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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その4。往還(旧道)に復帰。「槙のつらなり」。「花嫁街道・黒滝ハイキングコース」・花嫁街道の由来。「うな陣」。和一号踏切。(「房総東往還」を歩く。第10日。)

2024-02-11 21:15:35 | 房総東往還

往還(旧道)に戻ります。

                      右手奥に満開の桜の森。

水準点。※ 全ての水準測量の基準となる「日本水準原点」は、東京都千代田区永田町の国会前庭洋式庭園内に設置されており、東京湾平均海面上24.3900mを原点数値として測量法施行令第2条第2項において定められている。

すばらしい槙の生垣が続く。

「花嫁街道・黒滝ハイキングコース」案内板。

《花嫁街道の由来》

山間にある上三原の集落と海辺の集落との交流道、古くは塩汲みの道から生活物資の往来、学校への通学路として利用され、かつては花嫁行列もここを通って嫁いでいったことから、近年ハイキングコースとして整備され花嫁街道と呼ばれるようになった。
昔とは多少道筋は変わってはいるが、歴史は古く、今でも経文石、じがい水、猿渡り、馬井戸、駒返し、桟敷塚(馬駆け場)等の地名が残されている。
上三原集落も歴史は古く、頼朝伝説に出てくる名馬「スルスミ」を産出したといわれる磑(スルス)森集落、里見伝説の残る五十蔵集落、竹の中集落の竹は浜の漁業の必需品である満漁籠。魚樽の材料として売るために植栽され生活の糧となった。現在も竹林は多く地名となっている。

(「」より)

コース中にある「黒滝」。

ハイキングコース。右手の奥の方に。

「長者川」を越えると、

右手に大きなお屋敷。                  

左手には、モダンアート??

                   駐車場案内版。

「うな陣」というお店でした。

【古民家でいただく絶品料理◎】店内は昔ながらの木造の古民家で、広々とした店内でゆったりとした時間をお過ごしいただけます◎厳選した素材を生かした絶品料理をご堪能ください♪ (「」より)

???

「←花嫁街道・和田浦駅→」。

「花嫁街道」?  

住宅地を進みます。

軽トラの上で日向ぼっこをしているネコ。

手入れの行き届いた槙の生垣。

房総往還歩きの時、館山近くですばらしい「槙のつらなり」を見ましたが、ここもすばらしく見事です。

この先で内房線の踏切を渡ります。

左手遠くには南房総の海。

内房線「和一号踏切」。

「和」は、次の駅「和田浦駅」に関連しているようです。

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JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その3。菜の花・寒桜。「抱湖園」・元朝桜・メジロ。第二花園踏切。(「房総東往還」を歩く。第10日。)

2024-02-10 19:48:12 | 房総東往還

満開の桜が間近に。

このブログを掲載したときには、早くも東京などでも「河津ザクラ」などが咲き始めた、というニュースがありましたが、このときに、今年初めて満開の桜を見ました。※東京地方も、その後、寒気が入りこみ、雪模様に。

坂道を上がっていきます。と、満開の桜並木。

散策にやってくる人も。         

  

遠く、南房総の海が見下ろせます。

ここは、抱湖園

全国的に有名な花の産地である南房総市和田町にある「抱湖園」は、当地に花栽培をもたらした偉人、間宮七郎平が開いた庭園です。元々薬剤師であった間宮七郎平は、花づくりによって半農半漁で生計を立てる民を救いたいという想いから、花栽培に取り組みました。安房で初めて花栽培に成功し、自らくわを持って山を切り開いて花木を植栽。この際に植えられた寒桜は、旧暦の元日朝に咲くことから「元朝桜」と名付けられました。毎年1月下旬〜3月末頃になると、約60本の元朝桜と菜の花が見事に咲き誇ります。

訪れた人は、ピンクと黄色の花々が一面を覆う極彩色の景色に酔いしれます。

(この項、「ちば観光ナビ」HPより)

和田町は、全国的にも有名な花の産地です。それは昔、間宮七郎平という薬剤師が和田町に住んでいて安房で初めて花作りに成功しました。七郎平は花作りによって半農半漁の和田の人々の生活が救われることを何よりも願っていました。
花作りで成功した七郎平は、次に山を切り開き、花木を植えることを考えつき自らくわをもち花園の裏山の堰の周りを開墾し、「抱湖園」と名づけ花木を植えました。間宮七郎平が植えた桜で(旧暦の)元日の朝に咲くことから元朝桜と呼ばれるようになりました。

桜とメジロ。

(この項、「」HPより)

※旧暦の元旦。今年は、2月10日(土)。

       

子供連れの家族。「いつもは、2月になってから咲き始めるのですが。」

※この日は、1月27日(土)でした。

菜の花畑。

蘇鉄。

その奥に梅、桃。

しばらく散策し、引き返します。※左の山(展望台)へ上がる道もありましたが、パス!

「第二花園踏切。」。

「花園」という地名が素敵ですね。鴨川駅からのバスに、「花園」行きという便がありますが、ここを指しているのか?

  

江見駅方向。                和田浦駅方向。

可愛らしいこけし。スイセンの花が彩りを添える。

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JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その2。鴨川市から南房総市へ。菜の花・桜が満開。(「房総東往還」を歩く。第10日。)

2024-02-09 19:38:59 | 房総東往還

眼下に南房総の海が。

鴨川市から南房総市に入ります。

「またどうぞ鴨川へ」。

南房総市

南房総市は、千葉県の南部に位置する自治体である。 関東地方および千葉県最南端。南房総観光圏の観光都市。市域は森林セラピー基地、海岸部は南房総国定公園に指定されている。

本地域が位置する安房地域は718年養老2年)に上総国から分かれ、明治初期まで安房国と呼ばれていた。国府は旧三芳村に置かれ、条里制の遺構も見られる。かつては多数の荘園があり、これらは中世末まで統治者の交代を繰り返した。

戦国時代に入り、15世紀中頃に里見氏が安房統一を果たし、戦国末期に館山城を築城し、安房国統治の拠点とした。江戸時代初期、里見氏は江戸幕府により1614年慶長19年)に改易され、以降この地は旗本領、天領、小大名の領地として分割統治された。

