おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

東武「境町」駅~「太田」駅。その3。(「日光例幣使街道」第2日目。)

2018-07-06 23:16:39 | 日光例幣使街道
                        新しい「木崎宿」碑。広々した四つ辻に建っています。
木崎宿(太田市)概要
 木崎宿は日光東照宮(栃木県日光市)に京都の朝廷から例幣使が参拝する為に寛永19年(1642)に開削された日光例幣使街道の宿場町です。街道は中山道の倉賀野宿から日光街道の楡木宿までで、その間15の宿場が設けられ、例幣使の宿泊や休息に利用されました。中でも木崎宿は足尾銅山へと続く銅街道が分岐し、鉱山関係者が数多く利用した事もあり、文化元年(1804)の旅籠の数は27軒程でしたが後に63軒となり日光例幣使街道最大の宿場町となりました。又、木崎宿は多くの飯盛女を抱える旅籠が軒を連ねた宿場町として知られ、弘化2年(1845)には260人以上の飯盛女がいたそうです。現在に伝わる木崎音頭(木崎節)は越後(現在の新潟県)から飯盛女として売られた女性が伝えたとされ、そこで唄われた色地蔵は現在でも長命寺境内前にある小堂に祀られています。日光例幣使街道と足尾銅山に続く銅街道の分岐点でもあり、追分には新しい道標が建立されています。

(「木崎宿(日光例幣使街道) - 群馬県:歴史・観光・見所」HPより)

(10:09)「木崎町」交差点。交わる「県道311号線」は、江戸初期に発見された足尾の銅を利根川の前島河岸まで運び、そこから江戸に輸送するために開かれた「銅(あかがね)」街道。
 以前は、筋違い道になっていましたが、道路整備ですっきりとした十字路になっています。

         
   「北 大通寺 銅山道 南 前島 利根川」「東 太田宿 日光 西 柴宿 京都」。さすが「日光例幣使道」です。西に京都が記されています。

       
   
1880年代のようす。                2010年代のようす。 

日光例幣使道 木崎宿 
・・・
 日光例幣使道は例幣使が通行するために江戸幕府によって整備された道です。例幣使道は上州倉賀野宿(現在の群馬県高崎市)で中山道から分かれ、野州楡木宿(現在の栃木県鹿沼市)まで十五の宿場が置かれました。木崎宿はこの宿場のひとつで、飯売女を置いた旅籠屋が多くできました。
 宿場で唄われた木崎音頭(木崎節)は、越後(新潟県)から年季奉公にきた飯売女が伝えたといわれています。木崎音頭に唄われている色地蔵は、長命寺の南にあるお堂にまつられています。
 木崎宿は文芸の地としても知られ、南画の柿沼山岳や角田岱岳など多くの文人を生み出しました。

注:「飯売女」=「飯盛女(めしもりおんな)」
 近世(主に江戸時代を中心とする)日本の宿場に存在した私娼である。宿場女郎(しゅくばじょろう)ともいう。
 江戸時代、娼婦は江戸の吉原遊郭ほか、為政者が定めた遊郭の中のみで営業が許されていたが、飯盛女に限っては「宿場の奉公人」という名目で半ば黙認されていた。飯盛女はその名の通り給仕を行う現在の仲居と同じ内容の仕事に従事している者も指しており、一概に「売春婦」のみを指すわけではない。
 また「飯盛女」の名は俗称であり、1718年以降の幕府法令(触書)では「食売女(めしうりおんな)」と表記されている。
 17世紀に宿駅が設置されて以降、交通量の増大とともに旅籠屋が発達した。これらの宿は旅人のために給仕をする下女(下女中)を置いた。やがて宿場は無償の公役や商売競争の激化により、財政難に陥る。そこで客集めの目玉として、飯盛女の黙認を再三幕府に求めた。当初は公娼制度を敷き、私娼を厳格に取り締まっていた幕府だったが、公儀への差し障りを案じて飯盛女を黙認せざるを得なくなった。しかし、各宿屋における人数を制限するなどの処置を執り、際限のない拡大は未然に防いだ。1772年には千住宿、板橋宿に150人、品川宿に500人、内藤新宿に250人の制限をかけている。
 また、都市においては芝居小屋など娯楽施設に近接する料理屋などにおいても飯盛女を雇用している。料理屋は博徒など無法者の集団が出入りし、犯罪の発生もしくは犯罪に関係する情報が集中しやすい。その一方で、目明かし(岡っ引)などが料理屋に出入りし、公権力との関わりをもっていた。この料理屋には飯盛女が雇用されていたが、これは公権力への貢献のために黙認されていたと考えられる。
 飯盛女が亡くなると投げ込み寺に捨てられ無縁仏となるのが常であったが、府中宿 (甲州街道)の称名寺には珍しく飯盛女の墓がある。
(この項、「Wikipedia」参照。)
 
 下の図からみると、木崎宿には「河西本陣」と「茂木本陣」があったようですが、現在はその跡地の標示はよく分からず、そのまま宿内を東に進みます。

  ○が筋違い道。→Aが「河西本陣」、↓Bが「茂木本陣」(街道から少し南に入ったところに)。 

ここも、宿場特有の奥に細長く伸びた空き地。

お店ははるか奥、手前に駐車場。細長い土地の有効利用。

右奥に「木崎」という地名になった「貴先神社」。 

左には「長命寺」。門の左手前に「色地蔵」がありますが、パス。

(10:30)やがて「木崎宿」の石碑があるところを左折します。

 

熱い日差しの中、一本道を進みます。

 (10:33)そのうち、周囲が田畑の中を行く。遠く西から北にかけて赤城から日光の山々の姿が。


                        

足元には

「弁天沼川 高寺川防災調整池」で県道に合流。

 
            (10:48)「常楽寺」の先で、右の道に入って行きます。

県道を突っ切って先に進みます。

次第に住宅地を進むようになり、公園で一休み。さらに賑やかな通りへ(11:08)。

 左手にある大きな「フレッセイ宝泉店」で、お店には内緒、他のコンビニで買ったおにぎりを食べて、「大」休止。

(11:29)さて、水分を補給し、汗も少し引いたところで「太田宿」に向かって。
 

 この先、舗装道路の照り返しはけっこうきつい! 今回は東武の「太田駅」までにしよう、と。道にほとんど上り下りのないのが幸いです。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 東武「境町」駅~「太田」駅... | トップ | 東武「境町」駅~「太田」駅... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日光例幣使街道」カテゴリの最新記事