庭に立つと馥郁たる香りが漂っている。清楚なる香りは駿河蘭が発するものだ。そして一方は大輪のエンゼルトランペット。
こちらは少し濃厚な香りである。
さて、サムシング・グレートとは筑波大学名葉教授の村上和雄さんの語っている物質世界を超越した何かについて語った
ものである。お金万能、物質オンリーという世にあって、こんな話をするとオカルト的になってしまうが、あえて書こうと
思い立った。こうしたオカルト的なことは、体験した人は多くてもその体験をあえて語る人は少ない。特に学者と言われて
いる人の多くは体験を語ろうとはしない。少なくとも自分が現代科学の一翼を担っていると言う自負と、そんなことを口に
すると学会のつまはじきにされることを良く知っているからだ。
小保方さんは実際にこの目で何度も確かめていると言う、一方、理研の検証では今のところ、その事実はないと言う。
いずれかが嘘を言っているか、現実にはありもしなかった幻なのか。しかし、この世の中には、まさかと思うようなことは
少なくない。そのまさかには、そのような思考を持っていなければ発見することも出会うことも出来はしない。それは常識と
言う固定観念が、そのようにさせているからに他ならない。
この固定観念こそ曲者で私たちの心眼を大いに曇らせている。素晴らしい発明や発見の多くが、まさかと思うようなこと
から始まっている。それは心の目が真に開かれたときに発揮される。常識とかという考えがある限り大発見や大発明には
繋がらない。それは誠に不思議な出来事だと言わざるを得ない。
さて、ここに一冊の本がある。本のタイトルは「人は幸福で当たり前」著者は千原忠とある。私の従弟が書いた本である。
書き残したと言った方が良いかもしれない。彼は同じタイトルの数冊の本を私に託して亡くなった。この本を出版して数年後の
事であった。その時には貰ったままで押し入れにしまいこんでいた。そしてつい先日、身の回りを整理していて押し入れの
中にしまいこんだものを再発見したのである。
その後にパソコンで検索してみると、未だに古書として販売されていることも知った。本の紹介ページに彼のプロフィールが
書いてあった。それによると私より約一か月後に生まれている。昭和19年6月1日と記されている。幼いころは兄弟のように
していた従弟であった。
彼と私は遠く離れて育った。従って、幼少期には何度か一緒に遊んだことはあっても格別彼の考えや人生観を聞いたことも
なかった。しかし、この本に書かれていることを知るにつれ、その考えがあまりにも私の考えに似通っていることを知った。
しかも彼は今から十年近くも前に、それを本に書き表している。
その思考の類似性は、もしや私たちは本来ならば一卵性双生児としてこの世に生を受けるべきものであったのかも知れない、
ふとそのように考えたわけである。同じ家系の親戚同士であったこと。生を受けたのがわずかに一か月の差であったこと、
幼少期のある時期を一緒に過ごしたこと、寄り添うべき二人であったのかも知れないと考えたのはそれゆえの事であった。
彼は早くから自分の生について考えていたに違いない。同じようなことは私も考えていた。しかし、幼い二人に人生を語るほどの
力はなかった。それ故に成人になってもついに膝を交えて語り合うチャンスはなかった。ただ一冊の本を残してくれたことによって
おおよそ彼が何を考え何に目覚めたのか知ることが出来たのである。
サムシング・グレート、彼より生きながらえた私には不思議と思われることが次々に現実のものとなって表れ始めている。
いや現れ続けていると言った方が良いかもしれない。それは生まれた時から始まっていたことなのに思い至らなかったことだけ
なのかもしれない。
成長するに連れて意識を曇らす固定観念が私の頭を覆っていたのかもしれない。不思議なことはずっと昔から続いていたような
気がしている。谷村新司さんが「昴」という大ヒット曲を書き表した時、天からの啓示のようなものがあったと語っている。
人は固定観念を捨て素直な心になれば誰にも何かが見えてくるし、現実のものとして表れるようになるのではないか。
