「小泉家屋敷」。
(13:13)「御殿橋」のたもとにある「八王子道標」。
正面に「八王子道」、東面に「此方 はら町田 神奈川 ふぢさわ」、西面に「此方 はしもと 大山 津久井」。
山道の上り下りで足の指の痛さはかなりですが、もう少し歩くことにします。
道標の裏に解説板。
この道標は、輸出品の花形であった生糸を横浜港へ運ぶ時の道しるべとして慶応元年(西暦1865)に建てられました。
当時、この道筋には家屋敷が立ち並び、外国人等も往来して大変なにぎわいをみせていました。
生糸の仲買人として活躍したこの地の商人たちは鑓水商人として、後世にその名を残しています。その姿は道標の正面に描かれています。
なお、この道標は、御殿橋南側にあった旧鑓水公会堂横に建てられていましたが、大栗川の改修工事に伴い、昭和63年に現在の場所に移されました。
街道は「大栗川」の右岸を進んでいて、本来はそこにあった道標のようです。「御殿橋」は渡らず、手前を左折して川沿いに進みます。
「高齢者専用住宅 シルクロード鑓水」。
「嫁入橋」を渡ります。
「大栗川」。上流に「御殿橋」。
「嫁入橋」という名前のいわれは何でしょうか? 興味ありますが。
「柚木街道」に出ると、「谷戸入口」という信号。横断して、南に向かいます。
ここで「谷戸」について。
谷戸(やと)とは、多摩丘陵・三浦丘陵・狭山丘陵・房総丘陵・武蔵野台地・下総台地といったの関東の丘陵地・台地の縁辺部が長い時間をかけて浸食され形成された谷状の地形のこと。谷(や、やと)・谷津(やつ)・谷地(やち)・谷那(やな)などとも呼ばれる。
これらの表記および読みは地域により分布に差が見られ、同様の地形を表す際にも、千葉県などでは「谷津」(やつ)を、神奈川県および東京都多摩地域では「谷戸」(やと)、「谷」(やと)を、東北地方では「谷地」(やち)を使っている場合が多い。
これらの経緯については史料が少なく詳細は分かっていないが、いずれの場合も意味は同じで、浅い浸食谷の周囲に斜面樹林が接する集水域であり、丘陵地の中で一段低くなった谷あいの土地であることを表している。
なお、多摩・三浦丘陵における谷戸地形の成因は主に約2万年前の最終氷期頃にかけて進んだ雨水・湧水による浸食で、その後の縄文海進期にかけて崩落土などによる谷部への沖積が進んで谷あいの平坦面が形成されたと考えられている。
土地利用
大量の水を使う水稲耕作において水利の確保は重要な課題のひとつとなるが、日本において稲作が始まってからしばらくの間は利水・治水技術が発達していなかった(当初の鉄製品は朝鮮半島からもたらされる希少なものであり、農具は木製が多く、用水路開削などには多大な労力を要した)頃には、集水域であるから湧水が容易に得られ、しかも洪水による被害を受けにくい谷戸は、排水さえ確保できれば稲作をしやすい土地であった。よって丘陵地内にあっては古くから稲作が営まれており、中世までには開発が進んでいたものと考えられている。
こうした土地は森林が近接する谷あいの農地であることから、日当たりを確保するため、田に近接する斜面では「あなかり」などと呼ばれる下草刈りが定期的に行われており、また近接する森林では薪などを取ることができ、そうした行為には慣例として入会権が認められていた。労力さえかければ生活に必要な食糧・燃料・道具などの材料を調達するに適した土地であったと考えられている。
反面、こうした場所は尾根筋に挟まれた狭隘な地形であるために日照時間が短く、水はけが悪い場合には湿地状態になっていることが多い。また湧水地に近接する谷戸田へは農業用水を直接引き入れると水温が上がらないうちに入ってしまうこととなり(多摩地域では谷戸に流れる冷たく分解前の腐植質が混じる水を「黒水」と呼んだ)、水を引き回すなどして温める工夫が求められる上、収穫される米の食味が悪くなるとの指摘がある。
