キャリコンまっちゃんのホッとひと息

キャリアコンサルティングの合間にホッとひと息。
その日に感じたことや起きた出来事などを
日記形式でつぶやきます。

8月も終わり

2012年08月31日 | 他愛もない話
早いもので、8月も今日で終わり、明日から9月です。
2012年も残り4ヶ月になりました。
毎日、夢中で駆け抜けてきたせいか、1年が本当に早く感じます。
今はまだ暑い日が続きますが、きっと気がついた時には衣替えが終わり、
冬の装いに変わることでしょう。

残りの2012年も皆様にとってよい日になるよう、心からお祈りしています。
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家電量販店 グランドオープン

2012年08月30日 | 頑張れっ!立ちあがろう、ニッポン
今朝、自宅近くの家電量販店が移転後のグランドオープンだったので、
気合を入れて出かけてみました。

ところが、すでに200~300人の行列が店前に出来て、店前の道路や周辺駐車場も渋滞になっていました。

人酔いしたまっちゃんは、列に並ぶのを諦めて喫茶店に移動して休憩し、
ほとぼりが過ぎたお昼頃にようやく入店しました。
店内には大勢の来店客とスタッフがいてやっぱり人酔いし、
父親に頼まれた特価品一つだけ購入して退散!
しばらくの間は行けませんね。

本日の戦利品 Micro SDHC 4GB 380円



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低燃費

2012年08月29日 | わかりそうでわからない表現
前から疑問だった表現に、低燃費という言葉かあります。

これは、自動車のガソリンにおける燃焼効率について
しばしば使用される言葉ですが、一般には
低燃費といえば燃費が良い、つまりハイブリッド車のようなエコカーに向かっていくものと思います。
しかし、よく考えますと、低 という言葉が入るのですから、
本来は燃費の悪い車、たとえばスポーツカーや
大排気量車を指すのではないでしょうか。

高燃費車という表現はあまり聞かないから、良燃費車、あるいは悪燃費車というのが正しい表現になるのか?

まあ、あまり大した話ではないのですが、何となく気になりましたので、
投稿してみました。
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リハビリ経過

2012年08月27日 | 他愛もない話
2月末に左肩を骨折し、その後治療とリハビリを続けてきました。
現在は、フィットネスクラブにそのリハビリの場を移し、軽めの水泳や
フィットネスクラブに一緒に通っている友人の助けを受けて、1~2kgの
ダンベルを使ったリハビリを行っています。

おかげさまで、左肩は日常生活を過ごす上では特に問題はなくなりましたが、
やはり元どおりにはなっておらず、60%~70%程度の回復にとどまって
いるように感じています。
ですから、引き続きリハビリを行い、年内には完治したいと思っています。
実際、フィットネスクラブで運動していて気が付きましたが、加齢と運動不足
により相当体が固くなっていて驚きました。
こんなコンディションでは、ケガをしても仕方がなかったんだなと思い、
日頃の不摂生を猛省し、健康な身体づくりに取り組む意欲が湧いています。

健全な精神は、健全な肉体に宿るといいますが、本当にそうなのもかもしれません。
正直、骨折した当初は思うように体が動かせず、また強い痛みを常時伴っていたので
寝ることもできず、気持ちが暗くなりました。

やはり、人間は健康であることこそ大切なんですね。
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倫理感

2012年08月26日 | コンサルティング
最近、キャリアコンサルティングをしていて感じるのが、
我々専門家の倫理感の欠如です。
どういうことかというと、カウンセリングの内容や相談者と
撮影した写真などをFacebookをはじめとしたソーシャルメディアに
UPする方がまっちゃんの回りで目立つようになったのです。
カウンセラーに限らず、専門家には守秘義務が当然に発生しているはずですが、
どういうわけかネット上では守秘義務が遵守されていないケースが多々あり
危うさを感じます。
これくらいの内容なら大丈夫!と決めるのは専門家ではなく、
クライアント側だということを専門家は理解して、
自身に求められている倫理感を思い出していただきたいと思います。

