カメレオンの独り言

当分は漫ろ言の漫ろ歩き、頭に浮かんだ事柄を挿絵と写真と下手な文で綴ります。色々と間違い多いですがご容赦を。

カメレオンの独り言-1237 『懐かしの映画 史上最大の作戦ー前編』

2014年09月26日 | 日記








 『史上最大の作戦』 The Longest Day 1914-9-26








時代だね、映画が娯楽の主流だった1970年頃までは、一本の映画に対する思い入れが今の比じゃないね。誰もが同じ思いを共有していたよ。

昭和37年、道頓堀の松竹座で「史上最大の作戦」が上映されてたね。映画館の前は、これでもかって感じで大看板が掲げられて映画の世界へ引き込むんだね。

上映待ち時間には「史上最大の作戦」マーチが鳴り響いてた。前を行き来する人たちが、足を止めては看板を見上げてた。





オレも行ったよ、映画館の前で切符持って、次の上映時間を待ってたね。今みたいに時間制じゃないので場内への出入りは自由だったけど、

外から見ると、ロビーの向こう側の場内ドアが膨れて開いてる。立ち見の人の背中に押されてんの。とてもじゃないけど入れない。

その人らの頭の向こう側にスクリーンが緑がかったモノクロシーンを映し出してるのが見えるんだね。此れが堪らんかった。背伸びして見るんだね。










『1992年封切りのボディガード公開時の大阪道頓堀筋 松竹座』 映画封切り館当時の写真があまり残ってないね。








場内から「史上最大の作戦」マーチが聞こえてくる。ラストだね。暫くするとお客さんが動き出す。

切符を渡してロビーの中へ入り、入れ代わりに備えだすんだね。ザワザワザワと観客が溢れ出て来る。玄関前ロビーは、瞬く間に人の波でごった返す。

満足と期待が入れ代わるんだね。でも、席は7割がた埋まってる。中途から観た人、観直す人、それと立ち見の人たちが空いた席を取っちゃうんだね。





でも、何とか席を確保してゆっくりと観れた。大画面を揺さぶるような大音響に圧倒されてノルマンディ上陸作戦を堪能したね。



























映画は、銀幕を、場内を、揺さぶるような威圧的小太鼓の効果音で始まる。ナチス・ドイツの威厳を示すような響きなんだね。





























































































レジスタンスか、スパイか、機密書類を抱えて逃げる男が、後方からシュマイザーで撃ち倒される。

ドイツ将校が車から降りて来て死体を足蹴に転がし鞄を取る。中身を調べて死体を一瞥、座席に鞄を放り投げて車で去る。

この出だしのシーンで、ああ、この映画は裏切らないって思ったよ。そして、あの置き去りの死体は、どうなるのかなあ?なんて思ってたよ。


































ドイツ側、連合国側、そして、其の間で活動するフランス、レジスタンスの動向を史実に基づいて描いてるね。

戦争映画だからダラけさせる女性の出る幕はないんだけど、レジスタンスの女活動家が紅一点で出演してる。此の人も実在していた人なんだね。

ジャニーヌ・ボアタールって人で、イリナ・デミックが演じてる。





馬や牛に食わせる、藁(わら)ってのかね? 出て来んわ。其れを一杯積んだ荷馬車が検問で銃剣を刺して隠しものがないか検査を受けている。

其処へ、彼女が自転車で現れる。スケベなドイツ兵は、綺麗な女性の方に忙しくなって荷馬車を適当に通行させる。男って、なんなんだろうね? 