戦国時代以降になると治水・利水技術が進展し、諸大名が石高向上のための稲作振興策を推進したため、関東においても新田開墾が進み、平野部での稲作が盛んになった。
明治以降になると中央集権化が進められ、それまで地域毎に藩主導で行われていた農業振興策が縮小・廃止されるようになり、「高度経済成長」期になると農機や化学肥料の導入をはじめとする集約化が進められ、エネルギー源も薪から化石燃料へと転換した影響を受けて、前述のような谷戸地形の優位性が失われるとともに欠点が目立つようになり、谷戸田は衰退することとなった。また、湿度が高く宅地とするにも不向きであることから、耕作放棄後には荒れ地になっていたり、建設残土などにより埋め立てられている場合すらある。
しかしながら、都市化が進む地域においては緑地や水源地としての希少性・貴重性が認められて保全する動きが出てくるとともに、近年は後述するような価値も認められるようになっている。
生態系
生物多様性の重要性が認識されるようになった近年、前述のような独特の条件がある谷戸の生態系に注目が集まるようになった。
たとえば、トウキョウサンショウウオやヤマアカガエルなどの絶滅危惧種や地域固有種が、開発を逃れた谷戸に生息していることが多い。また、急激な都市化が進められた関東地方において今なお従来の生態系が残っている場合があることから、里山や雑木林などとともに価値が見直されはじめている。
以下、鑓水付近の谷戸について、「谷戸めぐり 鑓水の地名」yato.no-mania.com/ ブログを参照し、紹介します。
なお、この方は、「多摩の原風景を求めて歩き回っています」との自己紹介にあるように、踏査したブログには写真も多く掲載されていて、たいへん興味ある内容です。
谷戸めぐり
谷戸、里山は今や貴重な存在と成っていますが、そもそも多摩の原風景と言えば当にそれでした。 このブログではそんな多摩の原風景をご紹介し、未来にこの素晴らしい風景を伝える一助と成ればと思って開設しました。 また記録の意味も含めて、宅地化されて失われてしまった谷戸や、人工の谷戸や里山も紹介します。
子ノ神谷戸(ねのかみやと)
住所:東京都八王子市鑓水
所属:多摩丘陵、厳耕地谷戸支谷
河川:大栗川源流部子ノ神谷戸川
水系:多摩川水系
・・・
鑓水の谷戸群は大栗川の北岸を中心に非常に良く残っている。
逆に南岸は公園化や学校、宅地化により消滅しているところが多く対照的だ。
子ノ神谷戸は現在は諏訪神社に合祀されているこの地の鎮守・子ノ神神社があったことに由来しているそうで、先述の北岸の谷戸群の一つである。
ただ厳耕地谷戸、嫁入谷戸に比べて荒れ地が多く、荒廃した印象が強い。
中流域までは農地と宅地が点在しているが、谷頭部は近くに霊園が開発されて尾根の一部が削られたりしたせいもあり、夏場は立ち入ることが出来ないほどの藪になってしまっている。
嫁入谷戸(よめいりやと)
住所:東京都八王子市鑓水
所属:多摩丘陵、嫁入谷戸本谷
河川:大栗川源流部嫁入谷戸川
水系:多摩川水系
・・・
嫁入谷戸とは変わった名前の谷戸もあるものだと思っていたが、これには深い理由があるようだ。この地に昔、夜な夜な現れて舞いを踊る巫女が現れ、村の若者が皆魅了されてしまった。これは魔性の類だと言うことになって、屈強なものが弓を射かけると、たちまちに姿は消え、次の日、弓に射貫かれ田に横たわる狐が発見された。
この巫女伝説に由来し「弓射谷戸」となり転訛して「嫁入谷戸」となったという説がそれだ。大栗川を挟んだ対岸には「巫女の沢」という名前もあり、この伝説に因む名はこの地の特徴の一つとなっている。
しかし「弓射」の転訛で「嫁入」というものの、昔から「狐の嫁入り」という言葉もあることから、もっと深い事実が元になっているのかなと想像を掻き立てられる話である。
他の説では、鑓水商人の家に、三井家から嫁入りがあったことに因むというのもあるが、なんとなく個人的には前者が有力な気がしてならない。