ソーシャルメディアは使い方によっては便利なツールですが、
時として人を傷つける凶器になり得ます。
人や企業の大切な情報に関わる全ての方にはこのことを良く理解し、
情報の取り扱いや守秘義務を徹底遵守していただきたいものです。
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早朝の悪夢

2012年08月26日 | 他愛もない話
日曜日の平和な朝、清々しい朝のひんやりとした空気と、香ばしいパンの
香りに目が覚め、布団からノソノソ起き上がり、リビングに移動した時のことです。

キッチンで毎朝の日課である、ミルク多めのアイスコーヒーを自分でブレンドし、
ふと目をキッチン外のベランダに目を移すと、そこには。

セミ!

あまりに意表を突かれ、アイスコーヒーを入れたマグカップをひっくり返しそうに
なりました。

ひええ~。

しかも、こともあろうことか、そのセミはひっくり返っているではないですか。

まさか、死んでいるのか?
ということは、いつからここにいたんだ?
と、早朝から思いが頭の中をグルグル駆け巡り、冷静を装いつつも半ばパニック状態に。
妻にセミの存在を伝えるも、頼みの妻もセミが気持ち悪かったのか知らんぷり。

仕方がないので、とりあえずセミのことは忘れて朝食を取りながら、対策を検討することに。
それから10分くらい立った頃でしょうか、ベランダで死んでいたと思っていたセミが
ジジッとかいいながら、バサバサと飛び始めたではないですか!
しかも、洗濯物が干してあるベランダ内で。

やめてくれ~!と、心の声で叫びながら、固唾を飲みながらしばらくそのままに
しておいたら、10分ほど立った頃でしょうか、ジジッという音と共に空の彼方に
飛んでいかれました。


毎年、まっちゃん家のベランダには、セミが一匹くらい訪問されてくるのですが、
子供の頃からセミが大っ嫌いなまっちゃんにとって、悪夢としかいいようがないです。
と、このブログを投稿している間に、今度はスズメバチがベランダ内に侵入してきました。
犬猫以外の生物全般が苦手なまっちゃんにとって、ベランダも気が抜けないですね。
朝からとんだ悪夢でした。
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家電量販店 オープン

2012年08月24日 | 家電好き
まっちゃんの家に近い、K's電気という
家電量販店が移転によるオープンが
来週になりました。

もちろん、家電好きを自負するまっちゃんは行く予定です。

買いたい家電は特にないのですが、
新店舗オープンの雰囲気はなんだか
心が踊り、ワクワクしてしまい、
祝儀的意味合いでつい何かを買ってしまいます。
だけど、今回はナナメ式ドラムの洗濯
機を少しだけ意識しています。

オープン特価で安ければ、思わず買ってしまうかも。
う~ん、買いたいような買いたくないような。
なんていうのかな、大型家電を買う時は、
何か決定的な理由あるいはきっかけが
まっちゃんには必要なんですね。
例えば、壊れたからとか、とても便利な新機能がついたとか。
洗濯機なんて、これまで関心がなかった家電なので、
これを機会にパンフレットを手に取り
K'sのオープンまでに理論武装したいものです。
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三木清氏 人生論ノート

2012年08月23日 | 哲学
まっちゃんは、1947年に出版された、哲学者 三木清氏の
「人生論ノート」を高校の時から愛読しています。

48歳で亡くなられた三木氏ですが、人生論ノートに書かれた
およそ人生を達観した内容は、とても一般の人が48歳までの
生涯で到達できるようなレベルではなく、当然のことながら
まっちゃんも最近になって、ひとつひとつの文章の真意を噛みしめて
います。

