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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

森下公園(深川小)。のらくろ。(震災復興52小公園。その14。)

2013-12-03 20:13:20 | 震災復興小公園
(「資料:江東区森下文化センター/高橋商店街振興組合 製作:タウン紙高橋の会 編集長  露木 茂夫 東京都江東区辰巳 1-5-15-701 TEL 03-6807-8004」HPより)

②森下公園(深川小)


 公園の名称と小学校名が異なる組み合わせ。
通りをはさんで存在する。右が「深川小」。
公園と学校とは完全に隔絶している感じ。
広々とした中央広場。
藤棚のあるテラス。かつてのコンセプトが今も生きている(どこの公園もそうなのがスゴイ!)


紅葉が美しい。
商店街側の校門。


 ところで、「高橋商店街」は、別名「のらくろロード」。通りの東には、「江東区森下文化センター・田河水泡・のらくろ館」があります。(地名の「高橋」というのは、「小名木川」に架かる橋の名前から。「たかはし」ではなく「たかばし」)。

のらくろがいたるところで、お出迎え。
アーケードが続き、道路は、一年中、花吹雪(模様)。

 そこで「田河水泡」について。(以下、「Wikipedia」参照。)
 田河 水泡(たがわ すいほう、1899年(明治32年)2月10日 - 1989年(平成元年)12月12日)は、日本の漫画家、落語作家。本名、高見澤 仲太郎(たかみざわ なかたろう)。
 昭和初期の子供漫画を代表する漫画家であり、代表作『のらくろ』ではキャラクター人気が大人社会にも波及し、さまざまなキャラクターグッズが作られるなど社会現象となるほどの人気を獲得した。
 東京府東京市本所区本所林町(現在の東京都墨田区立川)出身。出生直後に母親が亡くなり、父親が再婚するために、水泡は子供のいなかった伯父夫婦の元で育てられる。中国画や庭いじりを愛好していた伯父の影響で、水泡も絵筆を取るようになる。
 しかし、再婚した父親が数年後に亡くなり、育ての親である伯父も水泡が小学5年生の時に時に亡くなると、一転、生活に困窮するようになり、深川市立臨海尋常小学校(現・江東区立臨海小学校)を卒業後は働きに出ざるを得なくなり、薬屋の店員やメリヤス工場の少年工員として働くという「家庭にめぐまれぬ、苦労の多い、孤独な少年期」を過ごした。
 その後、徴兵され、朝鮮や満州で軍隊生活を送り、1922年(大正11年)に除隊し帰国。帰国後は画家を志し、日本美術学校(現・日本美術専門学校)に入学。村山知義らが主宰する前衛芸術集団『マヴォ』に参加し高見沢 路直と名乗っていたものの深入りはせず、1926年(大正15年)に卒業。
 卒業後、展示装飾の手伝いや広告デザインの仕事でどうにか食いつなぐ売れない絵描き時代を過ごしていたが、もうひとつの夢であった文筆業への進出を試みる。当初は小説を売り込もうと考えていたが、ライバルが多すぎる上に出版社自体も無名の新人は使わないだろうと考え、当時の大衆誌に必ずといっていいほど掲載されていた落語や講談に目を付け、書き下ろし新作の落語の執筆に取り掛かる。
 書き上げた新作落語を大日本雄辯會講談社の「面白倶楽部」に持ち込み掲載されて以降、講談社の別の雑誌からも依頼が来るようになり、売れない絵描きは一転、落語作家として売れっ子になる。当時のペンネームは「高沢路亭」という年寄りみたいなものであり、最初の持込みのときに、対応した編集者から使いの者と勘違いされたというエピソードがある。なお、水泡の新作落語は今日にも残っており、初代柳家権太楼や桂文治 (10代目)が得意としていた『猫と金魚』が有名。