この谷戸はこの地域の他の谷戸と同じく大栗川の源流部に辺り、当谷戸の水路もそのまま他の谷戸からの水と合わさり大栗川となって多摩川に向かって流れて行く。
この谷戸は先端部が二分岐しており、本谷と支谷ともに現在でも耕地、水田として現役である。
・・・
谷頭部から下流を見下ろすと、すぐ先にはニュータウンの林立する高層ビルが見えるが、ニュータウンのほど近くなのに、鳥のさえずり、小川のせせらぎ、葉擦れの音以外にはまず余計な音が無く、非常に静かな場所だ。この付近まで歩いてきたら、この里山の音に耳を傾けて、じっくり癒されたい。
厳耕地谷戸(がんこうちやと・げんこうちやと)
住所:東京都八王子市鑓水
所属:多摩丘陵、厳耕地谷戸本谷
河川:大栗川源流部厳耕地谷戸川
水系:多摩川水系
・・・
八王子市鑓水は今でも谷戸と里山の景観を色濃く残している貴重な地域で、多摩丘陵の昔の雰囲気を肌で感じられる少ない場所の一つとなっている。
当地は鑓水のほぼ中央に位置しており、八王子バイパスの方面の尾根、御殿山方面からの抜け道が走っている関係上、自然豊富ながら交通量も多く、徒歩で散策していると極めて煩わしく感じる。
当地は歴史的に見ても重要な土地柄で、近くに「絹の道」という昔道があり、絹糸の売買で財をなした鑓水商人の館などが保存されており、これを土台とした絹の道資料館は散策の途中に是非とも寄りたい場所である。
ちなみに「資料館」には鑓水の昔の姿のジオラマがおいてあり、当地周辺の谷戸の分布などを探る一級の資料となっている。
歴史的に重要で、ニュータウン開発地区に入らなかったことなどから、この地は谷戸と里山の景観をとどめていると言っても良いのだが、すぐ近くにニュータウンがあったり、八王子方面から横浜方面を結ぶ八王子バイパスや、16号御殿山交差点など、交通の要衝の近くにあることなどで、開発の波は徐々に押し寄せてきている。
鑓水地区でも東谷戸、日影谷戸、巫女の沢などはすっかり宅地化が進み、その他の谷戸にも耕作放棄から宅地化への流れが見え隠れしてきているし、
当地の小支谷も霊園開発などが行われており、消滅までは行かなくとも、景観の変貌は着実に現実の問題となってきている。
当地では一部に水路やビオトープを作って、蛍を楽しめる場所造りの取り組みがスタートされていたり、隣の柚木地区の公園化による里山の保護活動とのシンクロによって、様々なアイディアが入ってきているのは歓迎すべき事だろう。
歴史と里山の宝庫となって時代へ残したいものである。
「板木谷戸」と呼ばれる道筋に。
(13:21)右手に茅葺きの「小泉家屋敷」。
小泉家の主屋(建築面積112平方㍍)は明治11年(1878)に再建されたものであるが、木造平屋建て入母屋造り、茅葺き、田の字形四間取りで、この地方に旧来からみられる典型的な民家建築をしている。
屋敷地の面積は約33.2アールで、南面した道路沿いには宅地、田畑地となっており、背後の畑地から北側にかけては山林で次第に高くなり尾根に達している。
敷地内には主屋のほか納屋・堆肥小屋・稲荷社・肥衣塚などが点在し、多摩丘陵地帯の一般的農家の屋敷構え・生活形態を知る上で貴重な民俗資料となっている。
その先、道はカーブして上っていきます。右手には鬱蒼した森が。
「鑓水板木の杜緑地」。
「解説板」。
鑓水板木の杜緑地
この地域一帯は岩盤の層があり、山の中腹に槍状の先のとがった道具で突いていくと、地下水が湧き出てくる。
この水を節を抜いた竹で導き瓶などに貯え、飲料水として利用してきた。これを筧(かけひ)と言い更にこの瓶から水を流れるようにしたものを『鑓り水』と言うが、これが鑓水の由来と考えられる。
また、板木という名は古文書のある古絵図に記された「伊丹木」に由来する。これはアイヌ語で「きれいな清水が湧き出る所」という意味として伝わっているが、この地は古くはアイヌ民族が住んでいたと思われる。