特に好きな章は、このブログでも何度も紹介している「旅について」です。
旅=人生とする、三木氏の考え方は今でも共感するところです。

全文を掲載しますので、ご関心がある方はご覧ください。
長文ですので、気長に見ていただければ幸いです。

====================================
旅について 
                       三木 清氏 

人はさまざまの理由から旅に上るであろう。
ある者は商用のために、他の者は視察のために、更に他の者は休養のために、
またある一人は親戚の不幸を見舞うために、そして他の一人は友人の結婚を
祝うために、というように。

人生がさまざまであるように、旅もさまざまである。
しかしながら、どのような理由から旅に出るにしても、すべての旅には旅
としての共通の感情がある。
一泊の旅に出る者にも、一年の旅に出る者にも、旅には相似た感慨がある。
あたかも、人生はさまざまであるにしても、短い一生の者にも、長い一生の者
にも、すべての人生には人生としての共通の感情があるように。

旅に出ることは日常の生活環境を脱けることであり、平生の習慣的な
関係から逃れることである。
旅の嬉しさはかように解放されることの嬉しさである。
ことさら解放を求めてする旅でなくても、旅においては誰も何等か
解放された気持ちになるものである。
ある者は実に人生から脱出する目的をもってさえ旅に上るのである。
ことさら脱出を欲してする旅でなくても、旅においては誰も何等か
脱出に類する気持ちになるものである。
旅の対象として人の好んで選ぶものが多くの場合自然であり、
人間の生活であっても原始的な、自然的な生活であるというのも、
これに関係すると考えることができるであろう。

旅におけるかような解放ないし脱出の感情にはつねにある他の感情が
伴っている。
即ち旅はすべての人に多かれ少かれ漂泊の感情を抱かせるのである。
解放も漂泊であり、脱出も漂泊である。そこに旅の感傷がある。

漂泊の感情はある運動の感情であって、旅は移動であることから
生ずるといわれるであろう。
それは確かにある運動の感情である。
けれども我々が旅の漂泊であることを身にしみて感じるのは、
車に乗って動いている時ではなく、むしろ宿に落ち着いた時である。
漂泊の感情は単なる運動の感情ではない。
旅に出ることは日常の習慣的な、従って安定した関係を脱する
ことであり、そのために生ずる不安から漂泊の感情が湧いてくる
のである。

旅は何となく不安なものである。
しかるにまた、漂泊の感情は遠さの感情なしには考えられないであろう。
そして旅は、どのような旅も、遠さを感じさせるものである。
この遠さは何キロと計られるような距離に関係していない。

毎日遠方から汽車で事務所へ通勤している者であっても、彼は
この種の遠さを感じないであろう。
ところがたとえそれよりも短い距離であっても、一日彼が旅に出ると
なると、彼はその遠さを味わうのである。

旅の心は遙かであり、この遙かさが旅を旅にするのである。
それだから旅において我々はつねに多かれ少かれ浪漫的になる。
浪漫的心情というのは遠さの感情にほかならない。
旅の面白さの半ばは、かようにして想像力の作り出すものである。
旅は人生のユートピアであるとさえいうことができるであろう。

しかしながら旅は単に遙かなものではない。
旅はあわただしいものである。
鞄一つで出掛ける簡単な旅であっても、旅には旅のあわただしさがある。
汽車に乗る旅にも、徒歩で行く旅にも、旅のあわただしさがあるであろう。

旅はつねに遠くて、しかもつねにあわただしいものである。
それだからそこに漂泊の感情が湧いてくる。
漂泊の感情は単に遠さの感情ではない。
遠くて、しかもあわただしいところから、我々は漂泊を感じるのである。
遠いと定まっているものなら、何故にあわただしくする必要があるであろうか。

それは遠いものでなくて近いものであるかも知れない。
否、旅はつねに遠くて同時につねに近いものである。
そしてこれは旅が過程であるということを意味するであらう。
旅は過程である故に漂泊である。

