blog-atom 2

…漁師アトムの航跡… ~ある沖乗り漁師の綴記~

続、回顧記 27話 「昭和~平成」!

2007年01月12日 | 船上回顧記

昭和6311月雇用、

平成元年8月雇用止め、「第61長功丸」

当時の船員手帳を見ると昭和から平成に

変わった頃を思い出します!

十勝港の船での漁期終了後、今後の船員生活を

選択する事で悩んでいました。

その時期に「第61長功丸」の漁労長から

「秋刀魚漁から新造船になるので一緒に行こう」と

誘われました。

鮭鱒漁もイカ流し網漁も200海里規制になって

来期は期待できなくなっていた時でしたので

初めて乗船できる最新鋭の新造船に魅力を感じ、

承諾、乗船することにしました。

再び「第61長功丸」で鮪漁へ!

遠洋に出港、「北バチ」海区を操業しハワイ、ホノルルで

燃料と食料を補給後、一晩の休みで

ホノルルナイトを楽しみました。

当時、我々日本漁船が接岸するハーバーの近くに

「クラブ、ヨーコ」という酒場があり

ホノルルに入港する日本漁船の船員は、

ほとんどが足を運んでいました。

クラブ内で歌ったカラオケは、

翌日の午後にはラジオで流れ、

ホノルル出港後、船のラジオで聞きながら

次の漁場に向け航走して行く!

次に向かった漁場は、ジョンストン海区と

呼ばれている漁場で、30回程操業した頃に会社から、

「鮭鱒漁に行く事になりそうなので帰港せよ」

との連絡があり漁を半端で帰港してきました。

が、再度の連絡で鮭鱒漁には行けない事になり反転沖へ!

操業を再開、満船で帰途につき、

静岡県の清水港に入港すると

昭和から平成に年号が変わっていました。

次の航海は約40日間、近海での鮪漁を行い帰港。

気仙沼港に入港する時、市場へ接岸する前に

造船所の前まで行き、秋刀魚漁から乗船する

新造船を見ました。

期待に胸を高鳴らせたのを憶えています。

平成元年8月、新造船「第三長功丸」での

処女航海、この日から個人で日記を

書くようになり、のちにパソコンを

購入するきっかけとなりました。

気仙沼港を出港し、

唐桑半島の御崎神社を洋上から参拝!

船首左舷から「つるべ」で海水を掬い、

その「つるべ」に入っている海水で船首にある

「立」を清め、御神酒を奉げ、手を合わせる。

航海の安全と大漁を祈念して漁場へ向かいます!

長功丸では気仙沼港から出漁する際、必ず

行っていた儀式である。

乗船時、その儀式は私の担当でしたので

今でも、進む方向から順序まで憶えています!

その最初の航海は日暮れから大群と遭遇し

「走り」(秋刀魚漁序盤)から大漁で

気仙沼港に一番船で入港、

幸先の良いスタートを切りました。

しかし、その次の航海、岩手の水産高校を卒業し、

乗船してきた当時19歳の若者が、

「参拝の儀式をやらせてほしい」

との事で、交代しました。

ところが「つるべ」を海に入れた瞬間

「つるべ」に入った海水の重みで

海に落ちそうになった。あわてて駆け上がり

若者をつかんだが、「つるべ」は海底に沈み、

浮かんではきませんでした!

縄を手に巻いていた若者の手の甲には

鮪縄の痕が痛々しく残っていました。

その若者は軽はずみな気持ちで行ったようですが

さすがに年配の方々は、参拝を重視しており

縁起を担ぐ儀式としていたので、

口を開く方はいませんでした。

その年の秋刀魚漁は大豊漁で漁獲制限が続き

魚価は暴落!豊漁貧乏で漁を終えました!

そして鮪漁に出港、漁の後半、

荒天操業中に船尾から飲んだ波に流され

コンベアーの下に足と腕を挟まれ大怪我!

入港後、入院、右膝と左肘を手術し

次の航海を休む破目になりました。

平成二年8月、

1冊目の船員手帳が有効期限をむかえ

2冊目の船員手帳と共に秋刀魚漁に復帰!

平成二年、船員手帳の写真は

あどけない学生服姿で写っていた

1冊目とは違い、若人の写真に変わりました。