「この国のかたち」的こころ

敬愛する司馬遼太郎さんと小沢昭一さんに少しでも近づきたくて、書きなぐってます。

東京人の確執

2005年01月27日 22時18分12秒 | 人々
 たいした話じゃありません。田舎人が東京の実態の一部を知って驚いたということ。
 僕の友人に東京の小田急線(新宿と小田原を結ぶ私鉄。ロマンスカーが有名。東京人を箱根に連れていって、稼ごうと作られた路線じゃないかな。)の豪徳寺出身がいる。彼は豪徳寺駅前の和菓子屋の次男坊。親戚は埼玉にあるらしいが、生まれも育ちも世田谷区。高校は渋谷の大学にエスカレーターで入れる私立高校。「松蔭神社で産湯を使い~。」じゃないけど、24になるまでライブで蛍を見たことがなく、静岡で初体験して日記に書いてしまったという経歴の持ち主である。
 先日放送の「天声真吾」は「ぷらり、途中下車の旅。」キャイーンや真吾君が。紙で作った電車で月島あたりの商店街をあるく企画だった。月島商店街の名物は「もんじゃやき」商店街には「もんじゃ」のにおいが立ち込めていたようで僕は次の日、友人にそのことを話し、「東京の人と一緒に東京を歩くのも田舎人にとっては一種のステイタスになるんじゃないかというと彼は「皇居の向こう側は人間がちがいますから」と言った。「皇居の向こう側」と言う表現は始めて聞いたので驚いた。僕らが聞きかじっている東京は山の手と下町の違い。でも実際の東京はもっと巨大で東京に住んでいる人のレベル(その土地で代をかさねていくだろう人々のこと)で東京に線を引くと「皇居」で引けるそうだ。端的な例は高校の先輩に上野の人がいて一緒に上野を歩いていると「かばんはしっかり持っておけ」と注意されたそうだ。同じ東京人なのに…。皇居の西側の人にとっては池袋、上野、築地は行くところではないそうで、例えば市場でも築地ではなく多摩川を渡って溝の口に行くそうだ。溝の口って神奈川だよ。逆に怖さはあるけど渋谷、新宿は安心できるそうで、それなりのルールみたいなものがあって、それに関わらなければヘっちゃらんなんだそうだ。
 江戸っ子の規定みたいなものがあって、代を何代重ねないとだめだとかあるそうだけど、高島平もそろそろ3世代を数えるころで、帰省なんかしませんよと言う江戸っ子と呼んでもいいかなと思われる人々がでてくるかと思ったら、住んでる場所で江戸っ子とは呼ばれないそうでなんだかかわいそうな気がしたことを覚えている。とにかく今、宮崎駿の映画の舞台は三多摩であり、東京で尤も生活感があふれている場所であるのだから、そこまで江戸っ子なのではあるまいか。最後はやや強引。

沈黙の観衆 コメントと油断の範囲

2005年01月27日 21時44分14秒 | BLOG論
 コメントをしてもらうと、返事を書くのがこの世界の常識らしい。僕は当初、そんなことも知らずに、コメントをもらうと、ただただうれしがっていた。今考えると随分失礼なことをしたものである。そしてある日、勇気を出して他の人のブログにコメントを書き込んだら、次の日リアクションがあった。コメント(2)と書いてあったその場所をクリックするまで、僕と同じようにコメントつけた人がいると思っていた。そしたらそのブログの管理人がお礼を述べていた。そんときの感動はいまでも覚えている。(そりゃそうだよ、3ヶ月前だもの)
 調子に乗って返事を長々と書きまくった。これまた迷惑な男である。そしてそのブログのありとあらゆる記事にコメントを入れようとした。(アブナイおっさんである)その辺まで来てやっと自分のしてることの異常性に気がついた。
 だいたいブログのマナーなんてだれが決めたんだ!?誰も決めてないよね。だからマナーだと思うのだが、これがパソコンの掲示板なんぞに書き込んだことのない人だから、ぜんぜんわからない。それに掲示板とやらを垣間見ると、これはもう無法地帯と言えるわけで誹謗中傷いじめのオンパレードの世界だとみえ、3分もあればムカムカと吐き気を催してくること間違いなしではないか。
 それに比べブログの世界のなんと穏やかなことか。これも100万件を超えるとおかしくなるのか、僕はその点、意外と楽観視している。まあそれはさておき、僕は自分の変態さを誇張するようで変だがコメントに抵抗がない。僕のブログに対するコメント率は今のところ300分の1くらいであるから、それがそのまま適用できるとは思えないけど、1パーセント未満の割合で存在するコメントマンである。10万に何人いるんだ?計算してください。算数苦手!コメントに抵抗がないどころかむしろ積極的に話しかけようとしている。
 「寂しいの?おトーさん。」と変なメールが一杯届きそうであるが、「んなこたあない」とタモリ風にトボケルのみである。ではなく理由はある。それもただ1点。もらってウレシイモノだからあげて喜ばれれば、更にう嬉しいからである。
 ブログのコメントはブロガーなら誰しも嬉しいはずである。こっちの素性なんて関係なし。黙ってみてるだけじゃありませんよ~。PCの向こう側でリアクション取ってるんですよ。教えてあげたい。これって独善的?
 でも、見てるすべてのブログにコメントしてるわけじゃない。慈善事業じゃないからね。そう考えてたら失礼だよね。一度きりでやめてしまうブログもいくつかある。ナゼだろうと考えてみると、管理人の返事に左右されることもあるのではないかと思う。
 続いているのは、結構砕けてくれる人かな。なれないうちはまじめ一本やりの返事でどうも堅苦しい。次にコメントしにくくなる。大上段から振りかぶるように感謝される場合もいただけない。かといって素性を知らないとはいえタメ口聞かれるのもなんだしなあ。とおじさんは結構細かい。
こうなると「お水系」のお姉さまのブログにはかなわないんじゃないかと思う。彼女達の、いやコメントが上手な人たちに共通して言えるのは自分を何処まで油断させるかにも大きなポイントがあるようで、親しさと甘えと相手に与える信頼感と馴れ馴れしさ、冗談と本気の境界線で実に危うく泳いでいる。そしてブログ上の人格を楽しんでいる。ぼくも安心して自分を遊ばせることができる。
 それも悪くない。だけど清楚、誠実、律儀もコメントを引き寄せるものであるし、なんと言っても、同じ価値観を持つ仲間にめぐり合えたという一種の感動を分かち合えた系のコメントほど人をうつものはないようで、これはコメント送受信のどちら側にいても、継続したくなる出来事なのである。