近代に入り、1878年明治11年)の郡区町編制法施行により郡制を施行し、1897年(明治30年)に「交通の便が相互にあり且つ民族風俗に大差がない」という理由から、安房郡、平郡、朝夷郡、長狭郡の4郡を合併して、昭和期の安房郡の前身となる「安房郡」が形成された。

2006年平成18年)3月20日に安房郡富浦町富山町三芳村白浜町千倉町丸山町和田町が合併し、南房総市が発足した

温暖な気候を生かしたアイリスキンセンカなどの花卉栽培や房州ビワの産地として知られ、生産量は日本一である。

日本酪農発祥の地である峯岡牧を始めとした酪農や、アワビテングサなどの漁業も著名である。全国モデル道の駅である道の駅とみうらを始め、日本最多の道の駅数である

市役所は当面、旧富浦町役場を使用するが、富浦地区は南房総市の地理や経済の中心地とはいえない。人口が最も多いのは千倉地区で、合併前まで警察署が置かれるなど外房側地区の中心地であるが、内房側の各地区や三芳地区から見た場合に中心地とはいえない。よって南房総市は、特に商業、医療などで館山市へ大きく依存し、合併前から当市全域が館山都市圏に属する。和田地区は鴨川市との結びつきも強い。

(この項、「Wikipedia」より)

南房総市のいま

  • 人口34,759人
  • 世帯16,947世帯
  • 男性16,685人
  • 女性18,074人

[2024年2月1日現在]

                   (「」HPより)

                            (「千葉県」HPより)

                          (「国土交通省」HPより)

菜の花が満開。

                 

すれ違った散歩中の地元の方から「桜が咲いて見事ですよ、ほら、あそこの高台。行ってみて下さい。この先を右に曲がって踏切を越えると、すぐですから。」と。

さっそく寄り道をします。

道の脇には桜が満開。「寒桜」。

        「黒滝―花嫁街道 ←ハイクコース→」。

踏切の手前にも桜並木。

                           左奥の丘には満開の桜。

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JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その1。特急「新宿わかしお」・「新宿さざなみ」。「南房総江見」。内房線の鉄橋。片草鞋・「綱吊り」=「道切り」。(「房総東往還」を歩く。第10日。)

2024-02-08 18:25:32 | 房総東往還

1月27日(土)晴れ。いよいよ「房総東往還(伊南房州通往還)」最終日となりました。

途中、旧道を歩くだけではなく、タクシーを利用したり、バスに乗ったり、省略したところもあったりして、・・・。

それでも、11月初めから1月末まで、何とか冬の間に終えそうです。

《往路》船橋~安房鴨川(「新宿わかしお」7:25―9:36)

※その名の通り新宿駅始発。秋葉原や錦糸町を通り、船橋にも停まります。

(「安房鴨川駅」にて)

            

~江見~南三原―(バス)―館山 

※9時50分に着いた「江見駅」から「南三原駅」までは歩き。

《復路》館山~船橋(「新宿さざなみ」16:02―17:39)※この列車も新宿駅が終着駅。

(「館山駅」にて)

※今回も「大人の休日倶楽部」利用で、乗車券・特急自由席を合わせ、3割引き。

4月からは、房総半島を行き来する特急列車の自由席がなくなり、指定席のみとなるようです。その前に、というわけ。

さて、

「江見駅・江見郵便局」に下車。郵便局は閉まっています。

     「南房総江見」。

旧道に復帰します。

海方向。遠くに水平線が。

左に折れます。

洲貝川。

         内房線の鉄橋。

河口(海)方向。

しばらく進み、「国道128号」に合流します。

バス停「野田」。

「HOTEL MAKAI」。

                    ハワイアンリゾートホテル。

                   (「同」HPより)

「一期屋」。

              閉店したようです。

国道から右の旧道に入ります。

ふと左の柱に※「綱吊り」=「道切り」の一種、片草鞋が吊るされています。

地元の方にお聞きしたら、「最近は、新型コロナとかインフルとかがはやっているので、その侵入を防ぐために吊るしてある。昔からの慣習です。でも、最近は、草鞋を編む人もいなくなって・・・」と。

「道切り」の現物を初めてみました。この先の道中では、気づきませんでした。

その集落内を進みます。 

この付近の今昔。

                 現在の国道128号線は海岸沿いを通っている。(「今昔マップ」より)

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JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その9。フェニックス。内房線「江見駅」・「江見駅郵便局」。郵便列車「クモユニ74012」。(「房総東往還」を歩く。第9日。)

2024-02-01 20:24:32 | 房総東往還

右折すると、「江見駅」。その角にあるおうち。

南国風の大木。フェニックス(Phenix)カナリーヤシ :

古代エジプトの想像上の鳥で、不死鳥と訳される。フェニックスはアラビアまたはフェニキアに住み、史実タキトゥスによれば、500年毎に太陽の都ヘリエポリスを訪れ、生命の終わりが近づくと香木を山と重ねて火をつけ、自らを焼き、たえなる歌声とともに死に至るといわれている。そしてその灰の中から蘇るのが次代のフェニックスであり、同時に二羽のフェニックスはこの世に存在しない。

ギリシア語のフォイーニックスは、フェニキア、紫、ナツメヤシの三つの意味を持つ。そこで、生地はフェニキア、王者の色としての紫の色を身にまとうといい、勝者のシンボルとしてのナツメヤシと同一視される。

「江見駅」・「江見駅郵便局」。

  • 2019年令和元年)7月1日:鴨川市への乗車券類販売委託(簡易委託)を解除し、終日無人化
  • 2020年(令和2年)8月31日郵便局と一体化した駅舎に建て替えると共に、江見駅郵便局(日本郵便)に乗車券の販売や列車の案内業務等を委託
  • 2021年(令和3年)4月27日:農産物集荷場「JRE農業ステーション江見駅」を開設

日本郵便が駅業務を受託している安房鴨川駅管理の業務委託駅。平日の郵便局営業時間内は当駅舎内にある江見駅郵便局が駅業務の取扱を行なっている自動券売機は設置されておらず、ICカードチャージ機、簡易Suica改札機、乗車駅証明証発行機が設置されている。また駅舎(局舎)内にはゆうちょ銀行ATM水洗式トイレ(男女別)が設置されている。

