愛と情熱の革命戦記

猫々左翼の闘争日誌

唯物論哲学は科学的なものの見方の基本です

2009年08月23日 21時48分44秒 | 科学的社会主義

物事の根本的な見かたを見に付けよう - 愛と情熱の革命戦記

 今回の記事は、記事の表題こそ違うものの前記事である上のリンク先の記事の続きです。

 古代ギリシャ時代、アリストテレスなどが生きている時代において哲学とは、自然科学、社会科学の総称でした。現在、物理学、化学、政治学、法律学などが全て古代ギリシャ時代には哲学と呼ばれていました。その後、科学の進歩に伴い、それぞれの分野の諸科学の発達が高度になりました。科学の発達の到達点が高度になるに従い、それぞれの独自性が高まり、自然科学や社会科学が研究対象にごとに独自性を高めていき、細分化していきました。こうして、哲学は、とくに近代以降は根本的なものの見方、思考と存在との関係を根本問題として探求する学問として存在するようになりました。

 哲学上の根本問題を解明したのは科学的社会主義の先達であるフリードリヒ・エンゲルスです。そのくだりを引用しましょう。


 すべての哲学の、とくに近代哲学の、大きな根本問題は思考と存在との関係に関する問題である。(エンゲルス著 フォイエルバッハ論 新日本文庫)

 世界の本源が一体なんなのか、世界の本源を思考(観念)に求めるのかそれとも思考と独立した客観的な存在(物質)に求めるのか、これが哲学上の根本問題として扱われています。世界の本源を思考(精神)に求め何らかの世界創造を認める思想が観念論です。存在(物質)を本源的に存在すると考え、思考を存在(物質)の運動の反映であると考えるのが唯物論です。唯物論と観念論の分かれ道はこれだけです。唯物論と観念論の分かれ道について考えるときに思考と存在との関係をどう考えるのかということ以外の事柄を持ち込むと混乱するだけです。

 よく、唯物論に対する観念論からの攻撃の一つとして、「唯物論は物質主義で人の心を軽んじる、無視する」「物質的、即物的利益ばかりを追求する」という類のものがあります。しかし、これと世界の本源を何に求めるのかということとは別個の問題です。

 通常、正常な人間であれば唯物論的なものの見方をしているはずです。以下の問いを記しておきましょう。

 ○あなたは、人間の精神活動(犬、猫などの動物の精神活動にも当てはまります)を脳の働きであることを認めますか?(あなたは、人間の精神活動には脳の助けを必要としますか?)

 ○あなたは、他人の存在を認めますか?

 ○あなたが生まれる前に、地球や宇宙があったことを認めますか?


 赤い字で記した上三つの問いには、普通の人は「はい(Yes)」と答えるのではないでしょうか。どのような人でも、自分の意識に関係なく存在する客観的な状況をふまえて物事を考えるのではないでしょうか。そういう意味では唯物論は常識的なものの見方です。

 観念論には、おおづかみな分類として、主観的観念論と客観的観念論とがあります。

 主観的観念論は、世界の存在を自分の精神、感覚の表象であると考えます。自分の精神と独立した客観的な物質を認めません。突き詰めて言えば、「パソコンが存在するのは、自分の精神のなかにパソコンがありこれが自身の外部に表象された」という考えに主観的観念論は行き着いていきます。

 客観的観念論では、自分自身の意識とは独立して存在する客観的物質の存在を認めます。ここの点では唯物論と共通しています。違いなんでしょうか。客観的観念論では世界の存在を絶対的な性身体の活動が展開したものと考えます。哲学では、ヘーゲル哲学がこれに当てはまります(ヘーゲル哲学では絶対理念の自己展開の姿が世界を創るとしています)。分かりやすい例では、宗教の世界観が客観的観念論に該当します。例えば、旧約聖書では、絶対的精神体である神が「光あれ!」と世界を創造した旨が記されています。
神、絶対理念の存在を取り除けば残るのは唯物論です。そういう意味では、首尾一貫性に欠けます。人間の社会的認識の発展段階で考えると客観的観念論は唯物論の前夜と考えることができます。

 さて、客観的観念論はともかくとして、主観的観念論でものを考える人が本当にいるのでしょうか、こういう疑問が出てくることが予想されます。むき出しの形で、という人はおそらくいないと考えられます。現実には、主観的観念論はあれこれの形をまとい変種として社会に現れてきます。


 ここで主観的観念論の変種をすべて網羅的に取り扱うことはしませんが、現在の日本で主観的観念論の変種としての現れてとしてみなさんが知っているものがあります。「自己責任」論という言葉はよく聞くのではないでしょうか。これは、現在日本社会のなかで振りまかれている主観的観念論の一つです。日本共産党に限らず、反貧困ネットワークなど貧困をなくしていく活動をしている人、現在貧困に陥っている人は必ずといっていいほどたとえば「貧困なのは努力が足りないからだ」というような一見もっともらしい体裁をもった、ときには悪意に満ちた誹謗・中傷に出くわします。よく考えてみると誰でも分かります。努力というのは、極めて主観的なものです。ですから、努力というを客観的に検証するのは極めて困難、不可能といって差し支えはありません。「自己責任」論は、客観的に検証不能な主観的なもの(例えば努力、がんばり)が、本人の置かれた状況をすべて作り出すという論理によって立ちます。ですから、「自己責任」論は非科学的な主観的観念論の最たるものです。

 「自己責任」論は、現在の日本において支配層の側から意図的に振りまかれた欺瞞に満ちた論理です。なぜ、そのようなものが振りまかれるのでしょうか。それは、人々が日本社会の構造的歪みを客観的検証しながら自分達の置かれた状況を理解しては困るからです。人民の生活苦の原因を彼あるいは彼女の主観的な要素である努力とか晩張り、あるいは心がけの問題に解消して、社会・政治の構造的歪みの問題に目を向けさせないように仕向けて人民を思想的に眠り込ませるための論理としては「自己責任」論は極めて好都合です。ですから、「自己責任」論がとくに小泉内閣の時期に新自由主義とともに大手を振って振りまかれ、少なくない人々が洪水のようにあるれるように流布される「自己責任」論にとらわれていきました。「NPOもやい」などへ相談しに行く人でも例外なく「自己責任」論の呪縛にとらわれているわけです。実際に、相談へかけこんだときの所持金が数十円しかないということが全国的に報告されたのは、まさに「自己責任」論の万円の深刻さを物語っていました。

 小泉内閣の時期と比べると現在では、さまざまな分野での運動の成果が実ったこともあり、貧困、「子どもの貧困」という問題がさまざまな人々によって認識させられるようになってきました。それでも、「自己責任」論を完全に打ち破ったとはいえません。油断大敵です。

 今後も財界・大資本の側からは人民の戦いを押さえ込むべく、さまざまな形で主観的観念論の変種をマスメディアなどを活用しながら総がかりで振りまいてきます。支配層の欺瞞を見抜き、思想的に眠り込まされて自分で自分の首を絞めないようにするためには科学的な世界観である唯物論を見に付けることはとても大切です。また、ある局面だけにとらわれて硬直的なものの見方に落ち込まないためには、世界を変化のなかで捉える弁証法という考え方の基本を身に付けておくことが大切です。

 欺瞞に満ちた反動的なイデオロギーに惑わされないように、多くの方に弁証法的唯物論(唯物弁証法)を学ぶことを私は願うものです。


終わり



日記@BlogRanking 人気ブログランキングへ

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。