「この国のかたち」的こころ

敬愛する司馬遼太郎さんと小沢昭一さんに少しでも近づきたくて、書きなぐってます。

梶井基次郎と宮崎駿と必殺仕事人

2005年01月29日 23時47分41秒 | 妄想
 梶井基次郎の「城のある町にて」を改めて読んでみると、ああ、この人は光と闇と色彩の作家なのだなと思う。国語の教科書にも載っている「檸檬」を始め、「闇の絵巻」にしても闇に切り取られた光の空間がわれわれを楽しませてくれる。というより光を脇役とし、闇を描きたかったのかとも思う。「檸檬」では夜の京都の闇に浮かぶ八百屋で檸檬を発見し、書店丸善の画書コーナーで画集を重ねて色のオブジェを作り、「檸檬」という爆弾を据えて、店を出てくる。「城のある町にて」では妹の死の実感を、光満ち溢れる風景の中に感じ取ってる。そしてタイトルどおりの「闇の絵巻」では、伊豆湯ヶ島での実体験を基にして、光と闇のコントラストから人間存在の無常さを描こうとしている。
 光と闇のコントラストに「青」という色彩を添えて、時代劇の一時代を築いたのが「必殺仕事人」である。仕事人たちは一人一殺(いちにんいっさつ)主義で、仕事をこなす。彼らは「暗殺者」ではない。むしろ「テロリスト」に近い。闇から登場し必要な時間だけ「青」の世界に姿を現し、仕事をして再び闇へと去るのが基本だ。この場合の「青」は「黄昏時・逢魔が時」に相当し、標的をあの世とこの世の境界線に引きずり込む役目を担っていたのではないか。
 「仕事人」が「青」ならば。宮崎駿は「緑」である。風景を描くのにあれだけの緑を描き分けしようとする作家はほかにいない。そしてその「緑」に光と闇を与える。
 僕は以前からジブリ作品の「風」の表現に注目している。「風の谷のナウシカ」「となりのトトロ」「紅の豚」「天空の城ラピュタ」宮崎アニメでは「風」を感じる場面が多い、そして実にリアルだ。このリアルさは何処から来るのだろうと思っていた。コミックでは風は擬音と線で描かれる。実写映画では風は自然を待つか、巨大な扇風機で起こすのどちらかである。僕は常々特殊効果としての「風」に違和感を覚えている。理由はうまく説明できない。だけど宮崎アニメの風はリアルだ。「風」は気圧の高低差によって生ずる。そこには雲がある。雲によってさえぎられた光が「風」を作り出すと言ってもいい。そして宮崎アニメでは風は必ず緑や雲を通して表現される。雲と緑と空を素材に光と闇を与えて「風」を起こす。効果音に頼ることはしていない。五分と五部の勝負をしている。結論としてはコト「風」に関しては実写版よりも本物に近い感覚を与えてくれているのではないだろうか。

BLOG上の人格 HN症候群

2005年01月29日 17時17分46秒 | BLOG論
 HNはブログ上で「忌み名」の意味を持つのではないか?僕はそう疑っている。HNの持つ言霊に引きずられることがあるのではないか。先日紹介した「女医ななこのひとりごと」が再開した。奇しくも彼女が自分のブログ名について、示唆的な内容を書いている。彼女はブログ名を変えようかと悩んでいる。理由はブログ名に含まれるイメージだそうである。言葉として「女医」、「ななこ」、そしてHN「nanako」でそれぞれ検索した場合の結果を気にしているのである。大方の男性が想像するとおりアダルトな内容を多く含んでいるものが大半を占める。
 きっとアクセス解析もしたんだろうなと思う。
 先日僕もブログアドバンスを購入した。購入したその日にメインテナンスでブログがアップできず、一番のウリであるアクセス解析も機能しないという最悪のスタートとなった。
 わかったことは、どのブログにたどり着くにしても検索結果から入ってくるのが殆どであること。つまりアクセス増やそうと思えば題名に「旬」なワードを挿入すればよいということになる。でもこれは今日の主題ではないのでまた今度。
 Nanakoさんがどんな実害を蒙ったのか私は知る由もない。しかし言葉の持つ力によって、一人の女性がブログ名を変えようとしている事実がある。
 HNは自分の部屋(ブログ)へいざなうための顔写真である。だから情報量の多い、イメージが先行する名前をつけると逆に名前に操られることになる。
 ブログ管理者の名前が中性化、無生物化する傾向にあるのも、このあたりが原因かもしれない。
 僕は実験として、HNを自分の実像とはかけ離れたものにしたことがある。続きはまた後で…。