おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

清戸坂。幽霊坂②。薬罐坂。小篠坂。・・・(関口・目白台の坂。その3。)

2015-04-19 12:59:42 | 都内の坂めぐり

 「目白通り」から「不忍通り」に向かいます。「護国寺」方面への緩やかな下り坂。この付近の「不忍通り」は「清戸坂」と呼ばれていました。

           

【標識(東京都設置)】

 目白台上の目白通りは、江戸清戸(きよと)道といった。中清戸(現清瀬市内)に御鷹場御殿があり、将軍が鷹狩に通う道が造られた。これが清戸道である。
 この清戸道から護国寺に下るわき道が清戸坂で、清戸道へ上る坂ということで坂名がつけられた。
 坂道の北側に、雑司谷清土村があったので、清土(せいど)坂とも呼ばれた。

【標識(文京区教育委員会設置)】

 延宝4年(1676年)、 御三家 尾張徳川家の御鷹場が中清戸(現清瀬市) につくられた。 将軍もしばしば出かけて鷹狩りを行った。 これが現在の目白通りである。
 首都高速道路(5号線)護国寺出入口(護国寺側)から 目白通りに向っての広い道は、昔から“清戸道に登る坂”ということで『清戸坂』といわれた。
 江戸時代、 この坂の北側一帯は、雑司ヶ谷村の畑(現在の雑司ヶ谷墓地)で、坂の道に沿って雑司ヶ谷清土村百姓町があった。
 明治10年代から坂の北側には牧場と牧舎が建ち、平田牧場と言った。 牛乳を売る小売店があり、人々が休憩した。 旗竿には、『官許の牛の乳』と假名と、ローマ字で書かれていたという。

(以上、HP参照)

 日本女子大の敷地の西側にある坂が「幽霊坂」。

 日本女子大脇の歩行者専用の道路で、目白通りに向かう坂。「幽霊坂」などというイメージは想像もつかない印象ですが、
  1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
 ←Aが「幽霊坂」、↓が「本住寺」、Bが「清戸道」。

 かつては、坂道の西側にお寺の墓地があり、東側には茶畑が広がっていて、周囲が物寂しい、坂道だったことが想像されます。

右手が「日本女子大」。

    
         「幽霊坂」と「不忍通り」との角にある古風な建物。日本女子大の敷地内?

 「不忍通り」を進み、「聖ドミニコ修道院」の手前をを右折して、正面の石段を上がると、「窪田空穂終焉の地」の碑。


 窪田空穂(くぼたうつぼ)
 明治10年~昭和42年(1877~1967)。本名は通治。空穂は号。明治、大正、昭和の歌人、国文学者。
 その文筆活動は、短歌、小説、随筆、評訳と多彩であった。多数の歌集のほか、万葉集、古今集、新古今集の評訳、源氏物語の現代語訳などを著した。一方、早稲田大学教授として多くの人材を育てた。昭和16年、日本芸術院会員。昭和33年、文化功労者。
 明治45年(1912)竹早町(現・小石川5丁目)に居住して以来、文京区とのゆかりが深く、この地に46年間住み、昭和42年4月12日ここで没した。享年89歳。

 文京区教育委員会   平成7年3月

 おうちの東側にあった古木の切り株。2本ほど途中でバッサリと。

 そこから左に曲がり、突き当たりを左折すると、「薬罐坂」。

    
    南(「目白通り」方向)を望む。               北(「不忍通り」方向)を望む。 

       

薬罐坂(夜寒坂)

 江戸時代、坂の東側は松平出羽守の広い下屋敷であったが、維新後上地され国の所有となった。現在の筑波大学付属盲学校一帯にあたる。また、西側には広い矢場があった。当時は大名屋敷と矢場に挟まれた淋しい所であったと思われる。
 やかん坂のやかんとは、野豻とも射干とも書く。犬や狐のことをいう。野犬や狐の出るような淋しい坂道であったのであろう。また、薬罐のような化物が転がり出た、とのうわさから、薬罐坂と呼んだ。夜寒坂のおこりは、この地が「夜さむの里道」と、風雅な呼び方もされていたことによる。
 この坂を挟んで、東西に大町桂月(1869~1925、評論家、随筆家)と、窪田空穂(1877~1967、歌人、国文学者)が住んでいた。
 この道を行きつつみやる谷こえて蒼くけぶる護国寺の屋根 (窪田空穂)

 文京区教育委員会  平成13年3月

 「薬罐坂」は、「音羽通り」をはさんで東側の小日向台にもありました。同じように物寂しいところだったようです。

「夜寒坂ムーンリッツ」。
 地図上では「夜寒桜ムーンリッツ」とあります。賃貸住宅のようです。

「不忍通り」から望む。

 「不忍通り」を「護国寺」方向に下って行きます。この辺りは「旧雑司ヶ谷町」。「雑司ヶ谷」は豊島区、文京区にまたがった広い地域でした。



 「不忍通り」の北側にある「トヨタ東京カローラ」の方に渡って、首都高速池袋線の下をくぐって護国寺方向に出ます。

    
                                   高速道路の下、池袋へ向かう道が「小篠坂」。
 

             

小篠坂(小笹坂)

 豊島区と境を接する坂である。この坂道は、江戸のころ、護国寺の北西に隣りあってあった幕府の御鷹部屋御用屋敷から、坂下の本浄寺(豊島区雑司が谷)に下る坂として新しく開かれた。往時は笹が生い繁っていたことから、この名がついたものであろう。
 坂下一帯は、文京の区域を含めて、住居表示改正まで、雑司が谷町とよばれていた。近くの目白台に長く住んだ『窪田空穂』は、次のようによんでいる。
  雑司が谷 繁き木立に降る雨の
        降りつのりきて 音の重しも

 文京区教育委員会  平成元年3月 

    
  池袋方向(豊島区側)「を望む。               南側(文京区側)を望む。

 「不忍通り」に戻ってさせしてしばらく行くと、「護国寺」前に出ます。


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