おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

碓氷峠。その4。「子持山」~「峠頂上」まで。(旧中山道をゆく。第10日目。)

2016-04-06 21:20:12 | 旧中山道
(13:52)いよいよ碓氷峠頂上に近づきます。「安政遠足」の表示がある、まっすぐ行く道道が和宮降嫁の時に開かれた、広くゆるやかな道。
 「旧中山道」は左の小道に入っていきます。案内表示があるので、迷うことはなさそう。しかし、この先どうなるかちょっと不安な道筋。

ゆるやかな下り坂。もちろん、人の気配はなし。熊は?

(14:02)「化粧水跡」。

 峠町へ登る人々がこの水で姿・形を直した水場である。

 右側の小川らしきものには水の流れている気配はありません。まだ冬枯れの雑木林、その下には枯れ枝と落ち葉。

人馬施行所跡」。そして「中山道」の標識。

 笹沢のほとりに、文政11年、江戸呉服屋の与兵衛が、安中藩から間口17間、奥行き20間を借りて、人馬が休む家をつくった。

 それだけの大きな敷地が確保できていたかどうかは、今の様子からはとても想像できません。
 その先で小さな沢を石伝いに渡ると、上り道になります。けっこうきつい(疲れた体には)上り坂が続きます。峠までの「胸突き八丁」、という感じで、一汗かきます。ようやく平坦になったところに「長坂道」という解説板。

 ところで、今、気がつきましたが、「碓氷峠」の行く先々にある解説板は、どうも、京から江戸へ向かう旅人への案内、という印象です。「座頭ころがし」「一里塚」・・・、「坂本宿」から上がってくると、そこを通り過ぎた後に、その解説板があるようです。 
 
(14:22)20分弱の登り道です。所々に残雪。
 
(14:31)長坂道」中仙道をしのぶ古い道である。


 ようやく広い林道に出ます。そこを右に曲がります(峠から下る場合は、この標識を左に曲がって坂本宿方向へ)。
 振り返ると、「松井田坂本宿」への標識と「中山道」という道しるべ。
                            

突き当たりの正面には「仁王門跡」。

 もとの神宮寺の入口にあり、元禄年間再建されたが、明治維新の時に廃棄された。仁王様は熊野神社の神楽殿に保存されている。

「中山道」の道しるべ。左の広い道が「安政遠足」の道。

その先に「思婦石」が建っています。

 群馬郡室田の国学者 関橋守の作で、安政4年(1857)の建立である。
 ありし代に
   かえりみしてふ
       碓氷山
 今も恋しき
    吾妻路のそら

「鼻曲山」への道標。若い頃登ったことがあり、下山後、たしか霧積温泉へ向かった、と。「鼻曲山」は、「浅間山」の東方にある山。頂上が曲がった鼻のような格好をしています。 

この先を下ると「水源」に。

その付近にはまだ残雪がびっしり。

(14:35)ようやく碓氷峠の頂上に着きました。日頃の不摂生がたたって、休み休みで約4時間かかりました。
 名物の「力餅」を売るお店が数軒並んでいます。そのひとつの「見晴亭」というお店に入りました。その名物をた食べずに、ビールを注文、お蕎麦を食べました。ここから旧軽井沢までの下り坂を歩くのはそっちに置いて、・・・。
           

 お店の人によると、今日はほとんどお客さんが来なかった、せっかくのいいお天気なのにねえ、と。
 そのうち、車から降りてどやどやと入ってきた家族連れ、ここの力餅が食べたくて来ました、と。

はるか遠くに見えるのは、高崎辺りだそうです。 
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