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昨日の「心ぶら」を書いていて、ふっと思い出した。昭和40年代後半から50年代かね?
心斎橋筋から戎橋を渡り、真っ直ぐ戎橋通りに入って進んでいくと上町通り(千日前通り)に出る。其の車道を渡って戎橋筋をそのまま進む。
はじめての脇道を左に見ると千日センター(デパート)のビルが、工事用の塀に囲まれて長く放置されていた時期があったね。
工事用のトラックが出入りする出入口があって、中が見えるんだけど、いつ見ても瓦礫の積もった暗い屋内の様子は変わらなかったよ。
次の通りの角には、551の蓬莱、生地屋の虎屋があって、そこを左(東)に曲がると、其の千日センターの横手沿いを歩くことになるんだけど、
此処を通過する折、ドーンッとかズシーンッとか、突然、落下物が床に叩きつけられるような音が響くらしい。
この通りは、千日前筋に交差して、更に東へ進むと堺筋に出る。日本橋筋一丁目交叉点が横にある。此の堺筋を渡ると黒門市場に入るんだね。
千日センタービルの向えは、国際劇場、国際地下劇場の映画館、昔から有名なカレーのお店、明治軒、山本文具店などお店が並んでる。
オレの記憶では、此の通りにはアーケードは、無かったように思うんだけど、当時の話だとあったようだね。
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千日前筋と交差するところには、向え側にアシベ劇場、通りを挟んで東映、其の横手に千日会館の映画館が並んで大劇通りに名が変わる。
アシベ劇場の地下はナイトサロンがあって、夕方5時を回るとドレス姿の女性が入り口に並び客を迎えるのを毎度のように見てたよ。
化粧お化けのおばさんが圧倒的多数であった。「おまえ子供やろ?」 そう、しかし、見るべきところは、きっちり見てた。
「なんで、毎度、そんな時間に子供が繁華街をうろついてんや?」 学校帰りだよ、オレの通う小学校は、繁華街の真ん中にあったんだよ。
通学路は、繁華街でそれに至る道は大人の世界だったんだよ。表と裏が、垣間見える嘘っぱちの世界だね。「ひねててんねえ」 商品底上げだよ。
それから10年程は、其の地で育ったよ。然るにオレは、今まで、そういう道には染まらなかった。「へええ~」 わざとらしい反応やね。
テレビなんかで、誰かが意外なこというと、どいつもこいつも声揃えて 「へえええ~」 オレは、あの声聞く度に腹が立つ。
そうして腹立ててるオレも、たまに「へええ~」って反応してるけどね。そういう時は、自分に腹が立つ。
子供の頃から、化粧お化けの表と裏を知らず知らず知ってしまったんだろうね、だから、ネオン街はずっと好きになれなかったよ。
20代から急に少年時代に戻ったりするとややこしいね。「断り入れろよ」 アシベ劇場の地下のナイトサロン辺りから少年時代になったね。
記憶が交錯しておるんだよ。此の地は、オレが、20代なるまでは、あまり変わってないからね。
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此処で、また、20代前半に戻るよ。いや、待てよ、もうちと昭和30年代の少年時代で語ろうか。
千日センターの北側は、上町通り(千日前通り)なんだね。当時は、まだ、市電が走ってたよ。経路は、西へは湊町、
東へは、日本橋筋一丁目、下寺町(生玉、高津神社)で上町台地の坂を上がって谷町9丁目を経て上本町6丁目から今里。全てが庭であったね。
千日センター(デパート)は、1958年(昭和33年)12月1日に開業した商業ビルで、専門店街や劇場などが入居していた。
毎度のように通ってたね。朝10時から夜10時までの営業だったから。当時としては利用価値が高かったのかして客入りは良かったと思うよ。
6階(5階?)に遊技場があって、当時流行っていたスマートボールで、よく遊んだよ。パチンコ台2台分ぐらいの大きな盤で、ピンポン玉ほどの陶器の白い玉を打つの。
パチンコ台を寝かせたような盤なんだけどコッキィーン、ボワーン、ドスッドスッドスッ、ビキィーンなんて白い玉が釘に跳ねながら走るんだね。
その上7階に、アルバイトサロン、アルサロの店があった。遊技場の前にエレベーターだったかな? そのサロンの入り口みたなのがあったね。
3~4階のイズミヤから上階は、閑散としててキャッキャッ云って遊び狂ってたよ。広い階段だったね。
3~4階のイズミヤ店内もおぼろげながら覚えている。
「お詫び」 『コメント頂き見直すと、ホントだあ、「イズミヤ」になってるよ。ごめんなさい。「ニチイ」でした。なんで、イズミヤになったんだろ?