出発駅が旅であるのではない、
到着駅が旅であるのでもない、旅は絶えず過程である。

ただ目的地に着くことをのみ問題にして、途中を味わうことができない者は、
旅の真の面白さを知らぬものといわれるのである。
日常の生活において我々はつねに主として到達駅を、結果をのみ問題に
している、これが行動とか実践とかいうものの本性である。
しかるに旅は本質的に観想的である。
旅において我々はつねに見る人である。
平生の実践的生活から脱け出して純粋に観想的になり得るということが
旅の特色である。
旅が人生に対して有する意義もそこから考えることができるであろう。

何故に旅は遠いものであるか。
未知のものに向かってゆくことである故に。
日常の経験においても、知らない道を初めて歩く時には実際よりも
遠く感じるものである。
仮にすべてのことが全くよく知られているとしたなら、日常の通勤の
ようなものはあっても本質的に旅というべきものはないであろう。

旅は未知のものに引かれてゆくことである。
それだから旅には漂泊の感情が伴ってくる。
旅においてはあらゆるものが既知であるということはあり得ないであろう。
なぜなら、そこでは単に到着駅、あるいは結果が問題であるのでなく、
むしろ過程が主要なのであるから。
途中に注意している者は必ず何か新しいこと、思い設けぬことに出会う
ものである。

旅は習慣的になった生活形式から脱け出ることであり、かようにして
我々は多かれ少かれ新しくなった眼をもって物を見ることができるように
なっており、そのためにまた我々は物において多かれ少かれ新しいものを
発見することができるようになっている。
平生見慣れたものも旅においては目新しく感じられるのがつねである。
旅の利益は単に全く見たことのない物を初めて見ることにあるのでなく、
~全く新しいといい得るものが世の中にあるであらうか~ むしろ
平素自明のもの、既知のもののように考えていたものに驚異を感じ、
新たに見直すところにある。

我々の日常の生活は行動的であって到着駅あるいは結果にのみ関心し、
その他のもの、途中のもの、過程は、既知のものの如く前提されている。
毎日習慣的に通勤している者は、その日家を出て事務所に来るまでの間に、
彼が何を為し、何に遭ったかを恐らく想い起すことができないであろう。
しかるに、旅においては我々は純粋に観想的になることができる。
旅する者は為す者でなくて見る人である。
かように純粋に観想的になることによって、平生既知のもの、
自明のものと前提していたものに対して我々は新たに驚異を覚え、
あるいは好奇心を感じる。
旅が経験であり、教育であるのも、これによるのである。


人生は旅、とはよくいわれることである。

芭蕉の奧の細道の有名な句を引くまでもなく、これは誰にも一再ならず
迫ってくる実感であろう。
人生について我々が抱く感情は、我々が旅において持つ感情と相通ずる
ものがある。
それは何故であらうか。
 
何処から何処へ、ということは、人生の根本問題である。
我々は何処から来たのであるか、そして何処へ行くのであるか。
これがつねに人生の根本的な謎である。
そうである限り、人生が旅の如く感じられることは我々の人生感情として
くつがえることがないであろう。

いったい人生において、我々は何処へ行くのであるか。
我々はそれを知らない。
人生は未知のものへの漂泊である。
我々の行き着く先は死であると言われるであろう。
それにしても死が何であるかは、誰も明瞭に答えることのできぬものである。

何処へ行くかという問いは、ひるがえって、何処から来たかと問わせるで
あろう。
過去に対する配慮は未来に対する配慮から生じるのである。
漂泊の旅にはつねにさだかに捉えがたいノスタルジアが伴っている。
人生は遠い、しかも人生はあわただしい。
人生の行路は遠くて、しかも近い。
死は刻々に我々の足元にあるのであるから。
しかも、かくの如き人生において人間は夢みることをやめないであろう。

我々は我々の想像に従って人生を生きている。
人は誰でも多かれ少かれユートピアンである。
旅は人生の姿である。
旅において我々は日常的なものから離れ、そして純粋に観想的になることに
よって、平生は何か自明のもの、既知のものの如く前提されていた人生に
対して新たな感情を持つのである。
旅は我々に人生を味あわせる。
あの遠さの感情も、あの近さの感情も、あの運動の感情も、私はそれらが
客觀的な遠さや近さや運動に関係するものでないことを述べてきた。

