おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

亀山宿西町。西の丸外堀跡。京口門。・・・(「亀山駅」から「道の駅・あいの土山」まで。その1。)

2015-09-26 21:24:48 | 旧東海道

 好天に恵まれた連休の一日。思い切って「亀山」宿から「関」宿、「坂下」宿まで足を伸ばしてみようと出かけました。

 9月22日(火)。東京を6時30分発の新幹線で名古屋、そこから関西本線で「亀山」まで。着いたのは9時40分前。前回来たところまで戻って、そこから関宿に向けて出発することに。

 その前に駅前のタクシーの運転手に。

 「これから坂下まで行く予定で、そこから関駅に戻ろうと思っているんで、連絡したら来てもらえますか?」「いいですよ、前に坂下の集会所まで迎えに行ったことがある。そこから関までだと2,500円くらいかな、ここまでだと、3,000円は超えちゃうよ。」「では、着いたら電話を入れますので、だいたい2時過ぎくらいかと。」「いいですと」とタクシー会社の名刺をもらいました。

 何しろ、坂下宿から「鈴鹿峠」を越えていく区間には、バスの便がまったくありません。かつては鈴鹿峠越えをする三重県)内と滋賀県内を結ぶ国鉄(JR)バスがあったのですが、採算が取れず、すでに廃止。
 三重県側の「坂下」宿のどん詰まり(「鈴鹿峠」直下)まで行ったとしても、午後1時過ぎにそこから引き返すにはタクシーしかない。さもなければ、そのまま鈴鹿峠を越え、峠の向こうの滋賀県側の「土山」宿まで延々と歩いていく、という、いざとなったときの足の便がまったくない、ある意味で「旧東海道」の旅では難所中の難所。
 もちろん、「箱根峠」は標高も高く、長く急な上りと下り坂、という意味では、道中一番の難所です。が、あそこでは、街道沿いにバスはけっこう通るし、峠に出れば「小田原」へ戻るにも「三島」へ行くにもバスの便はたくさん。疲れたら逃げ道があるので、心強い。

 しかし、ここは天気でも悪くなったら、それこそお手上げ。進むか戻るかの決断が必要になります。同行の人でもいればまたいいが、たった一人で歩くにはちょっと、・・・。そんなわけで、帰りの足を確保したところでいざ、出発!

 前回のところまで戻って階段を上がる。その手前には「解説板」。

 伊勢国亀山宿は、東海道四十六番目の宿。江戸からは百四里あります。
 文久3年(1863)の『宿内乃軒別書上帳』では本陣で東町問屋の樋口太郎兵衛、脇本陣の椿屋弥次郎、西問屋の若林又右衛門、家数は451軒になります。
 『亀山領内東海道分間絵図』(伊藤容子氏蔵・亀山市指定文化財)は、享和3年(1803)に徳川幕府が亀山城主石川家とともに、実地測量(六百分の一)のうえ作成されたもので、幕府が後に完成させた、千八百分の一(分間)の縮尺による『五街道分間延絵図』の基礎絵図としたものです。
 現存しているのは、亀山領のうち中冨田から小野までの部分で、六巻に分けられ、その長さは22.8mにもおよびます。沿道の寺社や家並み、木の種類に至るまで詳細に描かれ、19世紀初頭の東海道亀山の状況が明確にうかがえるという点で重要な資料です。
 この図は、亀山宿西町の「万町」から「青木門前」にあたる部分です。この場所は、図の中間点「水籠梯子置所」と表された位置付近になり、右手に松並木越えに
 亀山城多門櫓を、眼下にかつての外堀であった池の側を望む絶好のポイントです。

西町問屋場跡

 問屋場とは、江戸時代の各宿において、主に公用の荷物などを運ぶ伝馬人足の継ぎ立てのほか、一般の商品物資などの継ぎ立て業務をおこなう施設で、町の重役である宿役人がこれを受け持った。
 東町と西町からなる亀山宿では、代々宿役人であった東町の樋口家(本陣の家)と西町の若林家(家業は米問屋)が、十日あるいは二十日程度の期間で定期的の交替しながら宿継ぎの問屋業務を担当している。
 現在、西町の問屋場跡は、後世の道路改良などにより厳密に比定することはむずかしいが、享和3年(1803)の『亀山領内東海道中分間絵図』(亀山市指定文化財・伊藤容子氏蔵)や文化4年(1807)の『伊勢国鈴鹿郡亀山宿之図』(亀山市歴史博物館蔵)から、おおむねこの辺りに宿役人若林家の屋敷や借家、問屋場が並んでいたことが確認できる。
 なお、元治2年(1865)には、若林家の借家や問屋場などは、日野屋に譲り渡されている(亀山市歴史博物館田中稲造氏寄託資料)。

 平成15年10月 亀山市教育委員会

          
 「亀山宿」の中心部から続いて「黄土色」に塗られた道を進みます。

    
                              古いおうち。

突き当たりを右に曲がり、正面・突き当りを左に曲がる。枡形になっている。まもなく京口門へ。                      
    
かつての屋号が三つ並んで。 

 西に折れる右の角地には「亀山城外堀」跡。

    

亀山城西の丸と外堀

 ・・・この復元した西の丸外堀は、城の外周を取り囲む亀山城外堀の一部で、特に東海道と外堀が並行して接する場所にあたり、防御上、また城の景観上重要な場所でありました。町屋側には番所、復元地南の西の丸側には西の丸西櫓がありました。・・・

「亀山城」の全容図。

 現在は、城址一帯は「公園」の他、市役所・小中学校などの敷地になっています。④が現在地。ここから道は西へ向かいます。

しばらく進むと「京口門」跡。

京口門跡

 亀山宿の西端、西町と野村の境を流れる滝川左岸の崖上に築かれた門である。
 『九々五集』によれば、東海道の番所として当時の亀山城主であった板倉重常によって寛文12年(1672)に完成されたとされる。翌延宝元年(1673)に東町に築かれた江戸口門とともに亀山上城郭の城門として位置づけられ、両門の建設によって東海道が貫通する城下の東西が画された。
 京口門は石垣に冠木門・棟門・白壁の番所を構え、通行人の監視にあたっていた。また門へ通じる坂道は左右に屈曲し、道の両側にはカラタチが植えられ不意の侵入を防いだとされr。
 大正3年、京口橋が掛けられたことで坂道を登る道筋は途絶えてしまったが、往時は、坂の下から見上げると、門・番所のそびえる姿が壮麗であったことから、
 亀山に過ぎたるものの二つあり、伊勢屋蘇鉄に京口御門」
と謡われるほどであった。
 歌川広重「東海道五十三次」のうち 『雪晴』をはじめとする風景画の舞台として著名である。

 平成20年3月 亀山市教育委員会 


 東海道五十三次之内 亀山 雪晴 / 歌川 広重

 雪の朝の亀山城の前を大名行列が通っていく。山の傾斜、行列、雪に包まれた松の線の方向を同じくし、二本の松がそれらの線と交差して自然の力強さを表わしている。銀世界に左手の紅色の空のぼかしが、晴れた日の日差しを表わしている。前図の庄野と並べると、主題構図も対象的で、続き絵としてのおもしろさもある。

(「知足美術館」HPより)

    
  大正期の亀山(「同」HPより)。                 現在のようす。

    
 「京口門橋」付近から「京口門」跡を望む。                 行く方向を望む。

ゆるやかに下って行きます。振り返って「亀山宿」を望む。

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