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進化する魂

フリートーク
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安保闘争から考える「誇り」という難しい問題

2010-09-06 10:19:10 | 政治
昨晩、ふと寝る前に手持ち無沙汰な感じがしてTVを付けた。
ザッピングしてたらNHKで放映していた「ETV特集・安保とその時代(3)」で手が止まる。
安部元首相の祖父である岸信介が総理大臣として安保改定を強行した「60年安保闘争」の話だ。

60年安保闘争は、その名の通り1960年(昭和35年)に改定された安保を巡る闘争のお話。
番組内では、ブント(共産主義者同盟)や全学連の元幹部、活動に参加した一般の主婦などが当時を振り返りコメントをしていた。
ブントの元幹部は当時を振り返り、当初は安保そのものの否定のための活動だったが、市民なども加わり活動が大きくなるにつれ、途中から論点が反権力にすり替わったところを反省点として挙げていた
よって、60年安保改定と同時に岸が辞任し、池田勇人が所得倍増計画を打ち出すと、急に安保闘争の火が小さくなっていったと。

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全共闘運動に参加した人々は、よく若者に向かってこういう。
私も何度か言われた。

最近の若者は元気がない。
我々の頃は若いときから政治的関心を持っていた。
今の日本にはデモクラシーがない。
政治的腐敗を市民レベルで解決しようとしていた。
平和ボケしたお子ちゃま。

私のようなヒネクレ者は、そんなこと言われる度に反論していた。

昔、若い人達が政治的関心を持っていたのは、他に考えることがなかったから。
そういうことを考える他に、自己アイデンティティを保つ術を持たなかったからに過ぎない。
あなた方が政治的関心を持って活動をしていたのは、
あなた方が優れていたからでも、また高次な精神性を持ち合わせていたからでも全くない。
そうではなく、単にそれ以外には選択肢がなかったというだけの話。
それを誇られても困る。

こんなことを言おうものなら、それは烈火の如く怒りだし、人格攻撃を受けるのである。
(もちろん実際にはもっと柔らかな表現を使っている。のにだ。)

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私は、全共闘運動の見方として内田樹氏の主張に納得している。
あれは遅れてやってきた「本土決戦」であったと。

全共闘運動は日本をどう変えたか?(内田樹)
http://blog.tatsuru.com/2008/07/06_1145.php

60年安保のときに運動を指導したのは当時20代後半から30代はじめ。つまり、1930年から35年生まれというあたりである。
敗戦のときに10歳から15歳。
国民学校で「撃ちてし止まむ」と教えられ、本土決戦に備えて竹槍の訓練をした少年たちは8月15日に「戦わない大人たち」を見て愕然とした。
彼らに軍国教育を施していた大人たちが一夜明けたら「民主ニッポン」の旗をにぎやかに振り始めたからである。
あの・・・・最後の一兵まで戦うんじゃなかったんですか。
「勝たずば断じて已むべからず」「生きて虜囚の辱を受けず」と起草した夫子ご本人が負けて「虜囚」の獄中にあるというのはどういうことなんでしょうか。
誰か説明してくれませんか。
誰も説明してくれなかった。
この「一夜にして大日本帝国の旗を下ろした先行世代」に対する「恥」の意識が60年安保闘争の底流にあると私は思う。
60年安保は反米ナショナリズムの闘争であるが、それは15年前に完遂されるべきだった「本土決戦」を幻想的なかたちで再生したものである。
ただ、その標的は今度はアメリカそのものではなく、「アメリカに迎合した日本人」たちに(具体的には戦前は満州国経営に辣腕を揮い、東条内閣の商工大臣の職にありA級戦犯として逮捕されながら、アメリカの反共戦略に乗じて総理大臣になった岸信介)向けられていた。

そして、「日本辺境論」で登場する日本人の精神的特長に由来する、この考え方である。
日本人は、反日を掲げる韓国や中国の人々に対して「現実逃避する厄介者」くらいにしか考えていないと思うが、それと同じ理由で日本人もまたこの「安保」問題を抱えていると私は考えている。
「日本人としての誇り」をどう保つかという問題を前にして矛盾を抱えているのと同じように、韓国や中国の人々も誇りの問題を解決できずにいるのだ。
どこの国も同じだ。