難癖つけて付き合わせる魂胆なのかね? そこへ、上官が現れる。ドイツ兵は、慌てて通行許可を与え女を通す。任務遂行中でありますっ。



















































荷馬車に追いつき御者の男に微笑むと走り去る。藁の中には数人の男が隠れ潜んでいたんだね。このくだりはレジスタンス映画の定番だね。











アメリカ、イギリス、フランス、ドイツの映画スターが勢揃いし、監督も米英独から3名が当って、此の大作を完成させた。

オールスター映画ってのは、総じて中身の薄い顔見世的なものになるんだけど、この映画は、その殻を破ってドキュメンタリー風に仕上げて中身も濃い。

当時としては、破格の制作費40数億円を投じて製作された戦争巨編だよ。





「史上最大の作戦」ってのは、第2次世界大戦の欧州戦線で連合国軍がフランスのノルマンディに上陸した作戦のことで、D-デイ(D-Day)と称される。

D-デイとは、戦略上、重要な攻撃、もしくは、作戦開始日時を表す際にしばしば用いられたアメリカの軍事用語なんだね。

漠然とした日付を表すDayの頭文字という説がある。歴史上、最も有名なD-デイは、1944年6月6日のノルマンディ上陸作戦なんだね。





これはナチス・ドイツ占領下のヨーロッパにイギリスから連合国軍( アメリカ合衆国、イギリス、カナダ、自由フランス軍、ポーランド、オーストラリア

自由ベルギー軍、ニュージーランド、オランダ、ノルウェー、自由チェコスロバキア軍、ギリシャ王国)が侵攻を開始した「オーバーロード作戦」の

決行日でもあるんだね。最終的に200万人近い兵員が、ドーバー海峡を渡ってフランス・コタンタン半島のノルマンディー海岸に上陸した。





此の上陸作戦は、現在に至るまで最大規模の上陸作戦だったんだね。










『当時のノルマンディ海岸=実写』






作戦には、合計で47個師団が投入された。(師団=1万~3万人規模)其の内訳はイギリス軍、カナダ軍、自由ヨーロッパ軍26個師団にアメリカ軍21個師団とある。

上陸用舟艇4千隻、及び、艦砲射撃を行う軍艦130隻を含む6千を超える艦艇が投入された。空挺部隊を運ぶ輸送機1千機を含む1万2千機の航空機が上陸を支援した。

ドイツ軍に対して投下するために合計5千トンの爆弾が準備された。





其の日のノルマンディの海は艦艇に埋められ、空は、航空機でイナゴの群れの如くに覆われたんだろうね。





一方、ナチス・ドイツ軍は、フランス西海岸からの連合国軍の侵攻を阻止をするため西部防衛軍に知将ロンメル将軍を指揮官に任命し防衛の強化を図っていた。

1941年から北アフリカ戦線で、その知略に長けた勇猛さを「砂漠のキツネ」と称して連合国軍を悩ませ怖れさせたロンメル将軍は、西部防衛線を視察して、

ナチスの豪語した『大西洋の壁』(ノルウェー沿岸からスペインに達する3千マイル以上の大西洋沿岸全てを要塞化)が、










『イエローラインが「大西洋の壁」防衛線構築計画だったんだね。無理な計画だね』



















『海岸線の防御を構築するドイツ軍=上3枚実写』 







アドルフ・ヒトラーが「連合国軍が上陸する地点だ」と固執したカレー方面でも80%前後、ノルマンディーに至っては計画の20%前後の進行率でしかなかった

「敵よりも、むしろドイツ国民に対する宣伝用のこけおどし」であり、ドイツ宣伝省によるプロパガンダ(宣伝活動)に過ぎない実情を目の当たりにしたんだね。

でも、叶わずとも、実際には、それを現実のものにするためドイツが注いだ力は凄まじいものだったらしい。










『実際のアドルフ・ヒトラーと幕僚らの作戦会議』






膨大な量のコンクリート、セメントが集められ、徴用された何万人もの労働者たちが、ヒトラーの言う"狂信的"突貫工事を進めたことは事実だったんだね。

しかし、ナチス・ドイツは、東部戦線(ロシア)に力を削がねばならぬ状況下であったため許さぬ内情が計画を遅らせていたんだね。

連合国軍が上陸するのはノルマンディーであると考えていたロンメルは、着任の後、全力でノルマンディー沿岸の防御施設の構築を推し進めた。





ロンメルは手に入る限りの資材・人員・武器・兵器を全て投入したが、その中でも地雷は最も多く投入され、その数は、

ノルマンディー沿岸の全体に約6百万個以上であったという。戦争とは、殺戮以外のなにものでもないね。いかに大量に殺すかが最大目的なんだね。

