おやじのつぶやき

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「隅田川」。千住から岩淵水門まで。その4。豊島橋。豊島氏。天狗の鼻。

2021-03-04 20:00:34 | 隅田川

                    「豊島橋」。左手一帯が「豊島5丁目団地」。

                 

もともと現在の橋の上流300メートルほどの隅田川が大きく蛇行する「天狗の鼻」とよばれる場所に鎌倉時代から続くとされる六阿弥陀の渡し」(豊島の渡しとも)があり、六阿弥陀詣の人々で賑わったと伝わる。1925年大正14年)、この場所に最初の豊島橋が木橋として架けられた。初代の豊島橋は荒川を渡る同じく木橋の旧江北橋と結ばれていたが、老朽化によって1960年(昭和35年)に下流の現在の位置に両橋ともどもゲルバー式鋼製桁橋として改架された。なお旧江北橋はすぐに撤去されたが、旧豊島橋は1967年(昭和42年)まで存在していた。

2代目の鉄橋は1995年(平成7年)に地盤沈下と老朽化によって再度改架されることとなり、7年の工事期間を経て2001年平成13年)に現在の橋となった。(「Wikipedia」より)

(「今昔マップ」より)○に「豊島渡」とある。       現在の豊島橋(○)

上図によると、かつては「天狗の鼻」というが如く、かなり湾曲してことが分かる。現在の「隅田川」は、「荒川放水路」開削によって、少し流路変更され、カーブが緩やかになっている。北区と足立区の区界はかつての隅田川となっている(右図で破線。東、南、北側は足立区。北区が「天狗の鼻」のように突き出している。)

「豊島」という地名から、ここからは南西方向にあたる「豊島区」(池袋、巣鴨・・・。)を思い浮かべますが、北区豊島が、武蔵国豊島郡の中心部であった地で、平安時代頃より当時この地を治めていた豊島氏の発祥の地とされています。

北豊島郡はかつての武蔵国豊島郡の一部であり、「豊島」が指す範囲はより一層広かった。古代豊島郡の郡衙は現在の北区に置かれ、中世には現在の北区を発祥とし、石神井川流域を本拠地とする桓武平氏豊島氏が豊島郡を治めた。豊島という町名が豊島区ではなく北区にあったり、同じくとしまえん(豊島氏の城の一つ練馬城の跡地)が練馬区にあったりするのはそのためである。なお、豊島氏は1477年に江古田・沼袋原の戦い太田道灌に敗れて滅亡した。(「Wikipedia」参照)

右手は「首都高」。

                


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