「この国のかたち」的こころ

敬愛する司馬遼太郎さんと小沢昭一さんに少しでも近づきたくて、書きなぐってます。

沈黙の観衆 ブログの人称について

2005年01月20日 17時56分23秒 | BLOG論
 ブログの基本は日記であると仮定する。そうするとその文体は独り言の1人称であるのが当然の理となる。実際ブログタイトルの多くに、「~の独り言」というのが多い。だから文書としての最後は自己完結しているべきで実際そうなっている場合が多い。こういうブログにはコメントが付きにくい…はずである。なぜなら他人の入り込む余地はないことが多いはずだからである。しかし、ここにブロガーのキャラクターが絡むと様相が違ってくる。こんな言い方があるか知らないがブログアイドルといった存在になると、そのプライベートの暴露といったものに相当し十分に評価に値するものとなる。それはプロフィールおよび画像、動画によって支えられているといっても過言ではない。
 また、一人称ものとして思索系(ブロガーが一人で考えを深めて行く)のブログが存在する。今書いているブログもそれに相当するのだと思う。これはあるとすれば特定の傾向をもった(変態じゃないよ)読者のみが受け入れるタイプのもので、アクセス数が稼げるはずがなく、したがってコメントもあったら宝物といった具合である。わが盟友瀬川南嬢(ごめん!勝手に)にもこの手の記事がみえるが、なかなかコメントに恵まれない。(失礼!)私の場合は見てのとおりである。gooブログが10万を超えたことは喜ぶべきであるが、思索系ブログが市民権を得るのは(無いのかよ!)gooブログだけで100万を超えないと日の目を見ないのではないかと考えられる。(自分の文章力は棚に上げて言ってます)(泣)
 第2に2人称で書かれるブログについて考えてみよう。これは読む人を想定して語られるものであり、情報提供系のブログに多い。さらに云えばこの情報提供系には大きく分けると二つのタイプがあると考えられ、「薀蓄(うんちく)もの」と「報告もの」の二つに分けられるのではないか。これはつまりブロガーの読み手に対するスタンスの問題であり、「薀蓄もの」は「教えてやる」的態度であり、コメントはしづらい。僕のブログもこのタイプに入るものがある。逆に「報告もの」は同じ感動の「へえー」のあとで評価のしやすさがあり、コメントは増えるものと考えられる。つまり「これは良いものです。」といわれるのと「こんなのが出たんですけど…。」の違いであり当然後者のほうがツッコミが入れやすい。このブログにコメントをいただいたtubrabells氏のブロググは株式の報告を主とするもので事実を淡々と述べているだけのブログがあるが、(それだけじゃありませんが)事実として、または氏自身の生き方、考え方の魅力が株の取引を通じて表現できておりコメントは豊富である。(タイトルなんかいらないって無題で載せちゃうからね)
 またこれとは別に「告白もの」と呼んでいいジャンルが存在し、書き手とともに読者の好奇心をあおり緊張させ、かなりの興奮を呼ぶ場合が多い。このてのブログでは誰かが一つコメントをつけることで怒涛のようにコメントが連続することになる。この手法は小説家太宰治がその作品において既に実証済みであり、かれの「生まれてきてすみません」的な言い回しが、多くの女性の心を捉え。彼の命日に催される桜桃忌には国文科女子大生が未だに参列するゆえんとなっている。(一時期よりはずいぶん減ったらしい。日本女性の母性本能の変化の有無についてはコメントしない)。
 次に3人称ブログについて考えてみたいが、こんなのは滅多に無く、勝手に盛り上がっているタイプなのでモー娘が騒いでいるのを見てるだけで満足といった方でないと脱力感に襲われるだけだろうしコメントしても無視されるのがオチである。
 前回の予告では「縁」について考えるはずだったがぜんぜん出てこなかったですね。継続性が無いのもまたブログの特徴ですな。(おまえだけや!)だいたい劇団「時間装置」はどうなったんだ?期待してない?仕事休みの時に書きます。あしからず。