粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

国として余裕のない韓国

2013-10-29 16:51:47 | 厄介な隣国

最近の韓国人による日本叩きを見て、当初彼らの民度が低いことが原因であると考えていた。しかし、最近は韓国人に民族としての余裕がないことが背景にあるのではないかと思うようになった。

韓国が独立して65年、これまでの政権は日本の統治時代を否定することでその正当性を国民に示し続けてきた。ちょうど中国の王朝が交代する時に新しい王朝を正当化するために、前王朝の横暴や残虐性を強調するように。韓国も反日教育によって日本統治時代の悪行を盛んに喧伝して現政権の正しさを主張する。

ただ、反日教育は戦後政権のあくまでも過渡期の政策として、いずれは廃棄すべきものであった。それに変わるものが、経済成長による国力向上での自信と過去の朝鮮文化への誇りである。それを十分に国民全体が持っていれば隣国との関わりで過剰な意識をもつこともなかっただろう。

しかし、韓国は経済発展はしたが、常に日本を意識しその競争に勝つことばかりを考えてきた。いまだ先進技術では日本の黄後塵を排している。その間国民格差が日本以上に広がり国民全体の連帯感が失われつつある。

残念ながら韓国には反日教育を克服できるだけの誇り高い歴史と文化を国民全体で共有しているように見えない。それをもっていれば、日本の統治時代を冷静に認識しその肯定面も認める余裕ができるはずである。しかし、今日に至ってもそうした動きが見られず、逆に慰安婦問題で旧日本軍を悪玉に仕立てて日本非難を増幅させている。

すなわち今の韓国には経済的な余裕がないばかりか民族としての文化的余裕もない。それが日本に対する歴史認識の歪んだ要求となったり米国などでの日本叩きであったりする。米国在住の韓国人が自分の民族としての自信があれば、隣国の過去の行為をあげつらうこともないはずだ。隣国からの被害者意識を主張することでしか自分の民族意識のアイデンティティを持ち得ないのは情けない話だと思う。

そのとばっちりを受ける日本はたまったものではない。確かに日本の朝鮮統治は全て正当化できるものではない。問題にすべき点はあるだろう。でも多くの日本人はその有無をわきまえていると思う。すなわち、民族問題や隣国関係を考える場合はその是非を冷静に見られるかどうかが肝心なのだ。国民の余裕とはその辺りにあるのではないか。


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