年が明け、さっそく「中山道」の旅を再開。
1月5日(火)。穏やかな日差し。歩いていると汗ばむような陽気でした。今回は、北本駅で下車して、江戸から数えて7番目の宿場「鴻巣宿」を経て、荒川土手をたどりながら、熊谷宿まで。いよいよ都会の喧噪から離れての旅に期待して、・・・。
「馬室原一里塚」が築かれた頃の「(江戸初期の)中山道」はすでに消滅し、「中山道」はJR高崎線の東側に移っています。「北本」駅を下車して少し東に進み、「(現在残されている)中山道」に復帰です。「浅間神社」を過ぎると、「鴻巣宿」もまもなく。両側に人形店が並ぶ街並みに入っていきます。
「広田屋」さん。ちょっと店内へ。
お店の方に許可をもらって、写真を。ゆったりとしたスペースの店内には、ひな人形がズラリ。15万、20万円(それ以上の)というひな人形に「売約済み」の印がいくつも。
「鴻巣」は江戸時代から受け継がれているひな人形のふるさと。関東三大ひな市(鴻巣、岩槻、江戸日本橋十軒店)の一つに数えられ、特に着物に着付けでは関東一と評判だった、とか。江戸から明治の「鴻巣雛」には鳳凰の刺繍が施され、女雛の手を出さないものが多いようです。着物の生地は京都西陣から買い付けいていました。
明治になると「県内では越谷6軒、大沢3軒、岩槻3軒、に比べて、鴻巣の人形業者31軒、職人300人」という記録があるほどの活況ぶりでした。
お店の脇に「長壽橋」という朱塗りの太鼓橋。渡ると寿命が延びるとか。写真と反対側から上らないと御利益がないとの注意書きが。こけたらみっともないので遠慮しました。
向かい側にも老舗の「雛屋」さん。
「人形町」。
江戸時代は上谷新田村と呼ばれた鴻巣宿の加宿で、旗本「藤堂家」の知行地でした。村民の多くは、農閑期に雛人形「鴻巣雛」を製作して、各地に売ることを生業とし、その後、幟・兜・菖蒲刀・破魔弓・羽子板・盆華などの製造も盛んに行われるようになり、伝統ある地場産業である「雛人形の町」として「人形町」と名付けられました。 鴻巣市観光協会
鴻巣市産業観光館「ひなの里」。
1898(明治31)年建築の蔵。かつて人形店の蔵でした。
資料館には雛人形とその歴史。
「鴻巣の古今雛」。西陣の生地による鳳凰の刺繍。
初期の頃の「鴻巣雛」。
江戸時代につくられましたが、明治以降にはつくられなくなり、現存数が少なく貴重なもの。足が付いた台と人形の前に置かれた厚紙の前立が特徴。
かつての街並みや古い写真なども掲示されています。
トイレの表示もお内裏様とおひな様。
さすが「ひなの里」。じっくり見学してきました。
「物産展」のコーナーもあって、そこに「川幅うどん」という乾麺がありました。何でも、このあたりの荒川の川幅が日本一の川幅だそうで(約2.530㍍)、それにあやかってのうどん、のようです。
そういえば、道筋のうどん屋にも「川幅うどん」の表示が。さっそく買ってきました。後日、我が家で食しました。何しろ10㌢以上の幅があります。ご当地B級グルメといっては失礼ですが、独特の食感を楽しめました。
そこで、鴻巣市ならではのイベントを紹介。
(HPより)
先に進むと、「鴻巣宿入口」。 江戸より7番目の宿場。
「鴻巣宿」は、慶長7年(1602)6月に本宿(現北本市)から移動して成立しました。天保14年には人口2274人、戸数566軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠58軒でした。
「鴻巣宿」は、中山道の他にも、松山(現・東松山市)に至る吉見道、箕田追分を経て忍藩の居城・忍城(在・行田市)に至る忍道、さらに私市(現・加須市)に向かう道との間で宿継ぎが行われ、中山道の宿場町の中では比較的大きなものだったようです。
その先、左手奥には「勝願寺」。
鷹狩りの際に「勝願寺」を訪れた徳川家康によって、三ツ葉葵紋の使用を許可された。
戦国期から江戸初期にかけてのお墓があります。
なかでも、関東郡代伊奈氏は、利根川東遷(当時、栗橋付近から江戸湾に流れていた利根川の流れを東に移し、台地を切り通し、多くの湖沼を結びつけて銚子に流す河川改修事業)の功績を挙げた一族。
天正18年(1590)に江戸に入った徳川家康は、関東郡代に伊奈備前守忠次を任命、利根川東遷事業を行わせました。事業は文禄3年(1594)から60年の歳月をかけて、忠次から忠政、忠治と受け継がれ、承応3年(1654)に完了。これによって、わが国最大の流域面積を誇る河川が誕生し、現在のように千葉県銚子市で太平洋に注ぐようになりました。
注:江戸湾(東京湾)に注いでいた「利根川」は、これ以降、「古利根川」となり、下流では「中川」という名称になりました。
石橋町
