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旅行 社寺

五木寛之の百時巡礼 第九十八番 人吉別院

2017-12-18 08:49:12 | 美術館、博物館
 2017.11.30 熊本からかわせみ.やませみ号の特急に乗り球磨川に沿って約87.5k

      上り、人吉盆地に着きます。隠れキリシタンは私も知っていましたが、「隠れ念仏」

      は知りませんでした。この地方では、室町時代後半から明治初年まで三百六十年余りの間、

      一向宗(浄土真宗.真宗)の信仰が禁じられた。激しい弾圧の中で、隠れ門徒たちは命がけ

      の念仏を称え、信仰の灯を護り続けたが、多くの殉教者も出た。

      人吉別院は、明治に入って、禁制が解かれた後に建てられました。





  人吉別院 山門と鐘楼。



  山門。







  本堂 明治11年(1878)に完成。

     宗派:浄土真宗本願寺派

     寺号:本願寺人吉別院



  御朱印。



  鐘楼  当初の梵鐘は、当地で鋳造され、

       門徒から大量に寄せられた古鏡やかんざしなどの地金を材とした。



  親鸞聖人の石像、歌碑。



  本堂には、本尊の阿弥陀如来立像と親鸞聖人の「真向(まむき)の御影」が安置されている。



  本尊の阿弥陀如来立像。

   次からは堂内に展示されている、隠れ念仏の遺品。



  まな板仏(本尊の掛け軸を、まな板に似せた蓋付きの薄い木箱の中に収めた)。

  傘仏   (くり抜いた桐材の傘型の容器に親鸞の御影の掛け軸を隠し納めた)



  隠れ念仏時代の阿弥陀如来ご絵像(今から四百余年前)。



  伝助師の遺品。(位牌.遺歯)



  阿弥陀如来立像を納めた隠し木箱。本願寺御影堂寛永瓦。



  人吉別院と殉教地(隠れ念仏の里) 案内図。 離れているので本堂内掲示の写真の一部を紹介します。



  十四人淵  貞享4年(1687)球磨川の支流川辺川の尾曲淵に、真宗の門徒男女14人が

        細紐で互いに体を結び合い入水したと語り継がれています。



  十島仏像仏具焼却跡地  人吉球磨一円の真宗門信徒の家から仏像仏具を没収して

        焼却された地で、現在も当時の焼却灰が残っている。



  与内山の首塚聖地  伝助さんの法弟子秋山和七郎は獄門に処せられ、さらされていた

        伝助さんの首を夜陰に乗じて盗み出し、自宅近くの石地蔵に埋葬した。

   このように、人吉藩の一向宗禁制は転宗を拒んだ隠れ門徒たちの、

         さまざまな殉教悲話を生みました。

         人吉別院は現在信仰の場であるとともに、「隠れ念仏」の

         歴史を後世に伝える場ともなっています。

 (参考) 人吉藩は同じ念仏信仰でも浄土宗や時宗の信仰は認め一向宗だけを禁制とした。

    それは一向宗門徒が本山である京都の本願寺に献金することを止めさせる為であり、

    また、戦国時代に北陸で起こった一向一揆の二の舞を避けたかったためだ。







  第九十九番 富貴寺  平成二十五年一月十五日 参拝。大分県豊後高田市田染路。







  第百番  羅漢寺  平成二十五年一月十五日 参拝。大分県中津市本耶馬渓町跡田。

         と百時巡礼の満願を迎える事が出来ました。

         百の寺々を目に見えない力に守られ無事に回り終えたことに感謝したいと思います。


    





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