箱根湯本で安保について考える(内田樹)
http://blog.tatsuru.com/2010/02/11_0751.php

「日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される」という条約6条の「極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するために」という一文が欺瞞的なものだと知るだけで十分だと思っていた。
誰のための「平和」なのか、何のための「安全」なのか。
ベトナムで人々が殺されているという事実は、どういう理路をたどれば「日本国の平和と安全の維持に寄与」することになるのか。
この問いに対して、私を説得できる答えをしてくれた人は安保支持派の中に誰もいなかった。
6条の文言は現実的には「極東におけるアメリカ合衆国の平和及び安全の維持に寄与するために、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される」という以外の解釈の余地のないものであり、それは端的には「日本はアメリカの軍事的属国である」ということを意味していた。
それくらいのことは誰でも知っていた。
安保条約は本質的には日本がアメリカの軍事的属国として「下働き」をし、その代償として、アメリカの核の傘で「守ってもらう」という契約であった。
私たちが安保条約に反対したのは、条約「そのもの」に国際法上の整合性がないという理由からではない。
「アメリカの核の傘での日本の平和」がまったく国益に資さないという理由からではない。
国際法上には瑕疵がないのかもしれないし、軍事に投ずべき予算をアメリカに負担してもらうことはむしろ国益に資するという判断も合理的かも知れない。
「日本は戦争に負けたので、これからはアメリカの軍事的属国になる以外に選択肢がないのだ(その悲しみと恥を国民的に共有しよう)」といういちばん常識的な言葉だけが、左翼によっても、右翼によっても、誰によっても口にされなかったからである。
私たちはそのことに苛立っていたのだと思う。
安保条約は「リメンバー・安保条約」というかたちで、「国民的な恥の記憶」とともに心に刻み込まれなければならない種類の屈辱的な条約であった。
そのとき、日本はそのような屈辱的な条約を甘受しなければならないほどに国際的に弱い立場だった。
戦争に負けたのだから、それは仕方がない。
弱い国は弱い。
シンプルな事実だ。
誰かに、はっきりそう言って欲しかった。
その事実をまっすぐにみつめなければ、そこから這い上がることはできない。
だから、安保条約反対闘争が国民的規模で拡がったのだと思う。
反対闘争の目的は、ひとことで言えば、「日本は屈辱的な地位にいる」という平明な事実を「国民的常識」に登録しようという提案だった。
その事実認知からしか戦後日本の再建という遂行的事業は始まらない。
この50年は「日本はアメリカの属国である」という世界中の人々が知っている教科書的事実を、私たち日本人だけが「知らないふり」をしてきた50年間である。
もちろん「知らないふり」ができるのは、そのことを「知っている」からである。
それを意識に前景化させまいと、つねに抑圧が機能しているから「知らないふり」ができるのである。
その抑圧の機制については、これまでも何度も書いてきた。
それは敗戦後の日本人は「自分が『弱い』ということを認めることさえできないほどに弱っていた」からである。
自分の弱さを認めることができるためには、ある程度の強さが必要である。
その「強さ」が1960年の日本人にはまだ足りなかった。1970年の日本人にも足りなかった。
それはたぶん「アメリカが強すぎた」からである。
2010年の日本人は「私たちは弱い」ということを冷静な言葉で語れるほどには、それにうなずけるほどには「強く」なったであろうか。
少しはなれたのではないかと思う。
ただそれが「日本が強くなった」ことによってではなく、「アメリカが弱くなった」ことによってもたらされた望外の帰結ではなかったのかという一抹の不安がぬぐえない。

安保については『中央公論』の今月号でもインタビューに答えています。
こっちの方は「平和憲法と安保条約の同時廃棄」こそが日本国民の見果てぬ夢であるという、さらにめちゃくちゃな論を展開(読んでね)。