「向島百花園」。
「向島百花園」は周囲を住宅・高層ビルに囲まれていて、冬の日差しがあまり差し込まないせいか、冬枯れの風情が一段と。
人の訪れも少なく。
枯れ薄が園内一面に。
遠くには「スカイツリー」が。
「茶筅塚と柘植黙翁句碑」
おりたらん 草の錦や 花やしき
小ぶりですが、柚の木。
赤い実。マンリョウ。
柚の木も赤い実のなるナンテンなど、取り壊す前の我が家には、けっこう大きなものがあり、人に分けたり、飾ったり、お風呂に入れたりと楽しめました。大きな柿の木やクヌギ、棕櫚もすっかりなくなり、今は、小さな花壇が細々とあるのみ。、二世帯住宅というのは、駐車場にしたりして、敷地一杯に建てるしかないのですが・・・。
ヤナギ。
「手向山」。 ヤマモミジ系の枝垂性品種。
此(こ)の度(たび=旅)は ぬさ’(幣)も取(とり)あへず 手向山(たむけやま)
紅葉(もみぢ)のにしき 神のまにまに
「古今集」・「小倉百人一首」中、菅家(菅原道真)の歌。
もちろん、この「手向山」という紅葉をさしているわけではありません。奈良市東部に位置する手向山は紅葉の名所として知られ、その麓には手向山八幡宮が東大寺二月堂の並びにあります。
「幣」は、神に祈る時に捧げ、またお祓(はら)いに用いる紙・麻などを切って垂らしたもの。幣帛(へいはく)。ごへい。
《歌意》こんどの旅は(宇多上皇の御幸のお供で急いで来たために)神様に捧げる幣を用意するひまもなく来ました。この手向山のみごとな紅葉の錦を(幣として)神様の御心のままにお受け取り下さい。
この歌にあやかって名づけられた品種のようです。
初代河竹新七追善 しのぶ塚
隅田川よ二面よと歌舞伎にも浄瑠璃にも世にもてはやさるる荵売は、安永四とせ中村座の春狂言に初代中村仲蔵が勤め、前の河竹新七の作なり。そが正本を、ある人より贈られて久しゅう秘蔵せしは、名を嗣ぐ者の幸せと悦びしが、この度ここに埋みて、昔忍ぶの墳と名づけその故よし記しつくるは、隅田川の流れ絶えず伝えて、二面の二つなき功績を、後の世に遺さんとてのわざになんありける。
明治13年(1880)3月
きやうげん塚(二世河竹新七追善狂言塚)
二世河竹新七、俳名は其水、晩に古河黙阿弥と改む。壮年より演劇作者となり、古稀の齢を跨えて明治25年(1892)の春、喜の字の祝さえなしけるに、明くる年料らずも病のために身まかりぬ。その一生の間に書き綴りたる新作の狂言およそ三百余ほどありて、古来の作者に珍しきことなれば、その名を続ける門人等師のむすめと計り、これを後の世に伝えてんと、石を建てて狂言塚と名づけ、初代の名残りの荵塚になずらえて、しのぶの文字を書きつくることしかり。
明治27年(1894)11月
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