提出期限は12月10日正午。それまでの2週間、僕はほとんど寝ないで原稿用紙50枚の卒論を躍起になって仕上げていた。「梶井基次郎『檸檬』の研究」、それが卒論のタイトルだった。梶井の代表作はその完成度において「桜の木の下で」だが、ぼくはそれに真っ向から対立、「檸檬」を検証し、代表作とした。指導教授に言わせれば「結論は面白い、だけど書き方がめちゃくちゃだ。なぜ、言われた注意事項を守らないのかね!」だそうだ。当時から僕は人の話を聞いていないたちだったらしい。評価は認定ギリギリだった。提出も締め切り1時間前。あまりの粗雑さに事務員が「まだ時間あるから手直ししたらどう?」とアドバイスしてくれたが耳を貸さず、「これでいいです。」とそのまま提出。好きになれない学生だったと思う。原稿用紙50枚も書けるわけないじゃないか、というレベルから始まっている僕の卒論が、ここまでたどり着いたのはそれ自体が奇跡なんだ。オリンピックは参加することに意義があるのなら、卒論は提出することに意義があるはずだと僕はかたくなに信じていた。一方では夜明けとともに完成が見えてきて以来、僕は一種のトランス状態に陥っていた。曲がりなりにも提出できるまでになったことで未知の領域に踏み込んだ自分を自分で褒め称えていたのだ。
その日の夜、僕は自分の4畳半、月2万円の下宿で同じ国文科の矢木と一緒に祝杯を挙げていた。矢木は大学で映画研究会に所属。高校時代から脚本や8ミリ映画を自主制作してた。
その夜、僕らは陽気だった。達成感と寝不足と酒が混ざり合って僕らを酔わせていた。矢木との酒はいつも質素だった。家は以前茨城の農家だったが父親が教員になり、校長にまでなり近所では敬意をもって接せられていた。しかし、食生活は欲少なく酒を飲む場合は、生の大根1本あれば肴は足りたとしている男である。
その日僕らが飲んでいた酒はカティサークだったと思う。当時の大学生がうかつに買える代物ではない。マクドナルドのバイトが時給420円の時代である。諸物価はすべて高く、ガソリンなどはリッター140円ぐらいしていた(これはその後、更に上がり170円近くにまでなる。)。僕達は友人の入っていた宗教団体の伝(つて)で探してきたくれた、単発のバイトで裕福だった。それは当時まだ珍しかった、出張パーティの仕事で、2時間のパーティに準備と片づけを入れて4時間ぐらい拘束されて、1万円という破格の報酬を誇っていた。もう一度云うが喫茶店やマクドナルドのバイトが420円の時代である。僕はその前、青山表参道のダイヤモンドホールの結婚式場のバイトをしていた。フランス料理のフルコースを大皿から一人一人の皿に分ける仕事で、熟練を必要としていた。見習いの間はドリンクサービスのみで時給800円もらえることに感動し、片手でフォークとナイフを箸の様に使いこなせるように懸命に練習した。なぜなら見習いから脱すれば時給1200円に跳ね上がり、「三軒茶屋で豪遊」も夢ではなくなるからだ。
時計は午後12時近くを指していた。お互いの卒論に関する苦労話も1段落着いたころ矢木が
「よう湯川!男2人で飲んでても色気がないから女の子のところでも電話すっか?」と出身地のイメージからすると意外とナマリの少ないトーンで話しかけてきた。
僕は不思議の感に打たれた。矢木は常日頃、その手の話題を口にする男ではなかった。高校時代に付き合っていた(追っかけていた)友人の妹がいて、その子の写真やら8ミリだのを散々見させられた覚えはあるが、すべてが過去の話だったはずだ。もっとも矢木は映画研究会にいて、そこには今で言うマニアっぽい人たちと同時に、役者と呼ばれる人もいたはずで、それなりにと言うより体育会系等の運動部に所属している僕なんかからは想像も出来ないくらい豊かな女性関係があっていいはずだ。僕はそう思うことで自分の感覚にけりをつけた。
「お前最近女の子と話してないだろう?」
「大きなお世話だよ!」
「お前はさあ、高校時代演劇部だったんだろう?」
「そうだけど いまさらそんなこと聞いて何の意味があるんだ?」
「今から電話すんのも、演劇やってる子だからよ。」
「へえ~でも僕は別に話なんかしたくないよ。だいたいこんな時間に起きてると思うかよ。」
「まあいいから、途中で代われよ。」
矢木はおもむろに白い電話の受話器を上げてダイヤルをまわし始めた。今となっては逆に信じられないことだが、僕の下宿の部屋には電話が引いてあった。体育会系のクラブの部長をしていた僕は幹部同士の連絡や監督との打ち合わせのために、卒業した先輩から電話の権利を安く譲ってもらっていた。色はクリーム色。他には黒と緑しかなかった時代である。そしてこの電話には今書いていて気づいたけれど巧妙な罠が仕掛けられていたのである。