というのは、この地域から発掘された縄文土器の紋様と、アイヌ人が現在でも使用している衣装の文様とよく似ているのが、なによりの証拠と考えられているからである。
そして、の「伊丹木」が後に「板木」に変化したのではないかと考えられている。
なお、この緑地内の尾根道は、旧鎌倉街道と呼ばれ、相模を通り甲州・秩父方面へと通じ浜街道と共に重要な街道であった。
この辺りは、「心霊スポット」としていっとき有名なようです。
①鑓水峠(大塚山公園)にあった、明治8年に建立された道了堂跡。
昭和38年(1963)、堂守の老婆が殺されて、後、廃寺になった。そのため、稲川淳二の怪談「首なし地蔵」の舞台ともなっている(地蔵に触れると呪われる云々)、とか。
②そしてここ「鑓水板木の杜緑地(鑓水公園)」。
昭和48年(1973)不倫の清算に失敗した立教大学の助教授が、交際相手である女子大生を殺害し埋めた事件。助教授は事件発覚前に妻と子供とともに一家心中をとげ、遺体発見まで長い日数がかかり、そのかん、マスコミでもセンセーショナルに扱われました。そんないわれがあるようです。
たしかに「大塚山公園」は何だか辛気くさい印象があります。しかし、ここは? あえて公園内には立ち入りません。
「鑓水中」に沿って車進入禁止の広い歩道を進みます。「絹の道」と足下に。
(13:30)「穂成田歩道橋」。見晴らしのいい高台を進みます。
「鑓水小山給水所」を通り、それまでは炎天下。ここで少し緑陰でホッと。広い歩道を終え、「町田街道」へ向かって下って行きます。
(13:40)「町田市」入り。
なだらかですが、けっこう長い下り坂。
右手に緑濃き公園が広がります。
(13:48)「小山田端自然公園」。
「町田街道」に出る手前で左折し、細い道に入ります。
「町田市汚水マンホール」。
中央に市章、周りに市の花サルビアの花を放射状に描いています。
今回、このデザインが変更になりました。
新デザインマンホールふたを設置しました 更新日:2019年3月14日
現在、市で使用しているマンホールふたのデザインは、1989年(平成元年)に作成したもので、使用開始から約30年が経過しています。近年では、地域に由来する文化や歴史、名所、名産などがデザインされたご当地マンホールふたに注目が集まっており、本来のマンホールふたとしての役割に加えて、地域をアピールする役割も担っています。市でも、市民生活を支える下水道事業へ関心を持っていただくことを目的として、町田の魅力を発信する新たなデザインのマンホールふたを作成しました。
新たなデザインは、町田市と大学との連携に関する協定を締結している学校の学生に作成いただいた案の中から、市民の皆様を中心に投票を行い、決定したものです。
約4ヶ月の製造期間を経て、ついに新デザインマンホールふたを設置しました。
ぜひ実物をご覧ください!
デザイン投票では、市民の皆様を中心に総勢6041名に投票いただきました。
汚水管の部、雨水管の部それぞれについて、最も得票数が多かった以下のデザインを、マンホールふたの新たなデザインとして採用します。
※デザインは安全性確保の観点等から一部を補正・修正する場合があります。カラーはイメージです。
汚水マンホールふたデザイン
デザインコンセプト:
デザインのテーマは「愛あふれる町田」です。「町田」の漢字に含まれる「田」の形の区切りに、「家族愛」の花言葉を持つ市の花サルビアと、カワセミのつがい(メスは嘴の下部が赤い)を配置しました。
雨水マンホールふたデザイン
デザインコンセプト:
町田リス園のリスをモチーフに、爽やかな印象を持ってもらえるように、降る雨を眺めるリスのシルエットと水の流れを合わせた切り絵風のシンプルな絵柄にしました。
(この項、「」HPより)
(13:53)静かな住宅街を進みます。
庭に咲いている紫陽花。
「ピラミッドアアジサイ」?