本宿(幕府直轄領で中心市街地)の中山道両側には水路が掘られ、それは宿内数か所で連結され、橋が架けられていました。橋は元禄16(1703)年に木橋から石橋に架け替えられました。騎西道が分岐する丁字路に面した横田家前の石橋は「三九郎前石橋」と呼ばれ、この付近一帯を「石橋」と呼んでいたことが町名の由来です。
この路地の奥に鷹狩り用の別荘「鴻巣御殿」がありました。
鴻巣御殿跡
鴻巣御殿は文禄2(1593)年、徳川家康によって鷹狩や領内視察などの宿泊や休憩所として建てられ、その敷地は1町4反歩(約1.4ヘクタール)に及んだ。その後、秀忠、家光の三代にわたって将軍家の鷹狩の際の休泊所として利用されたが、寛永7(1630)年頃を最後として、以後使用されなくなった。
明暦3(1657)年の江戸大火後は、その一部を解体して江戸城に運ばれ、天和2(1691)頃には残りの建物も腐朽して倒壊し、元禄4(1691)年には御殿地に東照宮を祀り除地とした。その東照宮も明治30年代に鴻神社に合祀され、旧御殿地はその後民有地となった。
最近まで鴻巣御殿の比定地も明らかでなかったが、平成6年の試掘調査によってその一部が確認された。鴻巣御殿は『江戸図屏風』(国立民俗博物館蔵)に描かれ、その様子をすることができる。
平成7年8月 鴻巣市教育委員会
民家脇の路地の奥のところに小さな社があります。
御成町
本宿の仲市場の高札場辺りから馬室村へ向かう脇道があり、明治時代にその両側に家並みが形成され、「馬室横町」と呼ばれていました。後に徳川三代(家康・秀忠・家光)の宿泊所である鴻巣御殿が、江戸時代初期に当地に存在し、将軍がお成りになったという故事に基づいて「御成町」と名付けられました。
「三木屋」付近に「高札場」がありました。
本町
本宿のうち、古くは「仲市場」と呼ばれていた地域で、「仲街」とも表記されました。鴻巣市の行政の中心地であり、本陣・脇本陣・問屋場・番屋・高札場が置かれました。また、下市場とともに商業が盛んな所で、ことに3月の雛市は関東三大雛市(鴻巣・越谷・江戸尾張町)の一つと称せられました。
「鴻巣本陣跡」碑。
その向かい側にあるおうち。
鴻巣駅に向かう角にある絵入りの解説板。詳しく解説があります。それにしても終着の京まではまだまだはるか彼方。
「鴻巣御殿」俯瞰図。
1月5日(火)。穏やかな日差し。歩いていると汗ばむような陽気でした。今回は、北本駅で下車して、江戸から数えて7番目の宿場「鴻巣宿」を経て、荒川土手をたどりながら、熊谷宿まで。いよいよ都会の喧噪から離れての旅に期待して、・・・。
「馬室原一里塚」が築かれた頃の「(江戸初期の)中山道」はすでに消滅し、「中山道」はJR高崎線の東側に移っています。「北本」駅を下車して少し東に進み、「(現在残されている)中山道」に復帰です。「浅間神社」を過ぎると、「鴻巣宿」もまもなく。両側に人形店が並ぶ街並みに入っていきます。
「広田屋」さん。ちょっと店内へ。
お店の方に許可をもらって、写真を。ゆったりとしたスペースの店内には、ひな人形がズラリ。15万、20万円(それ以上の)というひな人形に「売約済み」の印がいくつも。
「鴻巣」は江戸時代から受け継がれているひな人形のふるさと。関東三大ひな市(鴻巣、岩槻、江戸日本橋十軒店)の一つに数えられ、特に着物に着付けでは関東一と評判だった、とか。江戸から明治の「鴻巣雛」には鳳凰の刺繍が施され、女雛の手を出さないものが多いようです。着物の生地は京都西陣から買い付けいていました。
明治になると「県内では越谷6軒、大沢3軒、岩槻3軒、に比べて、鴻巣の人形業者31軒、職人300人」という記録があるほどの活況ぶりでした。
お店の脇に「長壽橋」という朱塗りの太鼓橋。渡ると寿命が延びるとか。写真と反対側から上らないと御利益がないとの注意書きが。こけたらみっともないので遠慮しました。
向かい側にも老舗の「雛屋」さん。
「人形町」。
江戸時代は上谷新田村と呼ばれた鴻巣宿の加宿で、旗本「藤堂家」の知行地でした。村民の多くは、農閑期に雛人形「鴻巣雛」を製作して、各地に売ることを生業とし、その後、幟・兜・菖蒲刀・破魔弓・羽子板・盆華などの製造も盛んに行われるようになり、伝統ある地場産業である「雛人形の町」として「人形町」と名付けられました。 鴻巣市観光協会
鴻巣市産業観光館「ひなの里」。
1898(明治31)年建築の蔵。かつて人形店の蔵でした。
資料館には雛人形とその歴史。
「鴻巣の古今雛」。西陣の生地による鳳凰の刺繍。
初期の頃の「鴻巣雛」。
江戸時代につくられましたが、明治以降にはつくられなくなり、現存数が少なく貴重なもの。足が付いた台と人形の前に置かれた厚紙の前立が特徴。
