「みんなの雑記帳」というミニサイズの同人誌が発行になった。その中で今日の私に
ついて書いている。人生をみんなと一緒に楽しみたい。みんなと一緒に花開かせたいと
言う思いが今の私を支えている。児島市民交流センター時代のことも書いているので
一読願いたい。
多くの不幸な事件や事故、あるいは戦争などを見聞きするとき、今の時代に生まれて
きたことを心から幸せに思っている。私たちの世代は、ほんの一時期だったが極貧の中に
あった。先の太平洋戦争の後遺症によるものであった。
運動靴が買えなくて、冬でもゴム草履という固いゴムで出来ていた草履を履いていた。
下駄であれば、まだ良い方だった。ソックス等というものがない時代のことで、足袋で
あれば良い方だった。ゴム草履に素足という子も少なくなかった。
お昼の弁当がない子、弁当はあってもふかし芋が入っている子、正月近くになれば
お餅を持ってくる子等々。私の場合は、おかずと言えば卵焼き一個と梅干し一個の頃も
あった。
みんな貧しかったから特に気にもならなかったが、弁当を持ってくることが出来ない
子のことは、いつも気になっていた。子供心にも可哀想だと言う思いが強かった。
冬はと言えば家の中の暖房は乏しく、火鉢が一つと炬燵だけであった。手足はしもやけで
赤黒くなり、ぱんぱんに腫れていたし、その上、垢で汚れた手は皹切れ(ひびぎれ)があった。
春先になって少し温かくなると、手足の血流が良くなって痒くなる。たまらなく痒くなる。
病気などになると最悪であった。近くに病院はなく、あっても救急車などはなく、何度か
母の背に負われて、遠くの医院へ走ることもあった。従って、ただただ横になって寝ている
ことが、唯一の養生であった。薬と言えば富山の薬売りが持ってくる置き薬が唯一の頼みで
あった。むろん抗生物質などはない。病気になると、すり下ろしリンゴが何よりの楽しみで
あった。
幸いにも私は、物心がつくほどに健康になり、頭に大けがをしたとき以外、薬や医者の
世話になることは、ほとんどなかった。中学校も高校も無欠席で通したほど健康優良児
だった。
さて、先のブログでは「心解き放つ」ことに付いて書いた。今日は、自分も楽しみ
みんなも楽しむことを書いてみたい。多くの人は自分だけの楽しみに耽っている。
お金を貯めることが喜びで、いつまでたっても止められない人。豪華絢爛な家に住む
ことが夢で、その幸福に浸っている人。
しかし幸せは長くは続かなかったり、夢は実現しても、それでは満足できない人も多い。
実は、人間は欲なのである。次から次へと欲が湧いてきて、その欲に溺れてしまう人が
少なくない。これは神様が仕掛けた罠だと思っている。罠を仕掛けて楽しんでいるとしか
思えない。こうして人間は、いつまでも欲望から解き放たれることはなく、いつまでも
幸せにはなれないのである。
実は幸せとは、決して自分一人が味わって楽しいものではない。本当の幸せは他人から
感謝されたときこそ味わえるものである。自分自身が欲に溺れ、次々に夢を追っている
ときは、本当の幸せとは言えない。欲望を満たしているだけのことである。
人という文字は人を人が支えていると解釈されている。つまり人は、人のために尽くす
ように出来ている。多くの人と共に幸せになることこそ真の幸せと言える。
私は「むかし下津井回船問屋」というところに勤務している。かつての回船問屋は飛ぶ鳥も
落とすほどの勢いと、権勢を誇っていた。しかし、明治という激動期は、それを許さなかった。
朝ドラの「あさが来た」と同じ時代のことであった。莫大な資産も相次ぐ事業の失敗で衰退の
一途を辿った。
こうした下津井は高齢者が多く、まるで歯が抜けていくかのように、空き家が増え、過疎化の
一途を辿っている。この街を何とか元気にしたいと言うのが、私の思いであり、課せられた
任務だと思っている。
私も高齢者の一人として、この街で共に百歳になるまでがんばろうと、その基礎を作るべく
がんばっている。過疎化していく地域は、不便で楽しみらしい楽しみがほとんどない。若い
世代が欲しがるほどの刺激はなくても良いが、それでも幾らかの刺激は欲しい。
何よりも、この下津井に他地域の人が毎日のように来てくれることは、何よりもうれしいし
何となく街が華やいでいくのが実感として分かる。そんな雰囲気が、少しずつこの街全体を
覆い始めて約一年が過ぎた。
私は自分を犠牲にしてまで、何かしなければとは思っていない。また、この年になって
名誉欲も失せた。今はただ、みんなと一緒に残り少ない人生を、思い切り楽しみたいと
思っている。そして、かつての回船問屋がそうであったように、人の出入りが絶えないような
そんな施設にしたいと思っている。今は、欲を捨てた回船問屋の主になった心境である。