  • 2018年(平成30年)6月12日:「日本郵便とJR東日本の地域・社会の活性化に関する協定」に基づき、当局業務と江見駅窓口業務の一体的な運営を開始すると発表。郵便局が駅業務を請け負うのは当局が全国初の事例である
  • 2020年令和2年)8月31日:江見郵便局が当駅舎内に移転し、江見駅郵便局へ改称

駅内(局内)。

左にある棚・窓口が江見駅。

郵便ポスト。  

かつてあった郵便列車「クモユニ74012」をモデルにした、とのこと。

クモユニ74形 

1962年(昭和37年)に登場した日本国有鉄道(国鉄)の郵便荷物合造電車である。

1950年(昭和25年)の東海道本線東京口の客車列車電車化により湘南電車80系が投入されるのに合わせて、80系と連結する鋼製郵便・荷物電車としてモユニ81形(1959年の称号改正後はクモユニ81形)が登場していた。1962年には同線区の新性能化により近郊形電車111系が投入されることになったが、クモユニ81形では111系との併結が不可能なため、111系と併結可能な新たな郵便荷物電車が必要となった

当初は111系をベースとした新性能郵便・荷物電車(クモユニ111形)を新製する案、また当時101系の投入で余剰となっていた72系の車体に乗務員室や側引戸を新設する案が検討された。しかし前者は1M方式の主制御器などを開発する必要があったこと、後者は種車の台枠の老朽化が著しく亀裂などの兆候も見られたことから、最終的には72系の台枠を補強して全金属製車体を新製することになった。このような経緯から登場したのが本形式である

クモユニ74形は他線区の郵便・荷物輸送の電車化にも投入され、線区による併結車種の違いから東海道本線東京口用の0番台、名古屋地区用の100番台、東北・高崎線用の200番台に区分された

(この項、「Wikipedia」より)

歴史

起源については、明治時代鉄道開業初期にまでさかのぼるといわれており、正式な開始は1872年(明治5年)6月13日となっている。当初は単に郵便物を運ぶための手段であったが、1892年(明治25年)には、専用の車両が作られ、車内で郵便物の仕分けなどを行うようになる。以来、全国に郵便車が走り、東京駅上野駅大阪駅など主要な鉄道駅では郵袋(行き先別に仕分けした郵便物を収納した麻袋で、「票札」というあて先郵便局のタグがついていた)、小包の積み下ろし作業が行われ、各地に郵便物を運んでいた。郵便車は各鉄道郵便局の職員が乗り込んで、郵便局としての機能の一部を持ち、車体側面に設けられた投函口[注 2]と駅のポストに投函した郵便物では、あて先方面に向かう郵便車内で消印が押されることが多かった。この消印を「鉄郵印」と呼ぶ。

専用の郵便車は、戦前は逓信省、戦後は郵政省が所有していたが、荷物車あるいは座席車またはその両者との合造車も多く存在し、合造車の場合は国鉄など鉄道事業者が所有していた。車種としては客車が多かったが、クモユ141形電車など電車気動車にも存在した。郵政省の予算で製造するため国鉄の車両より設備がよく、特に車両冷房については同時代の旅客車両よりもいち早く取り付けられたものが多かった[4]。これは、車内で作業する職員の発汗による郵便物の汚損を防止するという目的があり、その構造上窓が少なく郵便物が飛ばされてしまう可能性があるため開閉式の窓も取り付けられず、前述の発汗によって水性インクで書かれた宛先が滲んでしまい判読不能(=配達不能)が相次いだことから冷房装置の取り付けが必須であったという背景もある。

鉄道郵便には主に3つの種別があり、職員が郵便車内で郵便物を区分けし集配最寄駅で郵袋、小包を積み下ろしする取扱便、職員は乗務するが区分け作業を行わず集配最寄駅で郵袋、小包を積み下ろしするだけの護送便、職員が乗務せず施錠したまま郵袋、小包を運ぶ締切便に分けられていた。

鉄道郵便車を使った輸送は、戦後の1970年代まで国内の郵便輸送の主役で、幹線や亜幹線に郵便車を連結した列車が多数運行されており、郵便局の立地も鉄道輸送に対応していた。例えば東海道本線では神戸方(下り)の先頭に郵便車が連結されたため東京・名古屋・京都・大阪の各中央郵便局はそれぞれの駅前の神戸方に立地しており、郵便車での受け渡しが便利なようになっている。

郵便番号体系も鉄道輸送を前提とした設計がなされ、今も一部にその名残がある。事例としては、田原本局奈良県磯城郡田原本町)が王寺局(同北葛城郡王寺町)より分岐した枝番になっている、愛知県北設楽郡豊根村富山(旧富山村)は静岡県浜松市天竜区の水窪郵便局の枝番で現在でもJR飯田線を経由し集配を行なっている、小牛田局宮城県遠田郡美里町)から古川局(同大崎市)へ分岐していた、などがある。

1971年昭和46年)をピークに飛行機高速道路網の発達でシェアを落とし、1984年(昭和59年)1月末を以て取扱便の休止、1986年(昭和61年)9月限りで残されていた護送便・締切便も休止となり、郵政省が所有していた鉄道郵便車は廃車された。これにより郵便車を使用した鉄道郵便輸送は全廃となり、コンテナ締切便(当時は全国で14便)が残るのみとなった[5]。郵便輸送全廃に伴い廃車となった郵便車のなかには、郵政省所有だったため転用が利かず、クモユ143形や一部のスユ15形の様に製造から4年しか使われなかったものもある。郵政省としても自省の国有財産を鉄道車両だからといって無償・格安で国鉄に譲渡するわけにはいかず、国鉄も翌年に分割民営化を控えており、特定地方交通線や荷物輸送の廃止などで車両が大量に余剰となっていた時期である。また、転用に際しては扉や窓の増設、座席や冷暖房装置の取り付けなど多額の改造費がかかるため、国鉄も引き取るメリットが存在しなかった[注 3]

なお、その後の事情の変化(瀬戸大橋青函トンネルの開通など)により、2009年平成21年)現在では日本貨物鉄道(JR貨物)のコンテナ貨物列車によって、航空禁制品[6]ならびに特に速達性の要求されない郵便物が鉄道輸送されている[7]。また、宅配便業者の一部は貨物鉄道を使用しており、佐川急便日本貨物鉄道(JR貨物)によるスーパーレールカーゴのようなチャーター便も存在している。

