
「江戸のマルチタレント」
建部巣兆<たけべそうちょう>1716年 都内日本橋の生まれ。父は書家で本業は醤油屋。巣兆は三重の松坂から江戸に転居したことを機に、門人4,000人といわれた加舎白雄より俳諧を学びます。やがて、研鑽を積んだ巣兆は白雄八弟のひとりに数えられます。また、巣兆は雪舟の粉本<下書き>の収集で知られる桜井雪館から絵画を学び、その後、谷文晁にも師事しています。さらに、生け花や茶道も習得。江戸の人々に広く知られるマルチタレント的な存在となります。
「谷へはく 箒の先や ほとゝぎす」<巣兆>
1789年 巣兆は千住の藤沢家の養子となり藤沢平右衛門と改名。都内北区の田楽舞いで知られる王子神社の神主となります。ちなみに、王子神社は髪の粗神で知られる「関神社」も摂末社として祀られ、いまでもかつらや養毛業者の信仰を集めています。
「遠くから 見てもおかれぬ 桜かな」<巣兆>
藤沢家の養子となり順風満帆と思われた巣兆ですが、急に隠遁してしまいます。このいつきさつを調べましたがはっきりしません。巣兆は養子という境遇や家業に嫌気がさしたのでしょうか。隠遁した巣兆は千住関屋の谷に「秋香庵」という庵を構え、本格的に俳句や俳画に没頭していきます。そして、巣兆は小林一茶、夏目成美、鈴木道彦などの俳人たちでけなく、大田南畝、酒井抱一など江戸の文化人と幅広い交流を深めていきます。洒脱で大酒呑みという天衣無縫な性格は江戸っ子に愛されたようです。
「ひたひたと 田にはしりこむ 清水かな」<巣兆>
巣兆は「大あたま 御慶と来けり 初日影」と自ら詠んでいます。肖像画からも頭部の大きな人物であったようです。千住の俳句仲間たちと酒量を競う酒合戦を幾たびも開催。庵の門にも「不許悪客下戸理屈入庵門」と書かれた板を掲げていました。千住の源長寺には巣兆の書画が多く巣兆寺と呼称されていましたが戦災によりすべて焼失。
「蓮の根の 穴から寒し 彼岸過ぐ」<巣兆>
建部巣兆。享年53歳。俳号は黄雀、東甫、秋香庵、小蓑庵、菜翁。画号は倭絵師<やまとえし> 浅草の日輪寺に埋葬されますが、関東大震災による区画整理で暮石は漬物石になったといわれています。
「遠くから 見てもおかれぬ 桜かな」<巣兆>
構成と文<殿>
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