ゴキブリホイホイとなんら変わらないよ。地球より重たい命も、大量のゴマ粒ふうに捉えれば、風に飛ばされる塵の如くに軽いんだね。

















その他にも波打ち際の海中に立てられた杭には機雷をくくりつけ、砂浜に障害物を置き(此れが、いまいち効果の程が解らん、

弾丸の遮蔽物を与えて敵の利になるんじゃないの?) 空挺部隊が降下しそうな地域を増水させ罠を設置するなど出来る限りの備えをめぐらせた。

ロンメルは、「敵がまだ海の中にいて、泥の中でもがきながら陸に達しようとしているとき」 水際で徹底的に殲滅することであると確信していた。





しかし、ロンメル軍団の上層にある西部方面軍総司令官ルントシュテットは、内陸部に連合軍を敢えて引き込み、

連合軍の橋頭堡がまだ固まりきらないうちを狙って撃滅する作戦を支持したんだね。この意見対立で機甲師団の配備が分断されたことが明暗を分けるんだね。

機甲師団とは、戦車部隊を中心に、戦車に随伴する自動車化・機械化された歩兵部隊、





同じく自動車化された工兵・砲兵・偵察・通信などの諸兵科の部隊から構成される師団のことを云う。










『ドイツ海軍 魚雷艇Sボート、高速艇で、潜水艦Uボートと同じく、其の存在は敵艦を怖れさせたんだね』 実写








連合国軍側では、此の作戦の計画立案のプロセスは、連合軍総司令部のスタッフによって1943年の1月に始められていたんだね。

1944年4月28日には、南デヴォン(イングランド南西部の地域)のスラプトン海岸で、ノルマンディのユタ海岸を想定した上陸演習が行われた。

訓練では、上陸部隊に対する海軍の護衛が不足し、ナチス・ドイツのSボートによる攻撃を受けて749人のアメリカ軍の死者を出したんだね。





連合軍上層部は、この失敗で、大規模な上陸作戦の用意が露見することを恐れた。幸い、ドイツ軍情報部は、詳しい情報はキャッチしていなかった。

連合軍が徹底的にオーバーロード作戦を秘匿したにも拘らず、ドイツ国防軍情報部(アプヴェール)は、オーバーロード作戦が開始される前兆として、

BBC放送がヴェルレーヌの「秋の歌」第一節の前半分、すなわち「秋の日の ヴィオロンの ためいきの」を暗号として放送するという情報を掴んではいた。





これは、「連合軍の上陸近し。準備して待機せよ」という、ヨーロッパ大陸の対ドイツレジスタンス全グループにあてた暗号放送だったんだね。





ドイツの諜報活動も盛んに行なわれており、イギリス南部の広範囲にスパイ網を持っていたが、不運なことに連合国側に寝返った諜報員が多く、

ほとんどの情報は、上陸地点がパ・ド・カレーであることを確認するものであった。陽動作戦も頻繁に行なわれレーダーおよび軍事施設への攻撃は継続されたが、

ノルマンディーを爆撃した場合は、パ・ド・カレーに其の倍の爆弾を落とすと言う具合で、あくまでノルマンディー方面はフェイントであり、





パ・ド・カレー(現、フランス北部ドーバー海峡の海底を英仏海峡トンネルが開通)が連合軍の主目標であることを印象付ける事を目的としていた。























1944年5月当時、上陸作戦に備えてイギリス国内に駐留したアメリカ兵は約150万人に上った。とんでもない数だよ。

作戦予定日は、当初5月1日となっていたが、予定は何度も繰り下げられて最終的に6月5日となった。

しかし、4日は、ドーバー海峡付近は激しい暴風雨に見舞われていたため連合国軍総司令官アイゼンハワーは、作戦期日の1日延期を決定しD-デイは6日になった。






























6月5日のノルマンディー沖での集結のため4日からすでに出航していた輸送船団は中止の命令を受けて引き返した。

活字では、簡単だけど、船に満載されて荒波に翻弄されて、覚悟のやり直しを強いられる海兵隊員たちは、不安と酔いで辟易したろうね。

映画は、ドイツ側のシーンに入ると重奏な小太鼓の効果音が響き渡る。なんども云うけど、これが凄く効いてるんだねえ。





この映画は、モノクロなんだけど、当時の映画では、少し緑がかった色合いに仕上がってたと記憶する。だからオレも緑に染めた。全部はしんどい。













































ドイツは、この悪天候が9日まで回復しないであろうと予想し、連合軍の上陸はないと判定したため幹部の休暇要請を許可している。