「京王相模原線」のガードをくぐり、しばらく進むと、「町田街道」に合流します。が、左手を見ると、奥の高台に「多摩境」駅。暑いし、足も痛いし、ここで今回はおしまいに(14:00)。
(13:13)「御殿橋」のたもとにある「八王子道標」。
正面に「八王子道」、東面に「此方 はら町田 神奈川 ふぢさわ」、西面に「此方 はしもと 大山 津久井」。
山道の上り下りで足の指の痛さはかなりですが、もう少し歩くことにします。
道標の裏に解説板。
この道標は、輸出品の花形であった生糸を横浜港へ運ぶ時の道しるべとして慶応元年(西暦1865)に建てられました。
当時、この道筋には家屋敷が立ち並び、外国人等も往来して大変なにぎわいをみせていました。
生糸の仲買人として活躍したこの地の商人たちは鑓水商人として、後世にその名を残しています。その姿は道標の正面に描かれています。
なお、この道標は、御殿橋南側にあった旧鑓水公会堂横に建てられていましたが、大栗川の改修工事に伴い、昭和63年に現在の場所に移されました。
街道は「大栗川」の右岸を進んでいて、本来はそこにあった道標のようです。「御殿橋」は渡らず、手前を左折して川沿いに進みます。
「高齢者専用住宅 シルクロード鑓水」。
「嫁入橋」を渡ります。
「大栗川」。上流に「御殿橋」。
「嫁入橋」という名前のいわれは何でしょうか? 興味ありますが。
「柚木街道」に出ると、「谷戸入口」という信号。横断して、南に向かいます。
ここで「谷戸」について。
谷戸(やと)とは、多摩丘陵・三浦丘陵・狭山丘陵・房総丘陵・武蔵野台地・下総台地といったの関東の丘陵地・台地の縁辺部が長い時間をかけて浸食され形成された谷状の地形のこと。谷(や、やと)・谷津(やつ)・谷地(やち)・谷那(やな)などとも呼ばれる。
これらの表記および読みは地域により分布に差が見られ、同様の地形を表す際にも、千葉県などでは「谷津」(やつ)を、神奈川県および東京都多摩地域では「谷戸」(やと)、「谷」(やと)を、東北地方では「谷地」(やち)を使っている場合が多い。
これらの経緯については史料が少なく詳細は分かっていないが、いずれの場合も意味は同じで、浅い浸食谷の周囲に斜面樹林が接する集水域であり、丘陵地の中で一段低くなった谷あいの土地であることを表している。
なお、多摩・三浦丘陵における谷戸地形の成因は主に約2万年前の最終氷期頃にかけて進んだ雨水・湧水による浸食で、その後の縄文海進期にかけて崩落土などによる谷部への沖積が進んで谷あいの平坦面が形成されたと考えられている。
土地利用
大量の水を使う水稲耕作において水利の確保は重要な課題のひとつとなるが、日本において稲作が始まってからしばらくの間は利水・治水技術が発達していなかった(当初の鉄製品は朝鮮半島からもたらされる希少なものであり、農具は木製が多く、用水路開削などには多大な労力を要した)頃には、集水域であるから湧水が容易に得られ、しかも洪水による被害を受けにくい谷戸は、排水さえ確保できれば稲作をしやすい土地であった。よって丘陵地内にあっては古くから稲作が営まれており、中世までには開発が進んでいたものと考えられている。
こうした土地は森林が近接する谷あいの農地であることから、日当たりを確保するため、田に近接する斜面では「あなかり」などと呼ばれる下草刈りが定期的に行われており、また近接する森林では薪などを取ることができ、そうした行為には慣例として入会権が認められていた。労力さえかければ生活に必要な食糧・燃料・道具などの材料を調達するに適した土地であったと考えられている。
反面、こうした場所は尾根筋に挟まれた狭隘な地形であるために日照時間が短く、水はけが悪い場合には湿地状態になっていることが多い。また湧水地に近接する谷戸田へは農業用水を直接引き入れると水温が上がらないうちに入ってしまうこととなり(多摩地域では谷戸に流れる冷たく分解前の腐植質が混じる水を「黒水」と呼んだ)、水を引き回すなどして温める工夫が求められる上、収穫される米の食味が悪くなるとの指摘がある。