かつての街並みや古い写真なども掲示されています。
トイレの表示もお内裏様とおひな様。
さすが「ひなの里」。じっくり見学してきました。
「物産展」のコーナーもあって、そこに「川幅うどん」という乾麺がありました。何でも、このあたりの荒川の川幅が日本一の川幅だそうで(約2.530㍍)、それにあやかってのうどん、のようです。
そういえば、道筋のうどん屋にも「川幅うどん」の表示が。さっそく買ってきました。後日、我が家で食しました。何しろ10㌢以上の幅があります。ご当地B級グルメといっては失礼ですが、独特の食感を楽しめました。
そこで、鴻巣市ならではのイベントを紹介。
(HPより)
先に進むと、「鴻巣宿入口」。 江戸より7番目の宿場。
「鴻巣宿」は、慶長7年(1602)6月に本宿(現北本市)から移動して成立しました。天保14年には人口2274人、戸数566軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠58軒でした。
「鴻巣宿」は、中山道の他にも、松山(現・東松山市)に至る吉見道、箕田追分を経て忍藩の居城・忍城(在・行田市)に至る忍道、さらに私市(現・加須市)に向かう道との間で宿継ぎが行われ、中山道の宿場町の中では比較的大きなものだったようです。
その先、左手奥には「勝願寺」。
鷹狩りの際に「勝願寺」を訪れた徳川家康によって、三ツ葉葵紋の使用を許可された。
戦国期から江戸初期にかけてのお墓があります。
なかでも、関東郡代伊奈氏は、利根川東遷(当時、栗橋付近から江戸湾に流れていた利根川の流れを東に移し、台地を切り通し、多くの湖沼を結びつけて銚子に流す河川改修事業)の功績を挙げた一族。
天正18年(1590)に江戸に入った徳川家康は、関東郡代に伊奈備前守忠次を任命、利根川東遷事業を行わせました。事業は文禄3年(1594)から60年の歳月をかけて、忠次から忠政、忠治と受け継がれ、承応3年(1654)に完了。これによって、わが国最大の流域面積を誇る河川が誕生し、現在のように千葉県銚子市で太平洋に注ぐようになりました。
注:江戸湾(東京湾)に注いでいた「利根川」は、これ以降、「古利根川」となり、下流では「中川」という名称になりました。
石橋町
本宿(幕府直轄領で中心市街地)の中山道両側には水路が掘られ、それは宿内数か所で連結され、橋が架けられていました。橋は元禄16(1703)年に木橋から石橋に架け替えられました。騎西道が分岐する丁字路に面した横田家前の石橋は「三九郎前石橋」と呼ばれ、この付近一帯を「石橋」と呼んでいたことが町名の由来です。
この路地の奥に鷹狩り用の別荘「鴻巣御殿」がありました。
鴻巣御殿跡
鴻巣御殿は文禄2(1593)年、徳川家康によって鷹狩や領内視察などの宿泊や休憩所として建てられ、その敷地は1町4反歩(約1.4ヘクタール)に及んだ。その後、秀忠、家光の三代にわたって将軍家の鷹狩の際の休泊所として利用されたが、寛永7(1630)年頃を最後として、以後使用されなくなった。
明暦3(1657)年の江戸大火後は、その一部を解体して江戸城に運ばれ、天和2(1691)頃には残りの建物も腐朽して倒壊し、元禄4(1691)年には御殿地に東照宮を祀り除地とした。その東照宮も明治30年代に鴻神社に合祀され、旧御殿地はその後民有地となった。
最近まで鴻巣御殿の比定地も明らかでなかったが、平成6年の試掘調査によってその一部が確認された。鴻巣御殿は『江戸図屏風』(国立民俗博物館蔵)に描かれ、その様子をすることができる。
平成7年8月 鴻巣市教育委員会
民家脇の路地の奥のところに小さな社があります。
御成町
本宿の仲市場の高札場辺りから馬室村へ向かう脇道があり、明治時代にその両側に家並みが形成され、「馬室横町」と呼ばれていました。後に徳川三代(家康・秀忠・家光)の宿泊所である鴻巣御殿が、江戸時代初期に当地に存在し、将軍がお成りになったという故事に基づいて「御成町」と名付けられました。
「三木屋」付近に「高札場」がありました。
本町
本宿のうち、古くは「仲市場」と呼ばれていた地域で、「仲街」とも表記されました。鴻巣市の行政の中心地であり、本陣・脇本陣・問屋場・番屋・高札場が置かれました。また、下市場とともに商業が盛んな所で、ことに3月の雛市は関東三大雛市(鴻巣・越谷・江戸尾張町)の一つと称せられました。
「鴻巣本陣跡」碑。
その向かい側にあるおうち。
鴻巣駅に向かう角にある絵入りの解説板。詳しく解説があります。それにしても終着の京まではまだまだはるか彼方。
「鴻巣御殿」俯瞰図。
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