 落語作家として売れっ子となる中で、美術学校卒業という経歴が面白がられ、新作落語に挿絵も描いてほしいという依頼を受けるようになる。1年後には、編集者から依頼を受け、新作落語執筆の合間に漫画の執筆に取り掛かる。初連載は1929年(昭和4年)の『人造人間』。ロボットを主人公としたSF作品であり、日本のロボット漫画のパイオニアとも言える。
 漫画家としてのペンネームは、当初は本名の高見澤をもじった田川水泡(たかみざわ)だったが、その翌1930年(昭和5年)には田河水泡(たかみざわ)に変更。しかし、変則的な読みのせいか、いわゆる誤植に悩まされることになり、当の漫画自体の作者名の部分でさえ「たがわ・すいほう」「たがわ・みずあわ」とルビを振られる事が多かった。当初田河は自筆サイン(おたまじゃくしマーク)にわざわざMIZAWAと言葉を添えるなど対応していたが、少なくとも1932年(昭和7年)頃には自らもタガワスイホウと書くようになり、徐々に「たがわ・すいほう」として定着していった。
 なお、漫画を描くようになってからまもなく、漫画発表の舞台を一般雑誌から子供が読む雑誌(婦人向け雑誌も含む)に移し、初の子供向け連載が1929年の『目玉のチビちゃん』になる。
 1929年(昭和4年)、『目玉のチビちゃん』連載開始と前後して結婚。同作の連載終了後、『のらくろ』の執筆に取り掛かる。同作の執筆のきっかけは、結婚後犬を飼い始めた事により、昔写生中に見た陽気な真っ黒な犬を思い出し、あの犬が今どうなっているか気になったので描いてみたというものである。設定を軍隊にすることにより、自らの徴兵時代を反映させる事が可能になり、独特の世界観を作り上げていった。同作は主人公の階級が上がるたびにタイトルが変わっていくという実験的な作品でもあったが、爆発的な人気を獲得。戦前としては異例の長期連載となった。また、いわゆるのらくろグッズが市場に溢れることになり、日本で初めて漫画のキャラクターが商業的に確立した作品とも言える。1941年に打ち切られるものの、その影響力は凄まじく、幼い頃の手塚治虫はのらくろを模写し、技術を磨いていたという。
 戦後はのらくろの執筆を再開する一方、落語の執筆も再開。さらには日本人の笑いの研究に取り掛かる。漫画以外の書籍が増え、文化人的な存在へと変わっていく。1969年に紫綬褒章を受章。同年、山野を買い取り、それを宅地分譲しながら教育を始めたことで知られる玉川学園八丁目に移住。小田急線を挟んで、南北反対側の高丘の上に居を構えた遠藤周作と並んで、玉川学園という住宅地の代表的な文化人のひとりだった。
 後半生はクリスチャンであった。『サザエさんうちあけ話』によると、長谷川が弟子になったときにクリスチャンである長谷川に夫妻で付き添って自宅の隣にあった教会に通ったところ、後に夫妻で洗礼を受けることになったという。死後に夫人が出した『のらくろ一代記 田河水泡自叙伝(1991年)』では、入信の理由は何度も失敗してきた禁酒を今度こそ成功させるために信仰の力を借りようというものだったとされる。
 代表作「のらくろ」が戦前の作品であるせいで、昭和の終わりごろにはすでに物故者と勘違いされることが多く、新聞記事等で「故・田河水泡」と誤って表記される事件が何度も起こった。
 1989年12月12日、肝臓癌のため死去。90歳没。
 1998年に遺族は、遺品を生地の隣区である江東区に寄贈した。公益財団法人江東区文化コミュニティ財団が運営する「森下文化センター」1階を、田河の常設展示館「田河水泡・のらくろ館」として、ここで常設展示されている。当地は生地の至近である。田河に関する唯一の展示館である。
 弟子に『サザエさん』の長谷川町子や『あんみつ姫』の倉金章介、『猿飛佐助』『ドロンちび丸』の杉浦茂、滝田ゆう、山根青鬼・山根赤鬼、森安なおや、伊東隆夫、野呂新平、ツヅキ敏、永田竹丸などがいる。
 叔父に浮世絵複製の『高見沢版』で有名な高見沢遠冶。夫人の高見沢潤子は、文芸評論家小林秀雄の妹にあたる。