2006年(平成18年)、新越谷郵便局(旧:郵便事業新越谷支店)が鉄道コンテナ輸送の利便性を考慮して越谷貨物ターミナル駅の至近に開局し、その立地を生かして2007年(平成19年)以降は冊子小包等の大量差出の引受を担当している。

内房線、外房線各駅で見かけるポスター。

こ線橋から。右に駅舎・局舎。

駅の西側には山並みが。

        

  内房線下り線ホームにて。

駅と郵便局が一体化している、JRとして全国初(唯一)の「江見駅郵便局」を訪れたのは、ラッキーでした。

ただ、郵便局の受付には10人ほど来ていましたが、駅の乗客は小生1名でした。

次回は、「江見駅」から「南三原(みなみはら)駅」まで歩き、そこから館山まではバスで移動しようと、・・・。

そうすれば、「伊南房州通往還(房総東往還)」を終了、船橋~館山の「房総往還」と結びつくことになります。

             

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JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その8。曲がりくねった旧道。水準点(15.5)。江見海岸。(「房総東往還」を歩く。第9日。)

2024-01-31 20:27:32 | 房総東往還

この付近から「伊南房州通往還」(旧道)のようです。

       

この先で国道128号を横断します。

「助八そば鴨川店」。

海から離れた道を進みます。                                 左奥に水平線。

静かでのどかな田園風景。

右手に山が迫る。

この地域は、純農村地域? 

  新興住宅地の雰囲気も。

振り返る。

この道が、かつては主要道であったことがわかります。

                              水準点(15.5)。

旧家の趣のおうち。

集落に入っていきます。

木造の素敵なおうち。

「←180m江見海岸」。

             海岸方向。

この付近の今昔。

                             (現在)

   国道128号線(赤線)が東西に直線で延びる。

                             (1880年代)

      地図の東側に作成上のずれがある。江見地区には住居が集まる。海岸は、岩場続き。

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JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その7。内房線・山生(やもうめ)橋梁。貝の化石の跡。道の駅 鴨川オーシャンパーク。名馬橋。源頼朝と鴨川。(「房総東往還」を歩く。第9日。)

2024-01-30 20:44:20 | 房総東往還

この先、内房線と国道128号を陸橋で越えていきます。

スイセン。

            

内房線。「太海駅」方向。

振り返る。

左奥に内房線「山生(やもうめ)橋梁」。

途中、露出した岩に、貝の化石の跡があります。※剥がれた部分に貝。

この先、旧道は右に折れて進みますが、右折せずにそのまま歩いてしまいました。

この付近の今昔。

                             (1880年代)太線が「伊南房州通往還」。直角に曲がる道筋。

                             (現在)赤い線が国道128号。現在の旧道は複雑に進む。

※「江見太夫崎」は町村合併で付けられたもので、もともとは、「太夫﨑(村)」であった。                           

そして、

「道の駅 鴨川オーシャンパーク」脇へ。

     旧道は、この施設の向こう側、海側を進んでいきます。

旧道方向。

ユニークな建物。

鴨川オーシャンパークは、南房総の観光の主要幹線となる国道128号線沿いにあり、鴨川のとれたての海の幸、山の幸を販売する物産館や、昔の磯を再現した千年磯、青空市場、休憩所などがあります。鴨川オーシャンパークは、文字通り豊かな自然や温暖な気候に育まれた鴨川の魅力である「海」と「花」を基本テーマにしています。
 ここは、訪れる人々に憩いとやすらぎのひとときをつくる観光拠点づくりを目指すとともに、地場産業や文化、芸術分野との連携を図ることで地域の総合的な活性化と交流の場を目的とした海浜型リゾートパークです。

(この項、「」HPより)

そのまま「国道128号」を歩くことに。

右側の橋は? 名馬川に架かる橋。

         ※「国道128号」の旧道の一部だと思われますが。

「太夫崎漁港」。

バス停「名馬橋」。

この地名も頼朝伝説にちなみます。そこで、まとめて。

源頼朝と鴨川

  • 治承4(1180)年、伊豆で反平家の兵を挙げた源 頼朝は、相模(サガミ)の石橋山の戦いに敗れて、真名鶴岬(マナヅルミサキ)(現神奈川県真鶴)から小舟で逃れ、安房国平北(ヘイホク)郡猟島(現鋸南町(キョナンマチ)竜島)に上陸して再挙を図ったという史実は、良く知られています。
  • 猟島に上陸したのが8月29日(旧暦)のことで、それから9月13日までの14日間、安房に留まり、安房、上総の武士団を集め、13日に安房を出立して上総に向かったといいます。
  • この14日間の安房に於ける頼朝の行動に関連して、頼朝にまつわる話がいくつか市内に伝えられています。
  1. 一戦場 =頼朝が安房に上陸した4日後の9月3日のたそがれ時に、平氏に心を寄せていた当地の住人、長狭六郎常伴(ナガサロクロウツネトモ)は、頼朝を討とうと企て、宿所を襲ったが、頼朝の従者、三浦義澄(ミウラヨシズミ)らに討ち取られたといいます。この戦いがどこで行われたか明らかではありませんが、市内貝渚(カイスカ)に「一戦場(イッセンバ)」という地名があり、その場所とする伝承があります。
  2. 仁右衛門島 =石橋山の戦いに敗れた頼朝は、わずかの兵を引き連れて波太(ナブト)(現鴨川市太海浜(フトミハマ))の仁右衛門島(ニエモンジマ)に上陸しました。島主の仁右衛門は、頼朝一行を厚くもてなし、その再挙を助けました。喜んだ頼朝は、仁右衛門に「平野(ヒラノ)」の姓と島周辺の漁業権を与えたといいます。
  3. 名馬太夫黒 =頼朝が再挙を図って太夫崎(タユウザキ)(現鴨川市江見(エミ)太夫崎)まで来た時に、たまたま岩に蹄の跡(馬蹄石)を見つけました。このあたりに良い馬がいるのではないかと捜したところ、近くの洞穴で黒い毛並みの立派な馬を見つけました。そこで地名を採って、この馬に「太夫黒(タユウグロ)」と名を付け、頼朝の乗馬となりました。後に、磨墨(スルスミ)と呼ばれました。洞穴の前を流れる小川を「名馬川(メイバガワ)」といいます。
  4. 旗かけ松 =頼朝は、安房から上総に兵を進めるため、東条広場(現鴨川市広場)の松崎(マツザキ)(待崎(マッサキ))に至り、傍らの松に源氏の白旗を掲げて上総介平広常(カズサノスケタイラノヒロツネ)の到着を待ったところから、この名があるといわれています。
    この松はその後、天保(テンポウ)の旱魃(カンバツ)で枯れたので松のあった所に石碑を建てました。石碑の正面に「頼朝公旗掛松(ヨリトモコウハタカケマツ)」、裏面に「文久2年秋9月これを建てる」と刻まれています。