戦国時代以降になると治水・利水技術が進展し、諸大名が石高向上のための稲作振興策を推進したため、関東においても新田開墾が進み、平野部での稲作が盛んになった。
明治以降になると中央集権化が進められ、それまで地域毎に藩主導で行われていた農業振興策が縮小・廃止されるようになり、「高度経済成長」期になると農機や化学肥料の導入をはじめとする集約化が進められ、エネルギー源も薪から化石燃料へと転換した影響を受けて、前述のような谷戸地形の優位性が失われるとともに欠点が目立つようになり、谷戸田は衰退することとなった。また、湿度が高く宅地とするにも不向きであることから、耕作放棄後には荒れ地になっていたり、建設残土などにより埋め立てられている場合すらある。
しかしながら、都市化が進む地域においては緑地や水源地としての希少性・貴重性が認められて保全する動きが出てくるとともに、近年は後述するような価値も認められるようになっている。
生態系
生物多様性の重要性が認識されるようになった近年、前述のような独特の条件がある谷戸の生態系に注目が集まるようになった。
たとえば、トウキョウサンショウウオやヤマアカガエルなどの絶滅危惧種や地域固有種が、開発を逃れた谷戸に生息していることが多い。また、急激な都市化が進められた関東地方において今なお従来の生態系が残っている場合があることから、里山や雑木林などとともに価値が見直されはじめている。
以下、鑓水付近の谷戸について、「谷戸めぐり 鑓水の地名」yato.no-mania.com/ ブログを参照し、紹介します。
なお、この方は、「多摩の原風景を求めて歩き回っています」との自己紹介にあるように、踏査したブログには写真も多く掲載されていて、たいへん興味ある内容です。
谷戸めぐり
谷戸、里山は今や貴重な存在と成っていますが、そもそも多摩の原風景と言えば当にそれでした。 このブログではそんな多摩の原風景をご紹介し、未来にこの素晴らしい風景を伝える一助と成ればと思って開設しました。 また記録の意味も含めて、宅地化されて失われてしまった谷戸や、人工の谷戸や里山も紹介します。
子ノ神谷戸(ねのかみやと)
住所:東京都八王子市鑓水
所属:多摩丘陵、厳耕地谷戸支谷
河川:大栗川源流部子ノ神谷戸川
水系:多摩川水系
・・・
鑓水の谷戸群は大栗川の北岸を中心に非常に良く残っている。
逆に南岸は公園化や学校、宅地化により消滅しているところが多く対照的だ。
子ノ神谷戸は現在は諏訪神社に合祀されているこの地の鎮守・子ノ神神社があったことに由来しているそうで、先述の北岸の谷戸群の一つである。
ただ厳耕地谷戸、嫁入谷戸に比べて荒れ地が多く、荒廃した印象が強い。
中流域までは農地と宅地が点在しているが、谷頭部は近くに霊園が開発されて尾根の一部が削られたりしたせいもあり、夏場は立ち入ることが出来ないほどの藪になってしまっている。
嫁入谷戸(よめいりやと)
住所:東京都八王子市鑓水
所属:多摩丘陵、嫁入谷戸本谷
河川:大栗川源流部嫁入谷戸川
水系:多摩川水系
・・・
嫁入谷戸とは変わった名前の谷戸もあるものだと思っていたが、これには深い理由があるようだ。この地に昔、夜な夜な現れて舞いを踊る巫女が現れ、村の若者が皆魅了されてしまった。これは魔性の類だと言うことになって、屈強なものが弓を射かけると、たちまちに姿は消え、次の日、弓に射貫かれ田に横たわる狐が発見された。
この巫女伝説に由来し「弓射谷戸」となり転訛して「嫁入谷戸」となったという説がそれだ。大栗川を挟んだ対岸には「巫女の沢」という名前もあり、この伝説に因む名はこの地の特徴の一つとなっている。
しかし「弓射」の転訛で「嫁入」というものの、昔から「狐の嫁入り」という言葉もあることから、もっと深い事実が元になっているのかなと想像を掻き立てられる話である。
他の説では、鑓水商人の家に、三井家から嫁入りがあったことに因むというのもあるが、なんとなく個人的には前者が有力な気がしてならない。
