脳腫瘍の夫と共に

2010年4月グリオーマと診断された夫との手探りの日々…

かなしみとともに・・・

2014-12-30 22:41:24 | 私の思い 3
「立ち直る」という言葉が嫌いだ。


「立ち直る」ということは
今の状態が良くない状態だということを意味している。
でも
一番大切な人、
心のよりどころを失くして
かなしみと、後悔の中で
かろうじて生きている状態が
はたして「よくない」状態なのだろうか?
当たり前のことではないのか、と思う。
この思いが変わることも、うすれることもないのだと思う。


障がいのある子どもを育てているとき
ほかの親さんから
「周りに理解されない」
「どうすれば、理解してもらえるのか」
といった声を聞いた。
わたしは
自分自身も
この子を授からなかったら、
きっと、本当に「理解する」ことはできなかっただろう、と思っていた。
苦しみや悩みもあるけれど
それでも
この子がいてくれることで出会うことができたたくさんの喜びや感動、
そしてたくさんの豊かな人間関係。
それらは実際に経験して、はじめてわかったことだ。
そして
この子たちの生きにくさや、必要な手助けも。
だから、「理解してほしい」と願うことが
そもそも間違っているのだと思っていた。
それでも
ほんとうに「わかる」ことはできなくても
「つながる」ことはできると思ってきた。
だから、さまざまな親の会の活動に取り組んできたし
つながる努力をしてきた。


では、大切な人をうしなったこの気持ちはどうなのだろう?
鬱をともに経験した友人でさえ
少し復調した今は
「きっと元気になれるよ」と励ましてくれる。
わたしは心の中で、「違う!」と叫ぶ。
わたしは元気になりたいのではない。
夫がいたころのように、元気に明るくいきたいとは思っていないのだ。
このかなしみは
「乗り越え」たり「立ち直」ったりするものではなく
「ともに生きていく」ものなのだ、と思う。


夫がいないかぎり
わたしには、喜びも感動も楽しみもない。
それは、いつも夫とともにあったものだ。
かなうなら
夫のもとに今すぐにでもいきたい。
でも、
「生きたい」と願い続けた夫の気持ちを思えば
みずから命を絶つことができないから
そして
夫が命を懸けて守ってくれた娘に
一日でも長く寄り添っていてやりたいから
ただそれだけの思いで生きながらえているに過ぎない。
自分のことなど、どうでもよいのだ。
わたしが生きているかぎり
このかなしみとともに歩いていくのだ。
それは苦痛ではない。


このことを「わかってほしい」と思うこと自体が間違っているのだろう。


今日はやっとお墓へ行く道を除雪した。






まだ
わたしの長靴より深い雪が残っている。
踏み外すと下の畑に落ちてしまうので
慎重に雪をよけ、一歩ずつ進んだ。
以前あった山の上だったら
行くことはできなかっただろう。
こんな日が来ることを
夫は予感していたのだろうか?




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