(この項、「」HPより)

旧道方向へ進みます。

             ※この道は旧道(「伊南房州通往還」)ではないようです。

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JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その6。綱吊り・道切り。「高波注意」。ハバノリ。房州大橋・山生橋梁(やもうめきょうりょう)。(「房総東往還」を歩く。第9日。)

2024-01-29 21:16:25 | 房総東往還

浅間宮の常夜燈。

左はツナツリ(綱吊り)で、昔はここに大きな「綱吊りの松」があり、この先の「天面(あまつら)村」への悪病・悪霊などの侵入を防いでいたという。

※「綱吊り」=「道切り」

道切り
疫病が流行らないように行うところが一般的ですが、災いを封じると豊作になるという考えから、五穀豊穣を願って道切りを行うところもあります。正月から2月にかけて多く行われます。疫病神は道を通ってやってやってくると考えられていたので、むらの出入り口にあたる道で行われました。
藁の大蛇(市川市国府台 辻切り)
わらの大蛇
(市川市国府台 辻切り)
しめ縄・手桶・サイコロ・蛸(飯岡町三川浜 辻切り)
しめ縄・手桶・サイコロ・蛸
(飯岡町三川浜 辻切り)
男女一対の武者人形(君津市大坂鴨畑 人形だんご)
男女一対の武者人形
(君津市大坂鴨畑 人形だんご)
大草履(富津市関尻 綱つり)
大草履
(富津市関尻 綱つり)
千葉県「道切り」分布図
道切りの形は、百足や蛇や龍の形をした太綱をむら境の木に掛けるタイプや、綱を道を横切るようにわたし、男女一対の人形や蛸や海老、草履など様々なものを吊り下げるタイプ、また鹿島人形やお札を立てるタイプなどがあります。

(この項、「」HPより)

左下の道路には、

「高波注意」。

海岸際を通る国道128号線。

集落に入ります。

           

掲示板「はば取り解禁日」

令和6年1月13日午前10時より 1月13日から1月18日の間に3日分を取って下さい。夜間は禁止です。

重要なお知らせ

○採取したはばは、全て組合に水揚げして下さい。横流し等を禁止します。違反した場合は1年間はばの採取を禁止します。

○全地区、夜磯でのはばの採取を禁止します。

天津地区も同様の規約となっております。ご協力をお願いします。

鴨川市漁協 江見支所

 この「はば」って何?

ハバノリ(はば海苔)

褐藻綱カヤモノリ目カヤモノリ科セイヨウハバノリ属に分類される一年生の海藻である。(「Wikipedia」より)

・・・

生態系も海苔と同じように、秋頃になると胞子を出して、晩秋に発芽し、冬から春の海水温が冷たい時期に生育します。

日本の全域の沿岸の岩場で自然に生育しており、千葉県では岩場が多い勝浦・鴨川・南房総や銚子方面などで採取されることが多いようです。岩海苔と間違えられることも多いようですが、正確には「岩コンブ」ですね。

はばのりは数日間天日干しされて乾燥し、このように販売されています。

形は少し縦長の大きい海苔のように見えますが、焼いていない状態です。

炙って揉むと少し深い緑色になってバラバラに崩れやすくなりますので鰹節を一緒に入れてお雑煮に入れて一緒に食べる。

これが千葉県東部地域、特に山武地域から市原あたり(さんぶちいき=九十九里から東金)の習わしで、年越し・年始の郷土料理として昔から親しまれています。

※静岡県の下田・熱海などの三浦半島方面でも食す文化があるようです。


出典:農林水産省Webサイト

これは自身のまたはその家の成長を祈願して、1年中「ハバ」をきかせる=幅を利かせる と、ゲンを担いだ縁起物としてありがたくいただくわけです。

ハバノリ自体はもともと、海辺の村人などが板海苔の代用品としてハバノリを刻み海苔状に薄く梳きそれを板状に乾燥させて自家用として食べていたものだそうで、とても素朴な海産物でした。現代に流通しているハバノリもそうなのですが、穴や形状は通常の黒い海苔と比べるとだいぶデコボコで穴だらけのイメージではあります。

なんと、1枚あたり1000円から2000円程度が一般流通での平均相場です。

どんなお味なの?

味、気になりますよね。

ちょっと塩っぱい薄い昆布を食べているような感じです。

と、まぁコンブの仲間を薄く梳いて作っているのだから当たり前なのですが…

私も千葉県民(市川市生まれ/市川育ち)でありますが、父も母も東京生まれ下町育ちでしたもので、鶏だしのシンプルな澄んだ色のお雑煮で育ちました。

ハバのりも食卓で食べる機会は何度もあって、当店で商品として取り扱うようになってからは特に食べるようになりました。

ちょっと炙って食べるとこれはまさに「海のおつまみ」って感じで、コンブはなかなかそのままでは硬くて食べれないので海をそのまま味わってるって気分。

うん、美味しいんです。

お雑煮だけではなくて、ご飯にかけて食べる なんて方もいらっしゃるそうで。
一度やってみましたがちょっと塩気が多かったけど美味しかったですね。

※「糸青のり」を、はばのりのかさましで入れるご家庭も多くあります。これも香りがよくて美味しいんです。

いくらくらい?どこで買ったら良いの?

