陽だまりのねごと

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それでもやっぱりがんばらない

2005-09-18 07:44:04 | 終末医療
鎌田實先生の事は何にも知らないで講演に出かけた。”地域に緩和ケア病棟を”と言う市民運動の企画する講演なので応援のつもりでしかなかった。有名な人となのにチケットの売れ行きが今ひとつと聞いていたのに、大入り。安堵する。募金箱が入り口にあった。募金はうんさくさいのが多いしと素通りしようとしたら、駆け寄ってお札を投入する人を見た。かなりの鎌田ファンなのかな、講演の後でその気になったらしようと会場に入った。

ギター・マンドリンのグループ演奏が前座を務めていたが、ざわさわと2階席がやかましい。招待の看護学校の生徒らしかった。『こんな人達、招待して』と思ったが、『こんな人達』にお世話になる将来もあるので、話を聞きに来てくれただけでも良い看護師さんに成る素質ありと思い直して、雑音を排してこの日のために練習を積まれたに違いない演奏に集中した。

先生の紹介があって、先生登場。なんと客席に居られた様だ。手を振ってまるでミュージシャンの様。あったかみのある風体から、かっこいいより親しみを感じたけれど。

スライドが映される。諏訪中央病院の敷地の広さに驚き説明を聞いて、すべての安心が詰まっている事にもっと驚く。しっかり治療。万一の治療が叶わない時の、回復期リハビリ病棟から緩和ケア病棟まである。

夫の死を思う。緩和ケアに移る日、主治医が言った。
「ここは救急病院だから。」
急性期を過ぎた患者の場所ではない。自分の役目ではないと言う事だったのだろうが、その病院には[その後どうする?]の配慮は無い。多くの患者が救急病院で痛み緩和も充分受けられず、死の直前まで6人部屋で過ごすか家に帰される。病院と関連を持った在宅なら良いけれど、縁切りでの在宅は不安でしかない。しかし私の住む地域には救急病院以外を見ない。少し遠くても緩和ケア病棟に入れて死を迎えた夫は運が良かっただけに過ぎない。

有名人の長嶋重雄のリハビリは最大の努力が払われた話が出た。昭和天皇の最後を思った。毎日の輸血。一般人にここまではしないだろうと素人でも予測が付く。鎌田先生は言われた。
「長嶋と同じ医療は誰にでも行われなければいけない。」
庶民にか満足の医療がされていない現実が測らずも浮かんでしまう。

話の中で『許し』についてが印象に残っている。9.11の某国の許さないから石油高騰、先の経済不安にまで話は波及する。会場入り口の募金箱は劣化ウラン弾被害で白血病になった子たちへの義援金だった。私は劣化ウラン弾のと言うまがまがしいモノが使われた事実さえ、うかつにも知らなかった。ちいさな許しの心が平和実現に繋がる。ひろしま平和コンサートの南こうせつの言葉と同じだった。

息子はイジメを許さない。許せない自分の心が自分を苛んでいる。悪循環連鎖を見る度に「もう、いいんじゃない?その辺で。」とお腹の中で私はつぶやいている。

人を気にして生きる、困っている人にちょっと助けの手を貸す事が自然だった80年代前の日本はどこへ行ったのかとも問われた。確かに個人のプライバシーには敏感となり、他人関わらないスマートさが何かをおかしくしている。介護も子育ても社会のモノ。家族すら自分だけでていっぱい。社会に任せようとしている。

病気を診るのではなくて人を診る医師。いっぱい欲しい。

会場を出ると鎌田先生が立って居られた。お礼の会釈をしたら握手の手が出された。うれしくて、ギュッと握り返した。痛かったかしらん?それほどお話は感激しましたと、言う事デス。センセイ痛かったらスミマセン。

ネット検索していたら介護の学校と言う雑誌の”校長せんせいのお話”コラムがある。そう言えば、諏訪中央病院敷地内に介護施設も有ると聞いた。さっそく購読を申し込んだ。サイトに五行歌のコーナーも発見。今は遠のいているけど、かつては熱中していた歌だ。