三島由紀夫の「憂国」を初めて読みました。三島が自決した年齢になって初めて「憂国」を読んでいるくらいですので、私の奥手ぶりも相当なものかと思いますが、心や内臓をえぐられるような気持ちを抱きながら読み終わりました。すごい。
「表現者クライテリオン」の文学対談で三島の「憂国」と「真夏の死」が取り上げられており、大変に興味を持ったので早速どちらも読みました。
文庫本に三島本人のこの作品に対する解説があります。
「『憂国』は、物語自体は単なる二・二六事件外伝であるが、ここに描かれた愛と死の光景、エロスと大義との完全なる融合と相乗作用は、私がこの人生に期待する唯一の至福であると云ってよい。しかし、悲しいことに、このような至福は、ついに書物の紙の上にしか実現されえないのかもしれず、それならそれで、私は小説家として、『憂国』一編を書きえたことを以て、満足すべきかもしれない。」
戦前の家制度における家族のあり方、教育勅語に示された自らのあり方と国家との関係、など、現代の腐敗しきったとも言える状況と照らし合わせ、痛烈な鉄槌を下されるような感覚を覚えます。
藤井聡先生の「大衆社会の処方箋」に示されている三つの処方箋の一つである「活物同期」は、ロックバンドShishamoの「明日も」が一番分かりやすいかと思います(土木史の講義でも20歳前後の多くの学生たちにこの話をし、驚いた学生や喜んだ学生も少なくなかったです)。私もランニングのトレーニングの時によく聴いて励まされました。三つの処方箋のもう一つである「運命焦点化」は、簡単に言うと「死を直視しなさい、そうすると生きることの意義が明確に見えてきますよ」ということだと思っていますが、これは上記の「憂国」にありありと描かれています。私もこの小説におけるくらい、生きることへの感性が研ぎ澄まされ、自分の日常と「大義」とが融合するような感覚を味わえるよう、もしくは近づいていけるよう、模索してみたいと思います。少なくとも本物の「運命焦点化」とはこういうものだ、ということを知ったのは大きいです。
中野剛志さんの言われるよう、「没落」のステージに確実にある我が国の凋落はもはや止められないのかと私も思います。ただ、結論は、中野氏の「日本の没落」の最後にもシュペングラーの「西洋の没落」から引用されている通りかと思います。『われわれは、この時代に生まれたのであり、そしてわれわれに定められているこの終局への道を勇敢に歩まなければならない。これ以外に道はない。希望がなくても、救いがなくても、絶望的な持ち場で頑張り通すのが義務なのだ。』
「憂国」を読み終わるとほぼ同時に、今年の大学院修士課程の講義「耐震耐久設計論」の前半の耐久設計のテキストの最後、T.C.Powersの凍害のメカニズムの論文を学生たちと一緒に読みました。素晴らしい論文で、巨人Powersの秀逸な論文の中でも彼の自信作であろうかと思います。
学生たち(全員、私の研究室の学生)には「憂国」の説明もし、この堕落した没落するしかない時代において私たちのするべきは、一級のものに触れて感じ、私たち自身を少しでも向上させ、社会のために尽くすことであろう、と説きました。そのような気持ちでPowersの論文を輪講しました。
明日はいよいよハーフマラソンです。本日も含め、5日間禁酒しました(9月20日以来の73日間での禁酒率は48%で、2月末までの節制期間の目標の50%にわずかに届かず。。。)。昨日の岡山での現場調査の際、レンタカーのある部分に一番懸念される右ひざをぶつけてしまい、終日右ひざが痛むというアクシデントに見舞われましたが、調査後にスーパー銭湯に行き、20分の下半身マッサージもしてもらい、今朝は相当に回復しており安心しました。現在、新幹線で戻っていますが、軽めのランニングをして、夜はカイロプラクティクにも行って、前夜としては万全を期したいと思います。
勉強したいこと、勉強していることも山ほどあり、論文の添削、研究諸活動の遂行とアウトプットなども含め、まだ自分の限界のレベルでの活動とは言えませんが、徐々に限界のレベルに引き上げているつもりです。それが、自分の日常と「大義」との融合かは分かりませんが、今の私にできることはこれです。
残りの新幹線の時間も有意義に過ごしたいと思います。
Best wishes for your success tomorrow!