海岸上は漁業権がありますので勝手に採取するわけには行かず、養殖も行われていませんので生産量も限られております(年に12月・1月の2回の入札のみと聞いています)。

また今ではハバノリを冬の間に採取する方も非常に少ないため、現地での販売も1枚で1000円前後と非常に高値で取引されております。

長年、召し上がってらっしゃるお客様は「今年の新物はないんですか?」とお問い合わせをいただくことがありますが、新物を年内のうちに入手するのは相当困難かと思います。

海苔と同じように入札制度がございまして、それが12月中頃から終わり頃に行われてそれから袋詰めされて出荷されますから、基本的には年内に一般的に出回るほとんどのハバノリは、採取地である勝浦・鴨川・南房総の海産問屋さんなどから入手されるか、直接伺ってご購入されるかしか方法はないかと思います。

当店で販売しているハバノリは基本的にその年の1月に採れた春物(春はば)になります。これはどの海産問屋さん・海苔屋さんに聞かれても同じようなご回答になるかと思います。

数も多くはなく稀少なものでございまして、毎年のことではございますが価格は不安定でございますので、予めご了承ください。

また当店では毎年10月頃より仕入れ、12月末までに売切。もしくは1月くらいまで在庫があればネットショップのみ販売をしております。

(この項、「美味しいお海苔といえば! 築地 伊藤海苔店 」HPより)

「国道128号」に合流します。

バス停「天面(あまつら)漁港」。

国道を離れ、内房線踏切へ。

「江一号踏切」。

江見駅方向。

眼下に、

       「外房黒潮ライン(国道128号)房州大橋」。

右に見える内房線「山生橋梁(やもうめきょうりょう)」は歴史的に貴重な建造物として2012年「土木学会選奨土木遺産」に認定されました。
山生橋梁は海の上にあることから鉄橋ではなく、国内初の鉄筋コンクリートT型梁形式の橋として大正13年(1924年)に建設されました。

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JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その5。「是空-ZEKUU-」。露出した地層。「璃庵」。河原地蔵堂。(「房総東往還」を歩く。第9日。)

2024-01-28 18:53:41 | 房総東往還

この先で、右からくる「国道128号」に合流します。

その先、「房総鴨川温泉 是空-ZEKUU-」。

                             おしゃれなホテル。

              

海の絶景を目の前に究極の癒し体験“海旅”を叶える
都心から東京湾アクアライン経由で車を走らせること約1時間半、千葉県鴨川の荒磯に寄り添うように造られた湯宿。この地屈指のオーシャンビューが魅力だ。完全プライベート空間の貸切露天風呂など、館内のあらゆる場所から、海の壮大なパノラマを間近で見渡せる。もちろん、すべての部屋からもこの唯一無二の景色を満喫。なかでも、是空棟に設えられた半露天風呂付きの客室が好評だ。“密”を避けた“おこもりステイ”にも最適。是空でしか味わうことのできない究極の“海旅”を体験したい。(「旅色」HPより)
 
振り返る。
            岸壁上に建つのは、「是空」。
 
国道から右の坂道へ。
                 
                
 
地層が露出しています。
 
海に向かって下っていきます。
 
その途中にある「璃庵」。
水天一碧 
 
             

多くの文人墨客に愛されてきた房総屈指の景勝地、鴨川・太海海岸。
紺碧の海と空が邂逅するこの海辺に鴨川温泉「璃庵」は佇んでいます。
眼前に広がる瑠璃色の情景をプライベートに愉しみながら、贅を尽くした美食と温泉のひとときをお過ごしいただけます。

(この項、「璃庵」HPより)

遠くに海が広がる。
 
              
 
穴の空いた岩が石垣の一部にはめ込まれています。鯛の浦で見つけた岩と同じ?
 
         
 
右手、西院の河原地蔵堂付近から。
 
関東では珍しい賽の河原。岸壁に建てられた堂内には無数のお地蔵様が祀られている。
 
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JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その4。仁右衛門島。カマスの干物。奇岩・龍宮様。太海フラワー磯釣りセンター。(「房総東往還」を歩く。第9日。)

2024-01-26 19:38:04 | 房総東往還

バス停「仁右衛門島入口」。

左折し、仁右衛門島へ向かいます。

漁港。

仁右衛門島(にえもんじま)

千葉県鴨川市太海の沖合約200mにある。全島砂岩よりなる周囲約4kmの島で、千葉県では最も大きな島かつ唯一の有人島である。源頼朝日蓮伝説で知られ、個人所有ではあるが千葉県指定名勝となっているほか、新日本百景にも選ばれている。

島主である平野仁右衛門の名に因み、この名前になったといわれている。夏涼しく冬暖かい風光明媚な自然の楽園。金銀針茄子(キンギンハリナス)という珍しい植物もみられる。島の南側は荒々しい海岸線がみられ、自然の防波堤の役割も果たしている。

《伝説》

代々島主は平野仁右衛門を名乗り、現在の島主が推定で38代目。治承4年(1180年)、石橋山の戦いに敗れた源頼朝安房に逃れた際、平野仁右衛門に助けられ、この島で平家軍から一時身を隠し、巻き返しを図ったと言い伝えられ、現在に至るまで平野仁右衛門一族がこの島を守り伝えている。島の東部には、石橋山の戦いに敗れた源頼朝が、夜襲を避けて潜伏したとされる洞窟や、日蓮が朝日を拝したと伝えられる神楽岩があり、正一位福女稲荷大明神が祀られている。現在の平野家家屋は、宝永元年(1704年)に建て直されたとされたもので、観光客に公開されている。

《植生》

涼しく暖かく、四季を通じて植生が豊かでが咲き乱れる。特にキンギンナスビ(金銀針茄子)という珍しい植物をはじめ、イソギクハマカンゾウなどの海浜植物、ソテツなどの暖地性植物も豊富に見られる

(この項、「Wikipedia」より)

「仁右衛門島」全景。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

                             (現在)

漁港として活気のある雰囲気。

                通りには、漁師小屋などが並んでいます。背後には住宅が。

対岸に「仁右衛門島」。

              

北方向。

島への渡し船は運行していないようなので、しばらく眺めて戻ります。

途中で、網の中の干物、カマスのようです。

漁港のはずれにある奇岩と、その上に立つ祠。

                           「龍宮様」。

県道に戻って先に進みます。左下に、

              「太海フラワーセンター(植物園)」(廃園)。

太海フラワー磯釣りセンター(ふとみフラワーいそづりセンター)