ロンメル将軍のほか、海軍総司令官、西方軍集団情報主任参謀、諜報を担当する国家保安本部軍事部長も休暇をとっていた。

しかし、連合軍は6日に天候が回復すると観測していた。ドイツ軍は大西洋方面の気象観測基地を多く失っており、予報にかけては連合軍が有利であった。




















































6月4日、雲の垂れ込む空を見上げつつ 「此の天候では侵攻はあるまい」 ロンメルは妻の誕生日を祝うためと、

少なくとも5個師団の指揮権を委譲するようヒトラーと直接交渉するため、

副官のフォン・テンペルホーフ大佐とヘルムート・ラング大尉を連れ4日間の休暇をとった。








かねてから自由フランスのカリスマ的指導者であるシャルル・ド・ゴール将軍の強硬な態度を嫌っていた米国大統領フランクリン・ルーズベルトは、

この作戦に参加させないようにしたがっていたが、英国首相ウィンストン・チャーチルの説得で直前に知らせることにした。

この作戦を二日前に知ったド・ゴールはすぐさま本作戦の総司令官アイゼンハワーの下に赴き、「フランスでの戦闘はフランス人が行うべきであって、

指揮をとるのは私でなくてはならない」と激しく詰め寄ったという。自国解放の尖兵に立ちたい思いは解るね。





アイゼンハワーも作戦の参加を認めないわけにはいかず承諾したものの、結局フランス軍は小規模な兵力で臨まざるを得なかった。





一方、ドイツ側では、6月5日、ドイツ時間午後9時15分、「秋の歌」第一節の後半「身にしみて ひたぶるに うら悲し」は、

ドイツ国防軍情報部によって傍受される。これは「放送された日の夜半から48時間以内に上陸は開始される」との暗号で、

直ちに関係する各部隊へ警報を発したが、何故か、この警報は、各部隊に信憑性をもたらされず対応の処置が行き届かなかったようなんだね。





















「身にしみて ひたぶるに うら悲し」














この放送は、当然、レジスタンスにも行き届いた。彼らの反応は、ドイツの其れとは違い作戦の援護行動は迅速だったんだね。























D-Day 1944年6月6日 前夜 出撃を前にアメリカ陸軍第82空挺師団に対し第2大隊長ベンジャミン・バンダーボルト中佐が訓示。






上陸開始に先立って、海岸付近のドイツ軍を攪乱し、反撃行動を妨害し、上陸部隊の内陸進攻を容易にするため、トンガ作戦を開始。

イギリス第6空挺師団、アメリカ第82、第101空挺師団がノルマンディー一帯に降下作戦を開始した。

映画では、アメリカ陸軍第82空挺師団 第505空挺歩兵連隊第2大隊長ベンジャミン・バンダーボルト中佐をジョン・ウェインが演じてる。






















「沼地は、出来るだけ避けろ、俺たちは、泳ぎに来たんじゃない」 





同じく、シーン中尉に、スチュアート・ホイットマン、ハーディング大尉に、スティーブ・フォレスト、ウィルソン中尉に、トム・トライオン。

ノルマンディー地方の西方、ユタ・ビーチのあるコタンタン半島には、米第82および第101空挺師団が降下したが、彼らの任務もまた困難に遭遇していた。

一部はパイロットの経験不足で、また一部は降下困難な着陸地点のため、部隊は広い範囲に散らばって降下した。





ドイツ軍は空挺部隊の行動を阻むためにこの地方の川をせき止めて沼を作り出しており、少なくない数の兵士たちが、これらの沼に降下して溺死した。

輸送機は西から東へ航路をとって半島を横切るのに12分しかかからず、降下が遅すぎた者は英仏海峡へ落ち、早すぎた者は西海岸から冠水地帯の間に落下した。

ある者は飛び降りるのが遅すぎ、下の闇をノルマンディだと思いながら英仏海峡へ落ちて溺死したとある。





一緒に降下した兵士たちは、ほとんど重なりあうようにして沼に突っこみ、そのまま沈んだきり上がってこない者もあった。ロンメルの防御策だね。

降下24時間後、第101空挺師団のうち3千名だけが集合できた。多くが敵の後方を歩き回り戦うことを余儀なくされた。

第82空挺師団は6月6日の早朝にサント=メール=エグリーズの街を占領し、同地は侵攻によって解放された最初の街となった。





第82空挺師団F中隊は、サント=メール=エグリーズの街の中へ降下した。防衛に当るドイツ軍の真っ只中へ降下するはめになる。(後編で)









