えてくれるのは歓迎のしるしとして観光客に手渡されるハワイレイが発するものである。オーキッドという花が代表的であるが、他にも何種類かあるようである。
 空港を離れ、ワイキキ通りに入ると2つの香りが混じる。一つは海岸でバカンスを楽しむ人達のつけるコパトーンの香り。しかし、ハワイを代表する香りといえばやはり、ハワイコナの香りが挙げられる。ハワイ産のコーヒーにはバニラが添加されている。日本人がいわゆるコーヒーと呼ぶ香りとかけ離れている為、初めて飲む人は面食らうことになる。

ハワイにて5 クリスマスイルミネーション(夜景)

2005年01月14日 10時09分19秒 | 紀行
 ハワイの夜景の素晴らしさはオレンジ色にある。街灯がホノルル市内を網の目状に緩やかな傾斜をつくりながら登っている。日本の夜景とはどこか違う。それは1つ1つの店舗がの看板が出しゃばっていないことだ。大きさも色遣いも自分の領分をしかっり守って闇と光のコントラストを描き出している。
 ハワイでは11月28日からクリスマスシーズンに入る。日本ではクリスマスで馬鹿騒ぎ、お正月は家族で祝うのが通例だがハワイでは逆。神聖な儀式として厳粛な態度で迎えるのが慣わしとなっているそうである。コンドミディアム(日本のマンションに相当する)や家々を彩るクリスマスイルミネーションは、ここ数年、日本でも流行し始めた。ハワイでは自分たちの家を飾り付けることにより雰囲気を盛り上げようとするのが主目的であるのに対し、日本のそれは回りに見せる要素が勝ちすぎているきらいがあるようにみえるのは自分だけだろうか。ハワイの人々に日本のクリスマスを見てもらってご意見をうかがいたいものである。

ハワイにて4 パンチボールの丘2(鬼塚さんについて)

2005年01月14日 10時08分12秒 | 紀行
 園内2本の中央道の左側通路に面した付近に墓標の左右に花が供えてある箇所がある。他の墓標には真中に1本なのに対して2本なので分かりやすい。墓標の主はスペースシャトルチャレンジャー乗組員だったエリソン鬼塚(大佐・日系移民4世)氏である。
 1985年。猛勉強の末、スペースシャトル乗組員に選抜された鬼塚さんは、一躍ハワイ州の希望の星となった。チャレンジャー打ち上げの日。ハワイ州の小中学校では授業を中止し、生徒にTV中継を見せた。州をあげて見守る中、打ち上げから1分後、漏れたロケット燃料がエンジンに引火。補助ロケット爆発の後、白煙をあげながら最後の力を振り絞るように飛行を続けたスペースシャトルチャレンジャーは、全ハワイ州民の希望とともに砕け散った。生存者なし。本土では民間人からの起用であった女性高校教師の死が大きく報道されたが、ハワイ州は全く別の悲しみをもって、この事故に涙したと言う。そして今でも、その遺体すらない鬼塚氏の墓標には献花が絶えない。

ハワイにて3 パンチボールの丘1

2005年01月14日 10時06分55秒 | 紀行
 軍関係者の墓地として、その風景の素晴らしさから観光名所の1つに数えられている。しかし、観光客(主に日本人だという)のマナーの悪さから観光バスは園内での停車および降車が禁止されている。第2次世界大戦後の軍関係者(戦没者とは限らない)なら安価で埋葬できる。かかる費用は日本の墓石にあたる石のプレート代だけ。「戦争なんかしたくないのに。世界大戦以後も朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、去年のアフガンと戦争が絶えない。ブッシュはバカだからイラクと戦争したくてしょうがないらしい。若い連中が死んでゆくのをどう考えているんだか。」とは現地の人の言葉。他の国の人に自国のトップのことをこれだけ言えるのもアメリカのお国柄か。

ハワイにて2 ガイドの女性達

2005年01月14日 10時04分48秒 | 紀行
 彼女達は昭和の日系移民1世の人々
昭和40年代後半、芸能人や資産家しかいけなかったハワイがJALパックという画期的な旅行プランにより庶民でもちょっと無理すれば手が届く海外リゾート地になった。カメラを持ち無遠慮にのし歩く日本人観光客は、コードネーム「JAL」「ノーキョー」と恐れられたものでした。今回市内観光バスの案内をしてくれた女性達はその時代にハワイを訪れ、この地に憧れ、一念発起して日本を離れ、ハワイに移り住んだ人達。あまりに日本語に違和感がないので、恐る恐る「日系と呼んでいいのでしょうか。」と聞くと「構いません。私たちは日系1世と呼ばれています。」とのこと。「1世移民は明治時代の人たちを言うのでは」と聞くと、「ハワイでは15年以上住み続けると1世と呼ばれます。明治1世の人たちはもういません。私たちと同世代の人たちでも3世です。今度ハワイでホームステイするでしょ。もしその人が日系の人なら6世か7世になります。」と答えてくれた。「それじゃ日系の人たちも多くなりましたね。」というと「日系の人はほとんど本土(アメリカ)へ出て行ってしまいます。だってもう6世、7世は日本語話せないでしょ。日本語話せないとここでは仕事がないの。ハワイの親たちは自分の子供達を(アメリカ)本土の大学に行かせるの。そうすると向こうでコネクション(人脈)ができるでしょ。向こうで就職しちゃって帰ってこないの。うちの息子もアメリカ(の大学)へ行かせたの。でもネ帰ってきちゃったの。こっちのほうがのんびりしてていいって。バカよネ~。」と言いながらうれしそうな顔が印象的だった。

ハワイにて1

2005年01月14日 10時03分20秒 | 紀行
 前に書いたものが出てきたので一気に載せます。3年前に仕事で行ったとき、思いついたものを書き留めておいて忘れてました。写真があればいいのだけれど、今さがしてます。

ナナクリ地区(元大関 小錦の出身地区)

 12月14日朝刊 keehi Lagoonで発生した身代金目的の誘拐殺人事件。2日後、11才の女の子Kahealan’lndeginalちゃんの遺体発見のニュース。帰国当日の新聞では犯人逮捕の報道があった。事件現場に近いナナクリ地区はハワイ原住民、ポリネシア、ミクロネシア諸島からの移民、メキシコ系移民の混在する地区。経済的にも教育的にも低いレベルである上に、最近の不況で仕事を奪い合う状況下、民族的ないがみ合いが後を絶たない。小錦関の出身校であるナナクリハイスクールは学費が安いせいもあって、ホノルルでは悪名が高く、校内でピストル発砲事件が起こるなど、我々の認識するハワイのからは想像もつかない面を見せている。小錦関はそれを何とかしようとし、有能な人間を日本に連れてきたりしたらしいが、うまくいかなかったようである。多民族国家の縮図はハワイとても例外ではない。

隆慶一郎「時代小説の楽しみ」

2005年01月14日 00時51分12秒 | 書評
 一生懸命かいてたんだけど、ミスって全部消しちまったい。くっそー。
 この本に収められているエッセイのうち「編集者のころ」という話を読むと、いい気分になるというお話。小林秀雄や河上徹太郎と共に創元社という出版社で働いてた隆さんは、そこでずいぶん鍛えられていたらしい。椎名誠や群よう子がいた「本の雑誌」もすごいけどもこっちは大人の男が命削って本を出版しているという鬼気迫るものがある。そのエピソードはまた明日、ちょっとへこんでます。