千葉県鴨川市太海浜67番地に位置している観光施設。かつては植物園釣り施設があり、花と海と動物の楽園をコンセプトにしていたが、植物園は閉園となり2023年現在は釣り施設のみの営業となっている。

太平洋に近接し、温暖な気候に恵まれている太海の漁村に面する。特に春は観光客が多く訪れ賑わっていた。

江見町町営の施設として1965年10月に開園。2018年12月31日をもって休園(事実上の閉園)。2021年時点で、セントラルハウス、温室棟は老朽化により大変危険な状況となっており、建物周辺は立入禁止となっている

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JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その3。海を望む坂道。波太(なぶと)・なぶとばし。太海(ふとみ)駅。(「房総東往還」を歩く。第9日。)

2024-01-25 18:40:20 | 房総東往還

海と山と畑と複雑に入り組む。

県道に出てすぐ右の細い道に入ります。住宅地への坂道。

       旧道には中央に下水溝(?)が敷設されているところが多い。

 

坂道の向こうに海。

県道に合流。

左手にある案内板。

※鴨川市太海地区の、昔の名前は「波太(なぶと)」。 明治ごろまで、ここは波太と呼ばれていた。 今でも、ここは波太の頃と変わらず、のんびりとゆるやかな時間が流れている。

「泊まれるレストラン 波太オルビス」。

鴨川市天津にて地魚寿司&民宿を31年間営んできた「中乃見家」が太海海岸に生まれ変わり「波太オルビス」となりました。

一流ホテルやオーベルジュで修業をしたフレンチシェフと、千葉の海の食材を知り尽くしたベテラン寿司職人が見事なハーモニーで美食の皿を提供します。

(この項、「」HPより)

県道を振り返る。

「曽呂川」河口。

「なぶとばし」。

「内房線」の鉄橋。

               その奥は、「国道128号」。

             

「ブルースカイ鴨川」。太海駅前の通り。

この先で左の道を進むのが旧道でしたが、そのまま駅の方へ。

「マルコ鮮魚店」。

坂の上に「太海(ふとみ)駅」。

              

「定食屋 柳生」。

                  クラシックな店構えのお店で、地元の新鮮な魚がウリのようです。

本来、この付近から海の方向へ進む必要があったのですが、そのまま県道を歩いてしまいました。

この付近の今昔。

                             (現在)

赤い線が国道128号、黄色い線が県道(歩いた道)。

                             (1880年代)旧道は集落内を複雑にたどる。

※当時、「仁右衛門島」は、「波太島」と表記されている。  

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JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その2。鴨川漁港。鴨川松島・雀島・・・。上り坂が続く。「JOSAI」。(「房総東往還」を歩く。第9日。)

2024-01-24 20:24:40 | 房総東往還

行き先案内板。

      「↑弁天島 →鴨川松島 →県立鴨川青年の家 →太海フラワー磯釣りセンター →仁右衛門島」。

右手に妙昌寺、急坂の上に八雲神社。

鴨川漁港。

仁右衛門島方向。                

「旅館 松島」。左に海を眺めながら、ゆっくり上り坂を。

眼下には、「鴨川松島」。大小七つの島(荒島 こうじま・弁天島 べんてんじま・鵜島 うじま・雀島 すずめじま・波涛根島 はとねじま・猪貝島 いがいじま・海獺島 あしかじま)の総称であり、宮城県の松島を思わせる景観からその名がついた。

中央に「雀島」。

魚見塚展望台から鴨川松島。

                (「」HPより) 

振り返る。

                        

       スイセン。

少し下ったあと、右の上り坂になっている旧道に入ります。

                       

住宅の向こうに海が。

       南国風な木々。

振り返る。

海側にある小山。

この先、右に上っていくと、「魚見塚展望台」に行けますが、省略。

下り坂になると、前方が開けてきます。

車道に合流します。

               正面の丘の上には、「JOSAI」(城西国際大学安房キャンパス)。

左にはキャンピングカー専用の広場が。

       通りの向こうには、内房線と国道128号と並んでいます。

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JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その1。特急「わかしお」。曲尺手。前原海岸。加茂川。鴨川漁港。万騎坂。(「房総東往還」を歩く。第9日。)

2024-01-23 21:42:55 | 房総東往還

「安房鴨川駅」から「江見駅」までの歩き旅。

船橋~安房鴨川の往復を特急「わかしお」を利用しての旅。

安房鴨川に着いたのが午前11時少し前。そこからの歩き。

帰路は、「江見」から「安房鴨川」。そこから午後3時半過ぎの特急で。

「大人の休日倶楽部」を利用したので(往復で200㌔を超えます)、3割引で大いに助かりました。

1月19日(金)。あいにくの曇り空時々晴れ。しかし、強い風もなく、穏やかな日和でした。

安房鴨川までの車窓から。

                      鳶が盛んに上空を舞う。

              

「安房鴨川駅」。

駅前の通りを進み、「伊南房州通往還=房総東往還」に出ます。

ここは、曲尺手になっていました。小湊方面からだと、右折して、すぐ左折します。

        

                 この角に道標があったのですが、見落としました。

商店と住宅が建ち並ぶ街道を進みます。                                

左側は海岸。    

                

バス停「前原海岸」。    

典型的な曲尺手。

「加茂川」。

         上流方向。

河口方向。

「加茂川」をはさんで旧市街地が続きます。

※前原地区には、二ヶ所「曲尺手」が残っています。                  (「今昔マップ」より) 

鴨川(市)のゆらい

  • 「千葉県町村合併史」には、「明治22年の合併に当り新町の名称は、鴨川町と決定したが、それは新町内を加茂川が貫流し、且つまた「倭名類聚抄」に長狭郡に加茂郷の郷名がみえ、それが当地区で在ったと推定されるので、そうした史的所伝に基づくものである。」と記載されています。
  • なお、「倭名類聚抄(ワミョウルイジュショウ)」(和名抄)とは、平安中期の漢和辞書です。
  • 「鴨川沿革史」(昭和39年2月・鴨川図書館)には、「古昔この地方を賀茂(カモ)郷と称した。)平塚(ヒラツカ)村より前原町・貝渚(カイスカ)村まで5里の間を貫流している川は、京都の鴨川に似ていると云うので加茂川と称したのを、明治22年4月の町村合併の時、町名に「加茂」を「鴨」に作り鴨川町と名付けた。」とあります。
  • 以上が代表的なもので、諸説がありますが確かなことは分かりかねます。