「小名木川」。
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江東区立八名川公園(八名川小)。新大橋。六間堀。(震災復興52小公園。その13。)

2013-12-02 19:33:36 | 震災復興小公園
 久々に自転車で遠出。震災復興小公園シリーズの江東区編。29日の東京地方は、晩秋の冷え込み。しかし、空はどこまでも青く、澄み切って気持ちがいい。「清澄通り」から「永代通り」、「四つ目通り」から「三つ目通り」・・・。下町の通りを西に東に南に北に。「小名木川」、「大横川」、「竪川」と運河・川の多い街並みでもありました。

①八名川公園(八名川小)

都営新宿線森下駅の南西に位置する。こぢんまりとした広場が中心。
ラジオ体操会場にもなっている。年中無休・江東区では初の会場だったらしい。
藤棚をあしらったテラスはなかなか立派。
藤の古木。
公園側の通用門。公園とは、他の場所ではフェンスで仕切られている。
小学校のフェンス脇には花壇があって、目を楽しませる工夫が。
震災復興校舎(「八名川小」HPより)
 「1929年(昭和4年)3月 現在の場所に鉄筋コンクリート3階建の校舎が完成、落成式挙行。」と沿革史にはあります。

校内にある旧「新大橋」の橋名板。


 志ん於ほはし
 この橋名板は、明治45年に架けられた新大橋の橋名板で、現在の新大橋(昭和52年完成)に架け替えられるまで、江東区側の正面上部のアーチを飾っていたものです。新大橋は、隅田川に架かる3番目の橋として、元禄六年(1693)に架けられました。明治時代になり、橋の交通量が増加したため、それまでの木製の橋から鉄橋に替わり、同時に約200m上流の現在地に架けられました。周囲の飾りは大半がはがれ落ちてしまい、中央の「志ん於ほはし」(しんおおはし)の文字も跡が残るのみとなっています。写真は昭和30年ごろの新大橋ですが、文字は「志んおおはし」となっています。おそらく戦後、橋の改修をした時に文字の部分も修復したのでしょう。
 昭和48年に新大橋の架け替えが決定し、それまでの橋が取り外されることになりました。八名川小学校PTAを中心とした地域の人びとは、町のシンボルとして親しまれてきた橋の記念として、この橋名板を保存することを希望し、ここに残されました。
 なお、中央区側の橋の一部は、明治の面影をとどめる橋として明治村(愛知県犬山市)に移され保存されています。
   平成18年11月                        江東区教育委員会

「新大橋」橋桁。現在の「新大橋」は中央区日本橋浜町 と 江東区新大橋の間にあり、「新大橋通り」 が渡る橋。

 最初に新大橋が架橋されたのは、元禄6年(1694年)。隅田川3番目の橋で、1番目の「(千住)大橋」に対して、「新大橋」と名づけられました(2番目に架けられた橋は「両国橋」)。江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院が、橋が少なく不便を強いられていた江戸市民のために、架橋を綱吉に勧めたと伝えられています。当時の橋は現在の位置よりもやや下流側であり、西岸の水戸藩御用邸の敷地と、東岸の幕府御用船の係留地をそれぞれ埋め立てて橋詰としました。橋が完成していく様子を、当時東岸の深川に芭蕉庵を構えていた松尾芭蕉が句に詠んでいます。
架設中の橋を見て
「 初雪や かけかかりたる 橋の上 」
完成した 『新大橋』 を渡って
「 ありがたや いただいて踏む はしの霜 」
 明治になってからもこの橋はずっと 木橋 でしたが、明治45年(1912) になって、道路橋としては日本初の鋼製トラス橋が架けられました。上にもあるように、その一部は愛知県犬山市の 「明治村」 に保存されている、とのこと。

 この橋は、大正12年(1923) の関東大震災にも崩れませんでした。関東大震災では、「隅田川」 に架かる橋は、火災を逃れてきた人々で溢れていました。ところが、ほとんどの橋は鉄橋であっても床材が木製であったため、市街地の火災が橋にも引火して、多くの犠牲者を出しました。そんな中で、全ての構造が不燃材で出来ていた 『新大橋』 は炎上を免れ、結果的にたくさんの避難住民の命を救うことになりました。これ以来 『新大橋』 は 『ひとたすけ橋』 と呼ばれるようになりました。
新大橋西詰めにある大正12年に起こった関東大震災「避難記念碑」。碑文によれば、神の助けと人智により、隅田川に架かっていた橋の中で焼け落ちなかった「新大橋」上で九死に一生得たことを記念したもの、と。
見上げるほど大きな碑。

「旧新大橋」(明治時代)。この図柄に見える「親柱」が東詰に残されています。
絵の右側に描かれているもの。
装飾的にも趣のある柱です。
「大はしあたけの夕立」(安藤広重作)のモニュメント。

 現在の 『新大橋』 は、昭和51(1976)年 に架け替えられたもの。橋の中央に二本の大きな主塔を配した2スパンの斜張橋で、名橋といわれた旧トラス橋の名声や、歴史のある 『新大橋』 の名を汚さないようにと、そのデザインには特に力を入れたようです。
 (「東京探訪」HP参照)
「新大橋」の全景。
下流の対岸。
テラスにある案内板。「新大橋」の木橋時代の絵が掲示されています。また、そこには「隅田川は最上流の北区・岩淵水門から中央区・浜離宮庭園まで延長23.5㎞」とも記されていました。

 「八名川公園」は、旧「六間堀」に沿ったところ。公園に絵図が掲示されています。
「本所深川繪図」。赤丸が公園の位置。右(北)が「竪川」、左(南)が「小名木川」。二つの運河を結んでいたのが「六間堀」。

1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。「八名川」という地名と「六間堀」が描かれています。
その上流付近(「同」)。右からの流れが「五間堀」。カギ型の一部が現在も墨田区と江東区の区界として残っている。