英第6空挺師団は、午前0時10分過ぎ、最初に活動を始めた部隊だった。

彼らの主任務は、ソード・ビーチからやや南東にある、内陸進攻に必要なペガサス橋とホルサ橋の2つの橋の占領確保。

そして作戦の最も困難な部分は、4門の大口径砲を備えたメルヴィル砲台陣地の無力化であった。























これらの砲は、上陸艦隊に対する脅威と見なされており、遅くても午前5時30分までに無力化せよと命令されていた。

4255名の英第6空挺師団は、橋と砲台の周辺に第1波は、パラシュート、第2波は、グライダーで強行降下、着陸を試み、作戦を開始する。

橋は短時間で確保することができたが、メルヴィル砲台陣地の攻略は困難を極めた。






反攻を受けないように緊要地形を確保する。船団・上陸舟艇・海岸の上陸部隊が砲撃を受けないように砲台を破壊する、此れにより上陸部隊の側面を確保する。

地域を制圧して、ドイツ軍の組織的な反撃攻勢を阻止することが主目的であった。

上陸海岸の東側はイギリス陸軍・カナダ陸軍の強行着陸によるものでトンガ作戦と呼ばれた。






西側は、アメリカ陸軍の第82空挺師団がデトロイト作戦。同じく、第101空挺師団がシカゴ作戦を敢行した。

この映画では、東側の内陸進攻に必要なペガサス橋の占領確保を目指した英第6空挺師団の戦闘を描いている。


























































イギリス軍第6空挺師団指揮官ジョン・ハワード少佐をリチャード・トッド が演じてるね。グライダーで強行着陸を試み橋を占拠する。












































6月5日夜から、ハワード少佐率いるD中隊およびB中隊は、ハリファックス爆撃機に曳航されたホルサ・グライダー6機に搭乗した。

グライダーは、メルヴィルの東、ノルマンディー海岸上空、高度1900mで切り離された。

8日0時16分、ハワード少佐および第1小隊を載せた1番機(グライダー92号)は、目標となるペガサス橋からわずか47mの地点に着陸した。





着陸時、最初の鉄条網を突破した時点で急停止したため、乗員は衝撃で意識不明となったが、すぐに意識を取り戻し行動に移った。

もう1機のグライダーは、ハワード機のすぐ横に着陸した。部隊の4分の1がこれら二つの橋の直近に着陸したのに対し、他の機は滑走して6名が行動不能となった。

しかしながら、ドイツ軍の橋梁守備隊は、これらのグライダーを目撃しなかったか、あるいは撃墜された機だと思い、全く反応しなかった。





以前にも爆撃機が墜落する際の破片の衝撃音を聞いていたためと考えられている。






イギリス兵は川の東側にある、機関銃を備えた堅牢な監視所に手榴弾を投げ入れ、攻撃を開始し、その直後に橋を攻撃した。

デン・ブラザーリッジ大尉は、いったん橋の西側に手榴弾を投げたあと、監視所にも手榴弾を投げ入れた。

この間、数名の部下が敵の機関銃射手を射殺したが、この攻撃中に大尉は首を撃たれ重傷を負い、結果的に彼はD-デイに死亡した最初の兵員となった。















『実際の占拠間もなくのペガサス橋』








残念ながら、20000字までの制約があった。もう、大方出来上がったんだけど、一括では、保存及び更新が不能の注意テロップが出たよ。

画像も行数も字数に入るようだね。もっと、枠を広げろよ、ホンマあ~。

仕方がないので、此処で切り分けて、ここまでを前編、26日の分とします。後編は、28日付け更新します。









The Longest Day MARCH(1962) - Mitch Miller










『史上最大の作戦』 the longest day 1962年(昭和37年)度作品




Many men came here as soldiers

Many men will pass this way

Many men will count the hours

As they live the longest day



Many men are tired and weary

Many men are here to stay

Many men won't see the sunset

When it ends the longest day



The longest day the longest day

This will be the longest day

Filled with hopes and filled with fears

Filled with blood and sweat and tears

Many men the mighty thousands

Many men to victory

Marching on right into battle

In the longest day in history




































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