読書について
ショーペンハウアー
鈴木芳子訳
光文社文庫
を読み終えた。
その中で、現代でも、通用する見解に、
びっくりしている。
悪書の定義について、耳が痛い話である。
以下、その箇所である。
すなわち悪書は読者から、本来なら良書と
その高尚な目的に向けられるべき時間と金
と注意力をうばいとる。また悪書はお金め
あて、官職ほしさに書かれたものにすぎな
い。
したがって役に立たないばかりか、積極的
に害をなす。今日の著書の九割は、読者の
ポケットから手品のように数ターレル引き
出すことだけがねらいで、そのために著者
と出版社と批評家は固く手を結んでいる。
三文文士、日々の糧を稼ぐために書く人、
濫作家たちが、時代のよき趣味と真の教養
に対して企てた抜け目のない相当な悪巧み
は功を奏した。エレガントな上流社会全体
を誘導し、時勢におくれないように、つま
りみなが常におそろいの最新刊を読み、仲
間内で話題にするように仕向けたのである。
そのためにひと役かったのは、シュピンド
ラー、ブルヴァー、ウージェーヌ・シユー
のような一世を風扉した作家の筆による三
文小説のたぐいである。
だがこうした大衆文学の読者ほど、あわ
れな運命をたどる者はいない。つまり、お
そろしく凡庸な脳みその持ち主がお金めあ
てに書き散らした最新刊を、常に読んでい
なければならないと思い込み、自分をがん
じがらめにしている。この手の作家は、い
つの時代もはいて捨てるほどいるというの
に。その代わり、時代と国を越えた稀有な
卓越した人物の作品は、その題名しか知ら
ないのだ。特に大衆文芸日刊紙は、趣味の
よい読者から、教養をつちかってくれるよ
うな珠玉の作品にあてるべき時間をうばい、
凡庸な脳みその人間が書いた駄作を毎日読
ませる、巧妙な仕組みになっている。
人々はあらゆる時代の最良の書を読む代
わりに、年がら年じゅう最新刊ばかり読み、
いっぽう書き手の考えは堂々巡りし、狭い
世界にとどまる。こうして時代はますます
深く、みずからつくり出したぬかるみには
まってゆく。
したがって私たちが本を読む場合、もっ
とも大切なのは、読まずにすますコツだ。
いつの時代も大衆に大受けする本には、だ
からこそ、手を出さないのがコツである。
いま大評判で次々と版を重ねても、一年で
寿命が尽きる政治パンフレットや文芸小冊
子、小説、詩などには手を出さないことだ。
むしろ愚者のために書く連中は、いつの時
代も俗受けするものだと達観し、常に読書
のために設けた短めの適度な時間を、もっ
ぱらあらゆる時代、あらゆる国々の、常人
をはるかにしのぐ偉大な人物の作品、名声
鳴り響く作品へ振り向けよう。私たちを真
にはぐくみ、啓発するのはそうした作品だ
けである。
悪書から被るものはどんなに少なくとも、
少なすぎることはなく、良書はどんなに頻
繁に読んでも、読みすぎることはない。
悪書は知性を毒し、精神をそこなう。
良本を読むための条件は、悪書を読まない
ことだ。なにしろ人生は短く、時間とエネル
ギーには限りがあるからだ。
以上。
見事な見解である。
ただ、わたしの人生にとって、「意志と表象
としての世界」を読むことに、なんの意味
があるのか。
そこが、問題だ。