「大貫駅」。
久々の「房総往還」歩きの記録。しばらく他の記事が続いていましたが、やっと報告。
6月27日(土)。あいにくの曇り空。コロナで自粛がやっと解除されたので、やってきました。
前回の地点から再開。正面の道を進んできました。
JR線で寸断された街道はこの正面奥から復活。
「国道465号線」に合流し、進みます。
「岩瀬川」を渡る。
JR線のガードをくぐります。「佐貫街道」とある。
この交差点を左折します。
緩い上り坂。
1880年代のようす。 2010年代のようす。
右手の小高い丘が「弁天山古墳」。
右手に詳細な解説板。
富津岬の南、東京湾を望む台地上に立地する弁天山古墳は、内裏塚古墳群の最南端に位置する全長86mの前方後円墳である。明治元年(1868)に小久保藩の藩校を建設するために墳麓を削って以来、墳丘は度々改変を受けていたが、昭和2年(1927)4月に小学校を建設するため後円部の墳頂にあった厳島神社の一部を崩した際に石室の一部が見つかり、内務省に報告された。そして、同年の9月には内務省の柴田常恵らによって発掘調査が行われ、昭和4年(1929)には国の史跡に指定された。
その後、昭和46年(1971)、昭和50・51年(1975・1976)度に保存整備のための調査が行われ、埴輪、石室の形態、石室内に残存していた遺物などが明らかになった。埴輪は、円筒埴輪のタガの断面が細身で高さのある台形であり、5世紀後半代の特徴をもつものであった。石室は、砂岩の転石を小口積みにして、天井を大型の板状の切石で覆った竪穴式石室である。天井の真ん中に置かれた石には、縄かけ突起が造り出されており、長持形石棺の蓋石の要素を取り込んだ極めて特殊な形式として注目されている。遺物は、剣、大刀、鉄鏃、錨留短甲、衝角付冑、鎌が出土した。
(この項、「千葉県」公式HPより)
小久保藩邸・藩校跡
富津市中央公民館付近の敷地は、明治元年(1868)9月から明治4年(1871)7月までの4年間小久保藩が置かれ、藩邸・藩校等が所在していた場所である。初代藩主の田沼意尊は、江戸時代中期の10代将軍家治時代に老中であった田沼意次から数えて9代目の子孫に当たる。・・・明治4年廃藩置県により小久保藩は消滅した。小久保藩校の盈進館は明治3年に開校した。洋学を取り入れ、英語に加えて算術・地理・歴史を教え、士庶共学であった。明治5年の学制頒布によって館は小久保小学校の校舎となり、その後小久保北小学校・小久保尋常小学校・大貫尋常小学校等を経て、現在の大貫小学校に至った。
かなり広い跡地。公民館で会合があるのか、車が駐車中。
「内房線」の踏切を渡り、線路沿いに進む。
海が近いせいか、ここにも釣り船が。
静かでのどかな道筋。
「弁天山古墳」を振り返る。
クロネコがじっと見つめているので、パチリ!
令和2年4月1日より、大貫中学校・佐貫中学校が統合し、「大佐和中学校」に。
隣にある「大貫小学校」は歴史ある学校。
藩といえば江戸時代である。しかし、富津市にあった小久保藩は、明治元年9月に成立している。明治4年7月には廃藩置県が行われるので、藩が存続したのはわずか2年10ヶ月ということになる。藩主は、かの有名な田沼意次の子孫であった田沼意尊である。意尊は、水戸の天狗党の乱が起こった時に若年寄で、その追討使に任命された人物である。領地は、遠江国相良(現静岡県榛原郡相良町)にあった。富津市に移封されたのは、徳川家達が70万石で駿府に移されたからで、まさに、トコロテン式に富津市に移封されたといえる。小久保藩と同様に、駿河や遠江などから房総に移された藩は、松尾藩、菊間藩、鶴舞藩、櫻井藩、花房藩、長尾藩の6藩である。
藩主意尊は、明治2年に東京に入り、同年6月に版籍を奉還し藩知事となって7月に初めて領地となった小久保の地に入ったが、同年12月に52歳で亡くなっている。廃藩置県の時は2代目の意斉であった。陣屋は、現富津市小久保字弁天の地にあり、その跡地には、碑が建立されている。小久保藩の石高は1万1千270石で、領地は上総国周准、天羽両郡に存在した。明治3年12月に、藩校盈進館を設立・運営している。盈進館は、学制発布後の明治6年11月に、現大貫小学校の前身である小久保小学校となっている。
(この項、「富津市歴史」HPより)
田園風景がひろがる。緑豊か。
この付近の今昔
(「今昔マップ」より)
←が旧道。
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