『蝉しぐれ』 2016年5月5日
眼の違和感が一切なくなったね。しかし、オレも年並みに弱くなったよ。病院なんか行くのが面倒なだけだったのに診て貰おうと素直に足を向けてる。
昔、布団の上でエクソシストみたいに身体が跳ね飛んだ時も行かなかった、面倒なんだね。20年近くして筋肉痙攣だったってことが偶然解った。
オレは心臓だと思ってた。鼓動がやばかったからね。想像する時間は恐い、でも来たら、実際、意外と恐怖心より覚悟をする自分が居るよ。
こうしてズボラでクリアして、なんとか健康そうな顔して生きてるね。「そんなもん、いつまでも続かんで」って新聞配達のおじさんが怒ってる。
「煙草もやめなあかんっ」 そうだね。「★★ちゃんは云うだけや、ワシなんかキッチリするから云えるんやっ」 おじさんは凄いね。「そやっ」
手の手術も無事に済んで良かったね。「こんなんは、一種の職業病やな」 左手の指の腱かな? 切ってもとに戻すんかね? 病院慣れしてるよ。
「野菜を食べてるか?」 喰ってるような喰わぬような、てんこ盛りされて食えるかあ? うさぎじゃないで。「そんなもん食わなあ」
オレはね、野菜はジューサーへ放り込んでコップに入れてくれって云うの。不味かろうがグイッと一飲みで栄養が採れるよ。「味気ないやろ?」
野菜の食感を愉しみたい欲求はない、栄養だけでいいよ。そのうち、自分でジューサーに放り込んで一飲みで栄養を採取する習慣を身に着けるよ。
喰うことなど二の次三の次だね。朝の茶漬けに勝るものはないよ。夜食(深夜)が美味いって思える時がある。「夜食が一番身体に悪い」って奥さんが怒る。
焼きたての上手い食パンを見るとマーガリン塗って砂糖振りかけミルクで頂く、美味いんだねえ。「マーガリンはええことないねんで」 目聡いね。
「エライ目に遭うわっ」 オレが喰うことでエライ目に遭うなら世の中の奴は、全員、どえらい目にあうよ。オレは、喰わないもんね。
「何が愉しくて生きてねんな?」 なんだろうかねえ?、美味い夜食も、一時、続けて喰ったらピタッとやめてしまう。
『蝉しぐれ』 2005年 東宝映画
今日(1日)は、のんびりしたよ。何することも無いのに、家ん中、動物園の熊みたいにウロウロしてても仕方ないから、
結局はパソコンの前に腰かけてぼお~としてたの。何かしら感動するような映画が無いかいなってブック型のDVD入れを繰ってたら
時代劇の 『蝉しぐれ』に眼が止まった。今の時代劇に終始満足のいく作品は望めないんだけど、部分、部分で引き付けられる作品はある。
此の『蝉しぐれ』も、他に役者が居らんのかって云いたい配役でガッカリさせられるけど時代劇に忠実な姿勢もうかがえて駄作ではないね。
藩内の権力闘争に翻弄される男女の切ない悲恋を描く本格時代劇とある。なのに、なんで芸力の全くないお笑いタレントが主役の周りに配役されてるの?
其の道では、兎も角、今田耕司なんか、映画を潰すために出てるようなもんだよ。必死に芸に精進する者たちを愚弄するな。
今の奴らの感性は脱線してるのがいいのか? まともに走る電車では目的地に着けないのか? もしくは若い市川染五郎をホローしてるつもりか?
