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昭和のプロレス:半年遅れの第2戦

2023-09-01 06:29:09 | 日記
15歳で入門

 「甦れ!金曜8時の昭和のプロレス」ではリングを盛り上げた脇役達を
振り返っています。
今週は「花を咲かせ損ねた剛竜馬」です。
 「今の世の中、幾つのプロレス団体があるの?」、そう尋ねられて正確
な数を言えるプロレスファンはまずいません。
それ程プロレス団体が膨れ上がったのは大仁田厚が旗揚げしたFMWの成功
があったから。
 大仁田は涙のカリスマとしていまだに影響力がありますが、それは剛の
お陰かもしれません。
大成功のインディ団体の長に剛がなる可能性があったのです。

 剛は1970年に15歳で国際プロレスに入門。
73年に海外武者修行に出発し76年に3年3か月ぶりに凱旋帰国しています。
一時は国プロエースの一角を占めますがやがて低迷し退団。
78年7月27日に武道館でライバル団体の藤波に挑戦しますが、ジャーマン
を喰らって完敗。
 これでファンの関心は薄れます。
11月17日に行われたプレ日本選手権の開幕戦では、前座レスラーの
永源に辛勝するのがやっとでした。

新団体旗揚げ

 再び脚光を浴びたのは79年10月2日の大阪府立体育館。
満員の大観衆の前で藤波に雪辱を果たし、見事WWFジュニア王座に就いた
のでした。
 けれど絶頂期はすぐに終わります。
4日の再戦で藤波に王座を奪還されると、以降は坂道を転げ落ちます。
81年10月8日の新日対国際の対抗戦では浜口のバックフリッで敗退。
その後も雌伏が続き84年1月29日にはとうとう新日の巡業先から失踪
してしまいました。
 再びその名が挙がったのは新興団体旧UWFの記者会見。
参加レスラーの第一号として剛の名が読み上げられました。
ところがここも終の棲家とはならず、10月5日に辞表を提出してフリー宣言。
 馬場の全日マットに上がりますがそこでも活躍の舞台は与えられず、やがて
整理解雇の通達を受けてしまいます。
国内に存在する全ての団体からお払い箱を喰らった剛、もはや上がるリング
はありません。

 絶体絶命の危機を打破したのは新団体の旗揚げでした。
88年11月15日に浜口ジムでアポロ菅原、高杉正彦を伴って新団体の
結成を宣言しました。
 この構想自体は高杉のアイデアでしたが、剛が流れに乗って「パイオニア
戦士」のエース格に納まりました。
 翌年4月30日に大仁田との一戦で後楽園ホールを満員にして上々の
スタートを切りましたが後の動きが悪すぎました。
第2戦を行ったのは半年後の10月26日。
 その間に大仁田は自身の団体作りに取り掛かり、10月6日にFMWを
旗揚げし4000人を動員、10月10日の後楽園ホールも2400人の
超満員。
ファンの関心はパイオニア戦士からFMWに移ってしまいました。
 剛が迅速に動いていればインディの王者になっていた可能性は低く
なかったのでした。

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