「おまえが書いたんだろ?」 なんかの思い込みだね、笑ってしまうよ。埼玉のみやのこ様、有難うございました』
1~2階も部分的には鮮明に記憶がある。1階正面玄関は、ホール一杯に半円形上に階段が設けられていたように思う。
当時は、日本橋筋1丁目に我が家があった。だから、南区(現中央区)は、我が家の庭的感覚で育ったね。
それから、万博だったかな? 上町線(千日前通り)拡張工事の区画整理の域に入り我が家は立ち退きになり、日本橋筋1丁目から北へ道頓堀、八幡筋、
清水町筋へ上がった船場に引っ越した。20代の頃だね。清水町筋を西へ歩けば、心斎橋筋の大丸、そごうだった。
1972年(昭和47年)5月13日、千日前の千日デパート(当時は、千日センターって云ってたけどねえ)で火災が発生した。
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午後の10時半ぐらいだったかね? 消防車が狂ったみたいにサイレン鳴らして走るんだね。「なんや?」 堺筋を走るサイレンの音が途絶えないの。
「ちょっと、見てくるわっ」って自転車で南に向って走った。これは、相当の大火事やと思いながら、サイレンの停滞してる方角に自転車を走らせた。
南綿屋町筋から道頓堀川を渡る頃、千日前当りの空が赤紫に染まってるのに気づく。「何処や?」 方角から千日センターの辺りと解った。
日本橋筋交叉点から西は、煙が凄く消防車の赤色灯だけが、煙の中でクルクルまうのが一杯見えるだけで行けそうにない。
野次馬や車で混雑する交叉点を渡って、交叉点の南西角、鎌田特許の建物がある側に行き、南側はじめての通りに入った。
最初の交差路に肉屋の関口がある。ここの揚げたてのコロッケが、めちゃっくちゃ美味いっ。「そんなこと案内してる場合かっ」
馴染みの散髪屋さん、パン屋さん、学校帰りに必死になって溝に逃げたドジョウを捕まえた鰻屋さん、そして、漬物屋のはるひこ、
此処の漬物も勿論のこと、梅干が最高に美味いっ赤くないやつネッ 「商店案内か?」 二つ目の交差路まで来たらモウモウの煙で前が視認できない。
このときには、火元が千日センターだと解った。はしご車がモウモウたる煙の中、梯子を伸ばして先端で消防士が放水してる。
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物凄い煙なんだね。煙の中で、消防、警察の赤色灯がクルクル回ってる数が一杯なの。真っ黒な窓から男性らしき人がぶらさがってる。
真っ黒と土色の煙がモクモクと噴き上がって視界を閉ざすんだね。これ以上は、前に進めない。交差路から近くに在るべき上町通り(千日前通り)も見えないよ。
全身の毛が逆立つ感触で身震いしたよ。この時、千日センター内、及び、其の周辺では地獄絵の如き凄惨な状況が展開されていたんだね。
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下階店舗が閉店した直後の22時27分頃、3階婦人服売り場より出火。
延焼は5階までだったが、建材の燃焼による有毒ガスが階上に充満し、避難設備の不備と従業員の不手際が重なって大惨事となった。
出火原因は電気工事関係者のたばこの不始末で、出火場所は3階フロアーの南東角の部分であったという。
南東角といえば、オレが、漬物屋のはるひこ辺りで見えた部分が火元だったんだね。
逃げ道であるはずの階段が煙突の役目を果たし、営業中であった7階のキャバレー「プレイタウン」にまたたく間に煙が押しあがった。
此の日は、土曜日で、休みの前日に当たり店内には客が多かった。
当時はまだ週休二日制は一般的ではなかっけど、所謂“半ドン”で土曜の午後を余暇とする習慣があったんだね。
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更にエレベーターが火災による停電で停止。逃げ場のなくなった客の中には窓ガラスを割り、15m下の地上目掛けて飛び降りた者もいたが、
飛び降りた24名の内22名が全身挫傷や頭蓋骨骨折などで死亡。
被害を拡大させる一因となった。飛び降りなかった客の多くも一酸化炭素中毒で窒息死し96名が7階フロアで折り重なるように倒れていたという。
一部は、窓枠にしがみつき半身を乗り出した状態で絶命していた。また非常誘導路上に間仕切りが施され、利用かなわなかった等、雑居ビルの欠陥を露呈させる事件となった。
千日センターは、此の火災後、南の一等地に在りながら買い手がつかず、長い間廃墟化したまま放置されていた。
その後、ダイエーが購入し「プランタンなんば」と銘打って開店した。
