おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

島崎藤村旧居跡。鼬坂。永坂。更科。・・・(虎ノ門~麻布台の坂。その4。 )

2015-06-17 22:10:36 | 都内の坂めぐり

 「外苑東通り」に向かう坂道「鼬坂」の途中には、
「島崎藤村旧居跡」。
 「メゾン飯倉」の下には、(株)東京楽天地が昭和48年4月3日に建てた石柱と説明文を彫った石板があります。

 藤村は71才の生涯のうち文学者として最も充実した47才から65才(大正7年~昭和11年)までの18年間 当地麻布飯倉片町三十三番地に居住した。
 大作「夜明け前」 地名を冠した「飯倉だより」 童話集「ふるさと おさなものがたり」などは当地での執筆である

付近のようす。

「鼬坂」。「外苑東通り」から望む。
鼬坂(いたちざか)

外苑東通りの「外務省外交史料館(飯倉公館)」前から南方に下る坂道です。港区麻布台3丁目4番と5番の境界にある坂道です。坂上は外苑東通り。

 「鼬坂」のほか、「植木坂」、「鼠坂」については、どこの坂道がそれぞれの名称に該当するのか諸説あるようで、文献によってその示す場所が異なっているとのこと。石川悌三「江戸東京坂道事典」はこの坂を「植木坂」としています。
「鼠坂」、「植木坂」は、どちらも別の坂道に港区設置の標識がありますが、「鼠坂」の説明では一名「鼬坂」と書かれているし、「植木坂」の説明でも「外苑通り」から下りるところ、とも書かれています。はたして真相はいかに?

 「飯倉片町」の交差点を西に進み、最初の角を左折すると、緩い下り坂。その途中遠くに「標示」が。


     
永坂(ながさか)
 麻布台から十番へ下る長い坂であったためにいう。長坂氏が住んでいたともいうが、その確証はえられていない。


 しばらく下ると、頭上に首都高が通る「麻布通り」に合流します。合流するまでが「永坂」なのか? もっと下っていた先までなのか? 

合流点の三角地帯に「永坂上児童公園」があります。ということは、もっとしたまで「長く」続く坂だったようです。

    
      広い通りを道なりにどんどん「新一の橋」方向に下って行きます。

坂の途中から望む。右が首都高。

ありました! かなり下った右側に「永坂」という標識が。

坂下から坂上を望む。

右の角にある「麻布永坂 更級本店」。

 更科(さらしな)は、蕎麦屋の老舗のひとつ。江戸の蕎麦屋の老舗としては、砂場、藪とあわせて3系列が並べられることが多い。

 創業は江戸時代寛政元年(1789年)と伝えられている。信州の織物の行商人をしていた清右衛門なる者が、江戸での逗留先としていた麻布・保科(ほしな)家に勧められ、麻布永坂町で蕎麦屋をはじめた、とされている。開店に際し清右衛門は太兵衛に名を改め、開店時に「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」の看板を掲げたという[1]。「更科(さらしな)」は、蕎麦の産地である信州更級(さらしな。現長野市、千曲市、埴科郡坂城町の一部)に保科家の「科」の文字を組み合わせたもの。なお、信州更級は当時よりソバの産地であったため、他にも「さらしな」を名乗る蕎麦屋は存在していたようである。
 更科の特徴は、蕎麦殻を外し、精製度を高め、胚乳内層中心の蕎麦粉(更科粉、一番粉)を使った、白く高級感のある蕎麦(更科蕎麦)である。これがいつ頃からのものかは明らかになっていないが、1750年頃にはすでに存在していた模様。更科の特徴として打ち出されたのは江戸時代末期から明治時代のことと考えられている。
 更科は、明治10年代までのれん分けなどを一切しておらず、(旧)布屋太兵衛の一軒のみでの営業だった。のれん分けがはじまり、更科を冠した蕎麦屋が増え始めるのはそれ以降のことである。現在では東京都港区麻布十番にある3軒の更科のほかにも、都内の芝大門、神田錦町、有楽町などにのれん分けをした更科の店がある。

麻布十番にある3つの更科
 昭和恐慌による出資先麻布銀行の倒産、戦時体制による統制などに加え、七代目松之助の放蕩が駄目押しになり(旧)布屋太兵衛は昭和16年(1941年)にいったん廃業する。戦後、七代目松之助から屋号使用の許諾を受けたとする馬場繁太郎が「永坂更科本店」を開業する。屋号の使用につき裁判となるが、七代目が馬場に渡した承諾書がでてきたため和解。馬場側が「永坂更科本店」の永坂と更科の間をあけ「麻布永坂 更科本店」とし、「永坂更科」を強調しないことで合意する。
 かつての更科とは無関係の人間が出店したことを受け、七代目松之助と当時の麻布十番商店街会長である小林勇などが中心となり、昭和24年(1949年)に「永坂更科 布屋太兵衛」を再興する。このとき法人として店名の「永坂更科」を商標登録し、また「(旧)布屋太兵衛」の屋号も「永坂更科 布屋太兵衛」側に引き継がれることになる。
 その後、昭和59年(1984年)に八代目松之助が独立して麻布十番に開店するが、屋号に「布屋」を用いていたため永坂更科布屋太兵衛側と裁判となる。商標権をもたない八代目松之助は布屋を名乗れず、自身の姓である「堀井」をつけ店名を「総本家 更科堀井」に改称した。
 このため、現在は「麻布永坂 更科本店」(七代目から屋号使用の許諾を受け開業)、「永坂更科 布屋太兵衛」(店舗・会社組織として株式会社永坂更科布屋太兵衛が(旧)布屋太兵衛を継承)、「総本家 更科堀井」(店主が(旧)布屋太兵衛の創業者の直系)の3店が存在することとなる。いずれも近隣にあり、3店が並ぶ麻布十番は更科系老舗の密集地帯となっている。
(以上、「Wikipedia」参照)


 知りませんでした! 更科は蕎麦系としては、かなり好んで食する方ですが、近所にはないので、なかなか・・・。
 坂下の「新一の橋」交差点を渡って、通りの反対側を少し上がると、「永坂更科発祥之地」。

碑文

永坂更科発祥之地
    昭和五十四年十一月吉日
      永坂更科布屋太兵衛 建之

 その下に細かい字でいきさつが彫られていますが、判読不能につき、省略。

そこから坂下「麻布十番」駅方向)を望む。右が首都高。

 今回、なかなか変化に富んだ町並みを探索しました。高層ビルの間に昔ながらの平屋建てや木造建築があったり、路地があったり、表通りの賑やかな都心らしい雰囲気とはひと味違った街の姿を垣間見ました。都内の坂はまだまだ見所が満載です。



 1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

 中央左下が「麻布十番」駅付近。「永坂」が南北に延びています。右上の道が現「外苑東通り」。中央、「嶋津邸」付近は「狸穴公園」など現在も緑が多く残っています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする