「この国のかたち」的こころ

敬愛する司馬遼太郎さんと小沢昭一さんに少しでも近づきたくて、書きなぐってます。

BLOG上の人格 名無し、カオナシ、unknown

2005年01月28日 19時36分39秒 | BLOG論
 モノに名前を付けると怖くなくなる。得体の知れないものは得体のできないうちは怖い。表現としては「~みたいなもの」となる。これだと正体がつかめない。何をするのか、一つ一つの事象に関連ガあるのかさえ分からない。だけど名前を付けるとみんなの共通認識となり、情報が名前に集積され性格が形付けられる。どんな怖いものでも、名前のもとに分析されると対抗できること(それが例え偶然でも)がわかり、恐怖ではなくなり親しみさえも付け加わることになる。そうやって人間は恐怖を克服し、物事を得体してきた。名前にはそれだけ力があるといえる。
 忌み名(いみな)という言葉がある。通常呼ばれる名前とは別に両親と本人しか知らず、本人の魂を操ることのできる名前(千と千尋の「千尋」にあたる)がそれで、人外のものが人か人外かを見分けるために呼んだりするので、絶対に返事をしてはいけないと言われているものである。
言霊思想の典型的な例であるといえるし、日本人はずっと昔の平安時代から庶民レベルで名前を意識していたと考えられる。続きは後でって、今これの3倍ぐらい書いたのにアップしようと思ったら消えてしまった。まただ、今日のは痛い、痛すぎる。10分へこんでまた書き出したとこです。
 えいや!と始めます。
で、「忌み名」の代わりに登場したのが「通り名」というやつで、これはいつでもコロコロ変えられるから正体をつかまれることはない。成長や身分にしたがって変えていけばいい。
 ネットの掲示板では、通り名さえも使わずに「名無しさん」といわれる輩(やから)が虚の空間を、人ととのつながりを求めて彷徨い、偽りの醜さで互いを傷つけあっている。名前もなければ顔も見えない。安全地帯にいるつもりだろうが、PCを前に微笑んでいる姿は『千と千尋の神隠し』に登場する「カオナシ」そのものになっていることに気づいているのだろうか。
 逆にブログの世界では「名無し」さんは殆ど見かけない。コメントタイトルとしての「unknown」は見かけるが、これは僕の勉強不足で「無題」ぐらいの意味じゃないかと推察するほかはない。
 コメントは「通り名」をもって行われる。コメントやTBの重要な役割の一つに自分のブログへの「いざない」というものがある。これはネットの掲示板という舞台、もしくは観客席から大声でものを言うのと違い、自分の部屋に招待する感覚を伴う。それには「名無し」のままではまずい。こういう意識はないだろうか。顔のない人間の招待を受ける人はいない。
 しかし、HNに実に中性的なもしくは無生物的なものが多いのが気になる。これは無法地帯となっているネットに対する防衛本能か、はたまた日本人の民族的特性かは知らないが明治の文豪のようなしゃれの利いた名前に出会ったことはない。 
 しかし、このHNはブロウ上では「忌み名」になるのではないか。次のお話はその辺から。

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