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其の頃かららしいんだね、旧千日センターの横手を歩く人々が、突然、地面に何かが叩き付けられる音で吃驚する怪奇な現象が起こるのは。
また、プランタンで働く人々が、数え切れないほど不思議で不気味な現象を体験するんだね。
客がプランタンに入ろうとすると、連れてる子供が、突然、激泣きして「怖いっ、嫌あっ」って拒むとか、階上に上がるにつれて無性に喉が乾くとか。
霊感の鋭い人は、立ち入らないらしい。沢山の霊が居ると断言しているんだね。
あれほど通い馴れたところだったけど、此の火災後、一度も入ったことがない。
べつに、怪しい話を聞いた訳でもなかったけど、住まいが、阪急の沿線に移ったことから、生まれたとこに近い北区に行動範囲が変わったからだね。
南とは、縁遠くなって何十年、今では、プランタンなんばからビックカメラになってる。ビルを、一旦、解体したのかなあ? まだ、そのままかあ~?
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今回は、火災に於ける詳細な出来事は、平日で時間も無いので省略する。次の機会にお話します。
この千日センタービルは、大阪では、最強の心霊スポットで有名らしいですね。知らんかったよ。「出るぞお~」なんてのは云ってたけど。
下のアーケードは、当時のままのもので、この上に飛び降りた人も多く居て、突き破って地面に叩きつけられたらしい。
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ビッグカメラの建物は全く新しいものかは不明だけど、除霊に関しては、相当、真面目に力を注ぎ込んで新装したらしいね。
(追加です)後から解ったんだけど、長く廃墟のような状態で放置された後、千日デパートは、やっぱり、取り壊したんだね。
改装したぐらいじゃ誰も寄り付かないだろうね。「昭和の大阪」って写真集に更地になった様子が写真に残ってる。
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『1981年(昭和56年)1月 千日デパート取り壊し後の更地』
千日通りの上を高速が走って、更地の向こうに国際日活劇場、精華小学校、南街会館、高島屋が見える。
1981年(昭和56年)1月の撮影だね。火災があったのが、1972年(昭和47年)5月だから9年程経ってからだね。
前身の長く歌舞伎座だった建物が消えちゃった訳だね。
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『1967年(昭和42年)の千日デパート 手前は御堂筋』
火災は、この5年後だね
この火事の2年後、洋画「タワーリング・インフェルノ」を道頓堀の松竹座で観たの。超高層ビルの火災を描いた大作だった。
オレは、思ったね、アホと煙は高いとこ登るで、これからビルの上は、余程の用事が無い限り上がらないって決めたの。
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1972年度アメリカ作品 『タワーリング・インフェルノ』
足元攻められて立つことは出来ない。火や煙に追われたら上へ逃げるしか術がない。上には限りがある。
高いところから低いとこ見たくなったら山へ上がればいい。人は、地に足着けて生きるべきだよ。
ラストで、設計士のポール・ニューマンに消防隊長のスティブ・マックィーンが、人の驕りを戒めるようなこと云ってたね。
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「ポール・ニューマンとスティブ・マックィーン」
私は埼玉県下に住んでるみやのこと申しますが、以前日本橋二丁目(もとの御蔵跡=おくらと=町)に住んでた事があるので、ミナミ界隈のことはよく憶えてます。
まず、千日デパートのテナントにはイズミヤではなく、ニチイ(当時)千日前店が入居してましたけど、往年の大阪市電の側面広告にも出してた様です。
次いで、千日デパートの建物ですけど、昭和50年代半ばに解体・撤去され、その跡地に建つ予定のビルの仮の名称は『新・千日デパート』だったものの、イザ蓋を開けてみるとご存じの様にメインテナントのプランタンなんば(当時)で板についたそうです。
私も大阪に住んでた当時、よくプランタン(のちのカテプリ、今のビックカメラさん)さんにはチョコチョコ行ったりしましたけど、様々なテナントがある故に千日デパートの魂は生きてるのだなと、感心した想い出があり、未だに忘れる事が出来ないです。
それでは、失礼いたします。