初めて不思議なことだと意識し始めて久しい。今では、それらすべてが当たり前のことのような気がしていちいち書き留めて
おくこともなくなってしまった。その証拠を示せと言われても、この不思議さを言葉にも書き表すことも難しい。しかし、それは
確かにあることは確信できる。
「人は幸福で当たり前」の著書の中にも同じようなことが書かれている。それはサブタイトルである「信じたものは現れる」の
通りだと思う。
私が幼少の頃、古銭収集に夢中になっていた時のことである。お使い先のレジスターの中に偶然のように小学校の掲示板に貼って
あった「こどもニュース」の写真にあった「寛平大宝」を発見した時の事だった。その時は、ためらわず店の人に、それが欲しいと
言って貰い、喜び勇んで家に帰ったものである。以来、その古銭は大事な収集品として我が手元にある。それは日本の最も古い時代の
ものであり寛永通宝のように引き出しの中を探せば出てくるようなありふれたものではなかった。
そのような希少品が何故そこにあったのだろうか。偶然とは思えないような出来事に、今も不思議の感は免れない。人生は不思議の
連続なのかもしれない。そして思考は人生を左右するもののようである。こうありたいと言う強い思いは幸福をも約束してくれる。
不幸を意識してはいけない。こんなことをしたら失敗するのではないだろうかと考えてはいけない。マイナスの思考は必ず
マイナスを引き起こすからだ。常に楽しいことを考えていれば必ず楽しいことがやってくる。固定観念を捨て去る、世のため
人のために力を尽くす。全ては先人たちによって語られ言い古されたことばかりである。
なのに何故出来ないのか、やらないのか、それは自分の「我」と言うものがそれを阻止しているからだ。人の語ることを素直に
聞けない自分がいる。科学が万能だと思い込んで真理を知らない自分がいる。それだけのことである。自分だけが正しいのではない。
間違いは誰にもある。言い訳などせずに素直に改めればいい。そして、付け加えるならばエゴではなく愛こそが全てである。
こちらは少し濃厚な香りである。
さて、サムシング・グレートとは筑波大学名葉教授の村上和雄さんの語っている物質世界を超越した何かについて語った
ものである。お金万能、物質オンリーという世にあって、こんな話をするとオカルト的になってしまうが、あえて書こうと
思い立った。こうしたオカルト的なことは、体験した人は多くてもその体験をあえて語る人は少ない。特に学者と言われて
いる人の多くは体験を語ろうとはしない。少なくとも自分が現代科学の一翼を担っていると言う自負と、そんなことを口に
すると学会のつまはじきにされることを良く知っているからだ。
小保方さんは実際にこの目で何度も確かめていると言う、一方、理研の検証では今のところ、その事実はないと言う。
いずれかが嘘を言っているか、現実にはありもしなかった幻なのか。しかし、この世の中には、まさかと思うようなことは
少なくない。そのまさかには、そのような思考を持っていなければ発見することも出会うことも出来はしない。それは常識と
言う固定観念が、そのようにさせているからに他ならない。
この固定観念こそ曲者で私たちの心眼を大いに曇らせている。素晴らしい発明や発見の多くが、まさかと思うようなこと
から始まっている。それは心の目が真に開かれたときに発揮される。常識とかという考えがある限り大発見や大発明には
繋がらない。それは誠に不思議な出来事だと言わざるを得ない。
さて、ここに一冊の本がある。本のタイトルは「人は幸福で当たり前」著者は千原忠とある。私の従弟が書いた本である。
書き残したと言った方が良いかもしれない。彼は同じタイトルの数冊の本を私に託して亡くなった。この本を出版して数年後の
事であった。その時には貰ったままで押し入れにしまいこんでいた。そしてつい先日、身の回りを整理していて押し入れの
中にしまいこんだものを再発見したのである。
その後にパソコンで検索してみると、未だに古書として販売されていることも知った。本の紹介ページに彼のプロフィールが