不当な汚名に耐え、ようやく家の復権がかなった青年藩士が、かつて淡い初恋を育んだ幼なじみと皮肉な再会を果たし、
新たに巻き起こる派閥抗争の渦の中で、藩に仕える武士としての宿命を背負い非情な運命に立ち向かう姿を四季折々の美しい映像と共に綴る。
藤沢周平の傑作小説を映画化して、主演は市川染五郎と木村佳乃。木村佳乃って知らなかったけど、この人はラストでいい演技をしてるね。
江戸時代、東北の小藩 海坂藩。十五歳の文四郎は下級武士である義父の助左衛門(緒方拳)のもと、親友たちと剣術や学問に励む毎日を送っていた。
一方、隣家に住む幼馴染みのふくとも淡い恋心を育んでいく。そして、文四郎が尊敬する父のようになりたいと思い始めた、矢先、
その助左衛門が世継ぎを巡る陰謀に巻き込まれ切腹を命じられてしまう。それを境に、罪人の子として辛苦の日々を過ごす文四郎。
そんな彼に唯一変わらぬ態度で接してくれたのは親友とふくだけであった。しかし、ふくはほどなくして江戸屋敷で奉公するため旅立ってしまう。
それから数年後、成人した文四郎に筆頭家老から牧家の名誉回復が告げられるのだったが…なんて解説されてるね。
此の映画の見せ場のひとつは、文四郎が腹を斬らされた義父の助左衛門(緒方拳)の躯(むくろ)を大八車に載せ家に連れ帰る道中、坂道で苦しむ文四郎を
手助けして幼馴染みのふくが大八車の後ろを押して往くシーンだね。此のとき文四郎は十五歳、ふくは十二歳。
江戸に奉公に出たふくは、海坂藩江戸屋敷に仕え殿の眼にとまりお手付きになる。言葉で綺麗に飾ってるけど、ただのドスケベ男の手にかかったんだね。
そのドスケベ男の跡目相続のお家騒動で側室のお福の方(ふく)(木村佳乃)の子の命が狙われる。それを守る側に文四郎(市川染五郎)が居る。
殿の寵愛を受け子を産んだ側室お福の方の身分は昔のふくではないが、二人の中には、双方、初恋の想いが脈々と生き続けているんだね。
お福の方が匿われている欅(けやき)御殿を対立する側の襲撃隊が襲う。文四郎の働きで此の危急を脱して騒動は収まる。
騒動から十数年後、側室として仕えた前藩主が亡くなり、その一周忌を前にしてお福の方は白蓮院(びゃくれんいん)の尼になることを決める。
お福の方は、尼になる前に、一目、文四郎と対面したく文(ふみ)を送るんだね。
「わたくしは、江戸へ行くのが嫌で、あの時は、お母様に・・・」
「わたくしを文四郎さんのお嫁さんにしてくださいと頼みに行ったのです」 「でも、とても、そのようなことは云い出せませんでした」
「暗い道を泣きながら家へ戻ったのを忘れることはできません」
「この指、覚えておられますか?」 「蛇に噛まれたのです」
「よく覚えています」 「忘れようと、忘れ果てようとしても忘れられるものではございませぬ」 お福の方の目から涙が溢れ落ちるんだね。
「文四郎さん・・・」 語りかけて言葉に繋がらぬお福の方に、 「ふく」 文四郎の口から洩れる。
顔を上げ文四郎を見つめるお福の方、 「ふく」 文四郎の想いの全てが込められていたんだろね。
この奥ゆかしい語らいの中で、思いの堰を切ったこころの声が文四郎の口から漏れて、ともにならぬ恋で有ったことに感極まるんだね。
The Samurai I Loved (Semishigure)
『こんなのしかないね』 イメージソングが劇中に使われなかったのは一歩の長だよ。岩代太郎なる人の作曲の主題曲がいい。
見詰めあう二人の顔とオーバーラップされ遠い昔の二人の回想シーンに移り、そして御籠の人となったお福の方を路の際に立ち見送る文四郎、
ともに諦めがたい思いを押し殺し別れ往く。原作では、此のとき文四郎は、まだ、独り身で在ったらしい。
久方ぶりの対面でお福の方が聞く 「文四郎さん、お子は?」 「二人です」と応えている。「上が男、下が娘でございます」 有らぬ嘘だったんだね。
此の悲恋のシーンに外国の観客が大泣きしたという。控えて控えて作法に倣いつつの姿と本身の想いとの節度かね?
青い目の西洋の人にも通じているんだね。この対面のシーンは、昔ながらの時代劇に至って忠実に描かれている。
余韻冷め遣らぬ感動のシーンだね。本当の時代劇を観た思いにさせられたよ。
オレは、武士でもなければ高尚な人間でもないけれど文四郎の真似事は出来るんじゃないかと思えるよ。
自分の人生に忠実に生きたい思いがある。筋を通したい思いがある。綺麗に生きたい思いがある。己を殺してでも守りたいものがある。
それは、独り身なればこそ出来ることかも知れないね。我が身だけの納得で済むからね。
人が重なれば、それは、ただ理想であって我を押し通す形に落ちる場合もあるんだろうね。
人を向上させる力ともなる欲は人を汚しめもする。浮世の中に在っては、人とは重なり互いを生かして往くものかも知れないからね。
人と人の間には垣根が在る、取り払えるものもあれば叶わぬものもある。
手と手は届くのに越すに越されぬ垣根の在る恋は重くて悲しくて切ない。