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旅行 社寺

佐柿国吉城 2

2020-10-26 14:55:21 | 
2020.10.06 続いて本丸に登城します。



  案内図。



  縄張図。



  佐柿国吉城 復元鳥瞰図(イラスト)。



  本丸跡を望む。 左手前の石垣は本丸下北側堀切。



  本丸跡に上り 堀切、連郭曲輪群を見る。







  本丸北西虎口跡。



  同上  本丸東側から見る。









  本丸跡。 大正時代に立てられた城址碑がある。東西約70m、南北約30m、

       南隅に土塁が残るほか、北西側と東側に虎口がある。











  本丸跡。 虎口付近や斜面の周囲には多量の石が散らばり、所々に積まれた痕跡が

       残ることから往時は周囲に石垣を廻らしていたと思われる。

       また城山の所々に板碑や墓石が散乱しており、城址碑の脇に一部が

       集められている。これらは国吉籠城戦の際、粟屋勢力が周辺から集め、

       攻め上る朝倉勢に向かって投げ落としたものと伝わる。



  本丸跡を西から見る。





  本丸跡南隅に残る土塁跡。





  本丸南隅櫓台跡。



  本丸跡より南側景色。



  本丸跡東側から見る。



  奥が本丸東側虎口。



  本丸東側虎口。



  本丸跡を北側から見る。



  本丸よりの眺望。



  同上  アップ。



  下城後  若狭国吉城歴史資料館を見学。



  同上  入口には現存する奉行所門扉が移築されている?。 



  同上  見学記念。



  国吉籠城戦動向図。



  元亀元年4月 織田信長侵攻図。

  信長.秀吉.家康が天下へ飛躍した佐柿国吉城。

   元亀元年(1570)4月、信長が進み、家康が戦い、秀吉が守り、そして山内一豊が、

   功名上げた越前金ヶ崎城.天筒山城の戦い。この時、織田方の最前線の

   城として、越前攻めの戦略が練られたのが、佐柿国吉城です。

   元亀元年4月20日、越前朝倉氏を攻めるため、京を出陣した

   織田.徳川連合軍は近江国に軍を進め、高島郡田中、若狭国熊川を経て、

   同月23日国吉城に入りました。時の城主粟屋越中守勝久は信長勢を倉見峠まで

   出迎えたといいます。信長は国吉城に滞在して越中攻めの戦略を練り、

   同月25日、越前国に向けて出陣しました。金ヶ崎.天筒山の両城は

   一日で攻め落とし、破竹の勢いで侵攻しましたが、突然の近江浅井氏の

   裏切りで、撤退を余儀なくされました。しかし、木下藤吉郎秀吉(豊臣秀吉)

   の殿(しんがり)戦によって無事退却した信長は、6月の姉川の戦いで

   浅井.朝倉軍を打ち破ったのです。(歴史館掲示文より)



  JR 美浜駅 連絡橋よりの佐柿国吉城の遠望。



  同上 アップ。  本丸跡には微かに佐柿国吉城の旗が見えます。

        敦賀で特急に乗換て金沢に向かう。