ついて書いている。人生をみんなと一緒に楽しみたい。みんなと一緒に花開かせたいと
言う思いが今の私を支えている。児島市民交流センター時代のことも書いているので
一読願いたい。
多くの不幸な事件や事故、あるいは戦争などを見聞きするとき、今の時代に生まれて
きたことを心から幸せに思っている。私たちの世代は、ほんの一時期だったが極貧の中に
あった。先の太平洋戦争の後遺症によるものであった。
運動靴が買えなくて、冬でもゴム草履という固いゴムで出来ていた草履を履いていた。
下駄であれば、まだ良い方だった。ソックス等というものがない時代のことで、足袋で
あれば良い方だった。ゴム草履に素足という子も少なくなかった。
お昼の弁当がない子、弁当はあってもふかし芋が入っている子、正月近くになれば
お餅を持ってくる子等々。私の場合は、おかずと言えば卵焼き一個と梅干し一個の頃も
あった。
みんな貧しかったから特に気にもならなかったが、弁当を持ってくることが出来ない
子のことは、いつも気になっていた。子供心にも可哀想だと言う思いが強かった。
冬はと言えば家の中の暖房は乏しく、火鉢が一つと炬燵だけであった。手足はしもやけで
赤黒くなり、ぱんぱんに腫れていたし、その上、垢で汚れた手は皹切れ(ひびぎれ)があった。
春先になって少し温かくなると、手足の血流が良くなって痒くなる。たまらなく痒くなる。
病気などになると最悪であった。近くに病院はなく、あっても救急車などはなく、何度か
母の背に負われて、遠くの医院へ走ることもあった。従って、ただただ横になって寝ている
ことが、唯一の養生であった。薬と言えば富山の薬売りが持ってくる置き薬が唯一の頼みで
あった。むろん抗生物質などはない。病気になると、すり下ろしリンゴが何よりの楽しみで
あった。
幸いにも私は、物心がつくほどに健康になり、頭に大けがをしたとき以外、薬や医者の
世話になることは、ほとんどなかった。中学校も高校も無欠席で通したほど健康優良児
だった。
さて、先のブログでは「心解き放つ」ことに付いて書いた。今日は、自分も楽しみ
みんなも楽しむことを書いてみたい。多くの人は自分だけの楽しみに耽っている。
お金を貯めることが喜びで、いつまでたっても止められない人。豪華絢爛な家に住む
ことが夢で、その幸福に浸っている人。
しかし幸せは長くは続かなかったり、夢は実現しても、それでは満足できない人も多い。
実は、人間は欲なのである。次から次へと欲が湧いてきて、その欲に溺れてしまう人が
少なくない。これは神様が仕掛けた罠だと思っている。罠を仕掛けて楽しんでいるとしか
思えない。こうして人間は、いつまでも欲望から解き放たれることはなく、いつまでも
幸せにはなれないのである。
実は幸せとは、決して自分一人が味わって楽しいものではない。本当の幸せは他人から
感謝されたときこそ味わえるものである。自分自身が欲に溺れ、次々に夢を追っている
ときは、本当の幸せとは言えない。欲望を満たしているだけのことである。
人という文字は人を人が支えていると解釈されている。つまり人は、人のために尽くす
ように出来ている。多くの人と共に幸せになることこそ真の幸せと言える。
私は「むかし下津井回船問屋」というところに勤務している。かつての回船問屋は飛ぶ鳥も
落とすほどの勢いと、権勢を誇っていた。しかし、明治という激動期は、それを許さなかった。
朝ドラの「あさが来た」と同じ時代のことであった。莫大な資産も相次ぐ事業の失敗で衰退の
一途を辿った。
こうした下津井は高齢者が多く、まるで歯が抜けていくかのように、空き家が増え、過疎化の
一途を辿っている。この街を何とか元気にしたいと言うのが、私の思いであり、課せられた
任務だと思っている。
私も高齢者の一人として、この街で共に百歳になるまでがんばろうと、その基礎を作るべく
がんばっている。過疎化していく地域は、不便で楽しみらしい楽しみがほとんどない。若い
世代が欲しがるほどの刺激はなくても良いが、それでも幾らかの刺激は欲しい。
何よりも、この下津井に他地域の人が毎日のように来てくれることは、何よりもうれしいし
何となく街が華やいでいくのが実感として分かる。そんな雰囲気が、少しずつこの街全体を
覆い始めて約一年が過ぎた。
私は自分を犠牲にしてまで、何かしなければとは思っていない。また、この年になって
名誉欲も失せた。今はただ、みんなと一緒に残り少ない人生を、思い切り楽しみたいと
思っている。そして、かつての回船問屋がそうであったように、人の出入りが絶えないような
そんな施設にしたいと思っている。今は、欲を捨てた回船問屋の主になった心境である。
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