この谷戸はこの地域の他の谷戸と同じく大栗川の源流部に辺り、当谷戸の水路もそのまま他の谷戸からの水と合わさり大栗川となって多摩川に向かって流れて行く。
この谷戸は先端部が二分岐しており、本谷と支谷ともに現在でも耕地、水田として現役である。
・・・
谷頭部から下流を見下ろすと、すぐ先にはニュータウンの林立する高層ビルが見えるが、ニュータウンのほど近くなのに、鳥のさえずり、小川のせせらぎ、葉擦れの音以外にはまず余計な音が無く、非常に静かな場所だ。この付近まで歩いてきたら、この里山の音に耳を傾けて、じっくり癒されたい。
厳耕地谷戸(がんこうちやと・げんこうちやと)
住所:東京都八王子市鑓水
所属:多摩丘陵、厳耕地谷戸本谷
河川:大栗川源流部厳耕地谷戸川
水系:多摩川水系
・・・
八王子市鑓水は今でも谷戸と里山の景観を色濃く残している貴重な地域で、多摩丘陵の昔の雰囲気を肌で感じられる少ない場所の一つとなっている。
当地は鑓水のほぼ中央に位置しており、八王子バイパスの方面の尾根、御殿山方面からの抜け道が走っている関係上、自然豊富ながら交通量も多く、徒歩で散策していると極めて煩わしく感じる。
当地は歴史的に見ても重要な土地柄で、近くに「絹の道」という昔道があり、絹糸の売買で財をなした鑓水商人の館などが保存されており、これを土台とした絹の道資料館は散策の途中に是非とも寄りたい場所である。
ちなみに「資料館」には鑓水の昔の姿のジオラマがおいてあり、当地周辺の谷戸の分布などを探る一級の資料となっている。
歴史的に重要で、ニュータウン開発地区に入らなかったことなどから、この地は谷戸と里山の景観をとどめていると言っても良いのだが、すぐ近くにニュータウンがあったり、八王子方面から横浜方面を結ぶ八王子バイパスや、16号御殿山交差点など、交通の要衝の近くにあることなどで、開発の波は徐々に押し寄せてきている。
鑓水地区でも東谷戸、日影谷戸、巫女の沢などはすっかり宅地化が進み、その他の谷戸にも耕作放棄から宅地化への流れが見え隠れしてきているし、
当地の小支谷も霊園開発などが行われており、消滅までは行かなくとも、景観の変貌は着実に現実の問題となってきている。
当地では一部に水路やビオトープを作って、蛍を楽しめる場所造りの取り組みがスタートされていたり、隣の柚木地区の公園化による里山の保護活動とのシンクロによって、様々なアイディアが入ってきているのは歓迎すべき事だろう。
歴史と里山の宝庫となって時代へ残したいものである。
「板木谷戸」と呼ばれる道筋に。
(13:21)右手に茅葺きの「小泉家屋敷」。
小泉家の主屋(建築面積112平方㍍)は明治11年(1878)に再建されたものであるが、木造平屋建て入母屋造り、茅葺き、田の字形四間取りで、この地方に旧来からみられる典型的な民家建築をしている。
屋敷地の面積は約33.2アールで、南面した道路沿いには宅地、田畑地となっており、背後の畑地から北側にかけては山林で次第に高くなり尾根に達している。
敷地内には主屋のほか納屋・堆肥小屋・稲荷社・肥衣塚などが点在し、多摩丘陵地帯の一般的農家の屋敷構え・生活形態を知る上で貴重な民俗資料となっている。
その先、道はカーブして上っていきます。右手には鬱蒼した森が。
「鑓水板木の杜緑地」。
「解説板」。
鑓水板木の杜緑地
この地域一帯は岩盤の層があり、山の中腹に槍状の先のとがった道具で突いていくと、地下水が湧き出てくる。
この水を節を抜いた竹で導き瓶などに貯え、飲料水として利用してきた。これを筧(かけひ)と言い更にこの瓶から水を流れるようにしたものを『鑓り水』と言うが、これが鑓水の由来と考えられる。
また、板木という名は古文書のある古絵図に記された「伊丹木」に由来する。これはアイヌ語で「きれいな清水が湧き出る所」という意味として伝わっているが、この地は古くはアイヌ民族が住んでいたと思われる。
というのは、この地域から発掘された縄文土器の紋様と、アイヌ人が現在でも使用している衣装の文様とよく似ているのが、なによりの証拠と考えられているからである。