旅において出会うのはつねに自己自身である。
自然の中を行く旅においても、我々は絶えず自己自身に出会うのである。
旅は人生のほかにあるのでなく、むしろ人生そのものの姿である。

既にいったように、人はしばしば解放されることを求めて旅に出る。
旅は確かに彼を解放してくれるであろう。
けれども、それによって彼が真に自由になることができると考えるなら、
間違いである。
解放というのはある物からの自由であり、このような自由は消極的な
自由に過ぎない。

旅に出ると、誰でも出来心になり易いものであり、気まぐれになりがちである。
人の出来心を利用しようとする者には、その人を旅に連れ出すのが手近かな
方法である。
旅は人を多かれ少かれ冒険的にする、
しかしこの冒険といえども出来心であり、気まぐれであるであろう。
旅における漂泊の感情がそのような出来心の根柢にある。
しかしながら、気まぐれは真の自由ではない。
気まぐれや出来心に従ってのみ行動する者は、旅において真に経験する
ことができぬ。

旅は我々の好奇心を活発にする。
けれども好奇心は真の研究心、真の知識欲とは違っている。
好奇心は気まぐれであり、一つの所に停まって見ようとはしないで、
次から次へ絶えず移っていく。
一つの所に停まり、一つの物の中に深く入っていくことなしに、
いかにして真に物を知ることができるであろうか。
好奇心の根底にあるものも定めなき漂泊の感情である。

また、旅は人間を感傷的にするものである。
しかしながら、ただ感傷に浸っていては、何一つ深く認識しないで、
何一つ独自の感情を持たないでしまわねばならぬであろう。
真の自由は物においての自由である。
それは単に動くことでなく、動きながら止まることであり、
止まりながら動くことである。
動即静、静即動というものである。

人間到るところに青山あり、という。
この言葉はやや感傷的なきらいはあるが、その意義に徹した者であって
真に旅を味わうことができるであろう。
真に旅を味わい得る人は真に自由な人である。
旅することによって、賢い者はますます賢くなり、愚かな者は
ますます愚かになる。
日常交際している者がいかなる人間であるかは、一緒に旅してみると
よく分かるものである。

人はその人それぞれの旅をする。
旅において真に自由な人は人生において真に自由な人である。
人生そのものが実に旅なのである。


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三木清氏 人生論ノートより「旅について」全文抜粋

なお、このブログでは、文語体表記を分かりやすくするため、文章中の内容を
現代仮名遣い等で再編集しています。
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続 ラブレイン

2012年08月23日 | 今ハマっているTVドラマの紹介
東海地区で放送中の韓国ドラマ、
ラブレインがいよいよ今日最終回で
まっちゃんはとても楽しみにしています。
冬のソナタの監督が手がけたらしく、
展開は確かに良く似ています。
でも、主演女優のユナ(少女時代)さんがとても綺麗で、
それだけでも満足なまっちゃんです。

最近の国内ドラマでこれほどハマった
ことはないけど、まさかの韓国ドラマで思いきりハマってしまった
まっちゃんです。
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餃子の岐洲

2012年08月21日 | 美味しいお酒が飲める店の紹介
以前、紹介しました岐阜市内にある
美味しい餃子屋 岐洲の餃子を紹介します。

肉まんのような形で、食べると肉汁が
飛び出して来ます。
口の中の火傷は注意が必要ですが、
その美味しさは折り紙付きです。

ただし、開店前から行列が出来ますし
その日の手作り分が売り切れると閉店
してしまうから、サラリーマンの方は
なかなかいけない、まさに幻の店です。
ちなみに、まっちゃんは日曜日夜にいったので、
一時間待ちで入店しましたよ。

餃子


特製炙りチャーシュー


半熟煮タマゴ
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