書いてあった。それによると私より約一か月後に生まれている。昭和19年6月1日と記されている。幼いころは兄弟のように
していた従弟であった。
彼と私は遠く離れて育った。従って、幼少期には何度か一緒に遊んだことはあっても格別彼の考えや人生観を聞いたことも
なかった。しかし、この本に書かれていることを知るにつれ、その考えがあまりにも私の考えに似通っていることを知った。
しかも彼は今から十年近くも前に、それを本に書き表している。
その思考の類似性は、もしや私たちは本来ならば一卵性双生児としてこの世に生を受けるべきものであったのかも知れない、
ふとそのように考えたわけである。同じ家系の親戚同士であったこと。生を受けたのがわずかに一か月の差であったこと、
幼少期のある時期を一緒に過ごしたこと、寄り添うべき二人であったのかも知れないと考えたのはそれゆえの事であった。
彼は早くから自分の生について考えていたに違いない。同じようなことは私も考えていた。しかし、幼い二人に人生を語るほどの
力はなかった。それ故に成人になってもついに膝を交えて語り合うチャンスはなかった。ただ一冊の本を残してくれたことによって
おおよそ彼が何を考え何に目覚めたのか知ることが出来たのである。
サムシング・グレート、彼より生きながらえた私には不思議と思われることが次々に現実のものとなって表れ始めている。
いや現れ続けていると言った方が良いかもしれない。それは生まれた時から始まっていたことなのに思い至らなかったことだけ
なのかもしれない。
成長するに連れて意識を曇らす固定観念が私の頭を覆っていたのかもしれない。不思議なことはずっと昔から続いていたような
気がしている。谷村新司さんが「昴」という大ヒット曲を書き表した時、天からの啓示のようなものがあったと語っている。
人は固定観念を捨て素直な心になれば誰にも何かが見えてくるし、現実のものとして表れるようになるのではないか。
初めて不思議なことだと意識し始めて久しい。今では、それらすべてが当たり前のことのような気がしていちいち書き留めて
おくこともなくなってしまった。その証拠を示せと言われても、この不思議さを言葉にも書き表すことも難しい。しかし、それは
確かにあることは確信できる。
「人は幸福で当たり前」の著書の中にも同じようなことが書かれている。それはサブタイトルである「信じたものは現れる」の
通りだと思う。
私が幼少の頃、古銭収集に夢中になっていた時のことである。お使い先のレジスターの中に偶然のように小学校の掲示板に貼って
あった「こどもニュース」の写真にあった「寛平大宝」を発見した時の事だった。その時は、ためらわず店の人に、それが欲しいと
言って貰い、喜び勇んで家に帰ったものである。以来、その古銭は大事な収集品として我が手元にある。それは日本の最も古い時代の
ものであり寛永通宝のように引き出しの中を探せば出てくるようなありふれたものではなかった。
そのような希少品が何故そこにあったのだろうか。偶然とは思えないような出来事に、今も不思議の感は免れない。人生は不思議の
連続なのかもしれない。そして思考は人生を左右するもののようである。こうありたいと言う強い思いは幸福をも約束してくれる。
不幸を意識してはいけない。こんなことをしたら失敗するのではないだろうかと考えてはいけない。マイナスの思考は必ず
マイナスを引き起こすからだ。常に楽しいことを考えていれば必ず楽しいことがやってくる。固定観念を捨て去る、世のため
人のために力を尽くす。全ては先人たちによって語られ言い古されたことばかりである。
なのに何故出来ないのか、やらないのか、それは自分の「我」と言うものがそれを阻止しているからだ。人の語ることを素直に
聞けない自分がいる。科学が万能だと思い込んで真理を知らない自分がいる。それだけのことである。自分だけが正しいのではない。
間違いは誰にもある。言い訳などせずに素直に改めればいい。そして、付け加えるならばエゴではなく愛こそが全てである。