そして、の「伊丹木」が後に「板木」に変化したのではないかと考えられている。
なお、この緑地内の尾根道は、旧鎌倉街道と呼ばれ、相模を通り甲州・秩父方面へと通じ浜街道と共に重要な街道であった。
この辺りは、「心霊スポット」としていっとき有名なようです。
①鑓水峠(大塚山公園)にあった、明治8年に建立された道了堂跡。
昭和38年(1963)、堂守の老婆が殺されて、後、廃寺になった。そのため、稲川淳二の怪談「首なし地蔵」の舞台ともなっている(地蔵に触れると呪われる云々)、とか。
②そしてここ「鑓水板木の杜緑地(鑓水公園)」。
昭和48年(1973)不倫の清算に失敗した立教大学の助教授が、交際相手である女子大生を殺害し埋めた事件。助教授は事件発覚前に妻と子供とともに一家心中をとげ、遺体発見まで長い日数がかかり、そのかん、マスコミでもセンセーショナルに扱われました。そんないわれがあるようです。
たしかに「大塚山公園」は何だか辛気くさい印象があります。しかし、ここは? あえて公園内には立ち入りません。
「鑓水中」に沿って車進入禁止の広い歩道を進みます。「絹の道」と足下に。
(13:30)「穂成田歩道橋」。見晴らしのいい高台を進みます。
「鑓水小山給水所」を通り、それまでは炎天下。ここで少し緑陰でホッと。広い歩道を終え、「町田街道」へ向かって下って行きます。
(13:40)「町田市」入り。
なだらかですが、けっこう長い下り坂。
右手に緑濃き公園が広がります。
(13:48)「小山田端自然公園」。
「町田街道」に出る手前で左折し、細い道に入ります。
「町田市汚水マンホール」。
中央に市章、周りに市の花サルビアの花を放射状に描いています。
今回、このデザインが変更になりました。
新デザインマンホールふたを設置しました 更新日:2019年3月14日
現在、市で使用しているマンホールふたのデザインは、1989年(平成元年)に作成したもので、使用開始から約30年が経過しています。近年では、地域に由来する文化や歴史、名所、名産などがデザインされたご当地マンホールふたに注目が集まっており、本来のマンホールふたとしての役割に加えて、地域をアピールする役割も担っています。市でも、市民生活を支える下水道事業へ関心を持っていただくことを目的として、町田の魅力を発信する新たなデザインのマンホールふたを作成しました。
新たなデザインは、町田市と大学との連携に関する協定を締結している学校の学生に作成いただいた案の中から、市民の皆様を中心に投票を行い、決定したものです。
約4ヶ月の製造期間を経て、ついに新デザインマンホールふたを設置しました。
ぜひ実物をご覧ください!
デザイン投票では、市民の皆様を中心に総勢6041名に投票いただきました。
汚水管の部、雨水管の部それぞれについて、最も得票数が多かった以下のデザインを、マンホールふたの新たなデザインとして採用します。
※デザインは安全性確保の観点等から一部を補正・修正する場合があります。カラーはイメージです。
汚水マンホールふたデザイン
デザインコンセプト:
デザインのテーマは「愛あふれる町田」です。「町田」の漢字に含まれる「田」の形の区切りに、「家族愛」の花言葉を持つ市の花サルビアと、カワセミのつがい(メスは嘴の下部が赤い)を配置しました。
雨水マンホールふたデザイン
デザインコンセプト:
町田リス園のリスをモチーフに、爽やかな印象を持ってもらえるように、降る雨を眺めるリスのシルエットと水の流れを合わせた切り絵風のシンプルな絵柄にしました。
(この項、「」HPより)
(13:53)静かな住宅街を進みます。
庭に咲いている紫陽花。
「ピラミッドアアジサイ」?
「京王相模原線」のガードをくぐり、しばらく進むと、「町田街道」に合流します。が、左手を見ると、奥の高台に「多摩境」駅。暑いし、足も痛いし、ここで今回はおしまいに(14:00)。
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