(この項、「」HPより)

橋を渡ると、街道筋の雰囲気が残る街並みに。

この付近から緩い上り坂(「万騎坂」)になります。

「←鴨川漁港」。

万騎(まんき)坂

古くから漁師町としての雰囲気が漂う貝渚と磯村地区を結ぶ万騎坂。源頼朝が石橋山の合戦に敗れ、逃げのびた後、仁右衛門島にて身を隠し静養した後、再起し、鎌倉へ向かった際に万にものぼる味方とともにこの坂を進んだことが、この名称の言われ。近くにある白幡神社も源氏のシンボルである「白旗」にちなんでいるのは、偶然ではないはず。

(この項、「」HPより)

※「万騎坂」という名の坂は、袖ケ浦市にもあり、ここと同様に、頼朝が再起して鎌倉に向かった、とのいわれがあるようです。

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外房線「行川アイランド駅」~「安房小湊駅」。その7。安房鴨川駅。外房線・内房線、どちらも下り終点。(付)車窓からの「新茂原貨物駅」跡。(「房総東往還」を歩く。第8日。)

2024-01-21 20:44:49 | 房総東往還

駅前の鴨川市観光案内図。

駅周辺は何もありません。  

西側にはイオンなど大きな店舗もありますが。

         

位置情報連動型ゲーム「ステーションメモリーズ!」「駅メモ! Our Rails」において、『JR東日本×江見駅郵便局×「駅メモ!」シリーズ 房総の旅キャンペーン』が開催されます。JR外房線・内房線の駅や沿線の観光地を巡るデジタルスタンプラリーや、コラボグッズの販売、ノベルティの配付など、さまざまな企画が実施されます。江見駅郵便局『応援特使』、『鴨川ふるさと特別大使』を務めている、でんこ「なより」が、房総特急『わかしお・さざなみ』50周年を記念して、『JR東日本×江見駅郵便局×「駅メモ!」シリーズ PR隊長』に就任します。

(この項、「」HPより)

※このキャンペーンは去年の春に終わっています。

安房鴨川駅は、「外房線」と「内房線」の境目の駅。

どちらも下りの終点駅。

上り「(内房線)館山・木更津・千葉方面 (外房線)茂原・千葉・東京方面」の始発駅に。

ほとんど1時間に1本。21時過ぎで、終電。

※「外房線」の上りに東京行きがあるのは、外房線に乗り入れている「京葉線」の終着駅が「東京駅」だから。

外房線に乗って帰ります。

(「上総一ノ宮」で「東京」(京葉線経由)行きの電車に乗り換え、さらに「蘇我」で内房線「千葉」経由、総武線「船橋」まで。)

「安房天津」。

「木更津行き」の電車(外房線~内房線)。

「安房小湊」。

            

帰路。新茂原駅を通過後、「新茂原貨物駅」跡を電車内から撮りましたので、付け足します。

「旧新茂原貨物駅」跡。

                              右手に見えてきます。

           

本線からの分岐線。

            

今回、途中から「バス旅」になりました。

街道歩きに加え、観光地めぐりにもなっていますが、これもよしとしましょう。

風光明媚な房総。「おせんころがし」から誕生寺、鯛の浦へと変化に富んだ旅でした。

最後はバス旅。おかげで、一気に安房鴨川駅まで。

鴨川から、あと2回で館山まで着きそうです。次回は、「安房鴨川駅」から「江見」か「和田浦」まで歩く予定。

その先、館山までは、どうするか? 

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外房線「行川アイランド駅」~「安房小湊駅」。その6。しぶきがかかる遊歩道。バスに乗って「安房鴨川駅」まで。車窓からの眺め。「鴨川シーワールド」。安房鴨川駅。(「房総東往還」を歩く。第8日。)

2024-01-19 19:01:00 | 房総東往還

港の方へ戻ります。

                 大波が来ると、水しぶきを浴びそう。

海の中、緑の海藻。

崖が海に迫る。

          ここで大地震が起き、津波に見舞われたら逃げるすべがなさそう。

振り返る。遠くに弁天島。

大海原を望む。

「安房小湊駅」に向かいます。奥に「鯛の浦遊覧船乗り場」。

「吉夢」玄関に飾られた写真。

                「日本の夕陽百景の館」。 

小湊漁港。    

 この交差点を左に折れて駅に向かう。

と、バス停があり、まもなく来たバス。「安房鴨川駅」(終点は、「仁右衛門島」)まで行く、とのこと。飛び乗ってしまいました。

               ※「安房天津駅」を通過して、安房鴨川駅まで。

この先は、バスの車窓からの風景。

内浦湾。

                  

海岸伝いに進むバスの車窓からは、左手に海が広がります。小さな漁港をたどりつつ・・・。

※途中のバス経路は「伊南房州通往還(房総東往還)」と重なっています(言い訳がましいですが)。

けっこうバス停ごとに乗客の乗り降りがあります。

     「多聞寺」バス停。

右手に大きな「亀田総合病院」。

                       ※旧道は、この病院の敷地内に続いています。

この先、左手に「鴨川シーワールド」が広がっています。

生命(いのち)の輝きと、ふれあえる海

          

                 

日常生活では出会うことのない、海の生き物たち。
それぞれに豊かな特徴や生態を持つ個体が生き生きと活動し、かけがえのない生命を営む姿は、私たち人間の想像を大きく超え、新鮮な驚きや純粋な感動さえも感じさせてくれます。
鴨川シーワールドが訪れるすべての人にお届けしたいのは、そんな生命の輝きとありのままに向きあい、心と体でふれあう歓びです。
ここには、海の世界をリアルに再現した展示環境があります。
空の下でのびのびと暮らす、穏やかな海の日常があります。
動物たちの知性や運動能力を引き出すパフォーマンスがあります。
ひとつひとつの体験を通じて、海への想いをわかちあいたい。
誰かに伝えたくなるほど、忘れられない瞬間を手わたししたい。
それが、飼育員をはじめ、海の生命に携わる私たちの願いです。

(この項、「」HPより)

まもなく「安房鴨川駅」に着きます。

      「安房鴨川駅」。

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