1970年代のようす(「同」)六間堀は埋め立てられましたが、八名川小学校・公園脇の道路がその跡になっています。

 この付近は、池波正太郎「鬼平犯科帳」の世界でもあります。以下、以前のブログを再掲(2009/5/25)。

 両国駅を出て清澄通りを南に下って行くと、江東区森下町界隈。地図で確認すると、三角形に区切られて区界がある。道路も清澄通りを横切っている。顕著な道筋ということが分かる。区界が新大橋通りと清澄通りという二本の大きな通りで区切られているのではないことに気づく。ここに、五間堀と六間堀があった。もともとは、本所の竪川と深川の小名木川をつなぐ(小名木川まで開通するのは後代)の堀割。
 写真は、五間堀公園、五間堀の跡。都営地下鉄「森下町」駅の地上入口付近。清澄通りを渡ったところには、「弥勒寺橋」跡の標識があり、六間堀のいわれも記されている。この辺りは、東京大空襲で瓦礫が川筋に埋まってしまった。そのためか、戦後すぐに埋め立てられ、今は跡形もない。区界なのがその唯一の「痕跡」。
 この辺りは、「鬼平犯科帳」の世界だ。
 
 六間掘川南端にかかる猿子橋の西たもとは、右が幕府の御籾蔵、左が深川元町の町家であった。その御籾蔵の角地へうずくまっている市口瀬兵衛の前に、現れる長谷川平蔵。「市口さん。いよいよですよ」「天下泰平の世にお笑いくださるな」「何をもって」「かほどのわが子は可愛いものでござる。そのわが子を討った仇が、なんの罰も受けず、ぬくぬくと暮らしておること、許せませぬ」「私も三人の子持ちでござる。よろしいか。私が先に出て行って、浪人どもを駕籠から追い払う。そのとき名乗りをあげて、突きかかるがよろしい」「はい」
 平蔵は瀬兵衛老人のやせこけた両肩を優しく何度もさすってやる。「ご老体。死ぬるということは、思いのほか簡単なものらしい。いざとなれば、少しも恐ろしくないそうな」そして駕籠がやってくる。平蔵は峰うちにして浪人や駕籠かきどもを追い払う。駕籠の中から海坊主のような大男が出てくる。「山下藤四郎。市口伊織が父、瀬兵衛清定ぞ」かすれ声を振り絞って名乗る瀬兵衛。山下藤四郎は信じられぬ顔つきになる。そんな山下に瀬兵衛は腹へ刀を突き込む。
 翌朝になって、平蔵は役宅に戻る。与力や同心たちが緊張の面持ちで平蔵のそばに駆け寄る。長官が二夜も役宅を留守にしたのだから、何か異変があったと思うのが当然であった。「なんでもない。ちょいと遠出をしたのだ。たまにはよかろう」長谷川平蔵は寝間の床にもぐりこむ。目を閉じると、今朝暗いうちにお熊の茶店から去った市口瀬兵衛の小さな後姿が浮かんできた。瀬兵衛は妻と二年も会っていなかった。(ふふ。猿子橋界隈は、昨夜の事件で大変なことだろう。それにしても、あの老人、どこの家中だったのか)もう考えをめぐらすのも面倒になり、平蔵はここちよい眠りの底へ落ちていった。(池波正太郎『寒月六間堀』より)
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精華公園。田原公園。(震災復興52小公園。その13。)

2013-11-02 17:39:34 | 震災復興小公園
※「精華公園内ビオトーブ」に設置された、ペットボトルを再生利用してつくられたベンチ。 

 復興小学校に併設されていた「復興公園」の現状をもう少し。

《精華公園》
 

道路をはさんだ北側に「蔵前小学校」校舎。

 平成15年4月、精華小学校、小島小学校、済美小学校の統合により、「精華小学校」の跡地に「台東区立蔵前小学校」として開校。「蔵前小」のHPには、統合、発足後の歴史のみが載せられています。
 
「精華小」。その前身「戸田小学校」時代には、少年時代の夏目漱石が、わずかの期間ですが、養父塩原昌之助宅から通った小学校でもあったとのこと。
 「戸田小学校」。精華小学校の前身で、当時寿町にあり、明治7年創立の第八番小学校。その後明治21年に北富坂町に移転。翌22年精華小学校と改称。

 1874(明治7)年創立の学校ですから、そのまま存続していれば、創立140周年にもなろうかという、台東区内でもかなり古い小学校ということになります。三校の統合により、まるっきり別の学校、地名のままの「蔵前小学校」となりました。ちょっぴり残念な気がします。「精華小」卒業生は忸怩たる思いがあるのでは。もちろん、小島小、済美小にとっても同じことですが。
 「小島小校舎」は、いまでも現役の建物として再活用されています。「済美小」は、「台東区認定こども園・ことぶきこども園」として利用されています。


(「ことぶきこども園」HPより。)

「蔵前小学校」。新築の校舎。

その南側にある「精華公園」。校名の「精華」はなくなりましたが、この公園の名として残っています。
公園中央広場。広いスペースの公園。
藤棚。
公衆トイレ。屋根に注目!
大きな砂場。今まで見た中で、一番大きい。中には、木製の工作物。
遊具。
 この公園の特徴は、ビオトーブ。このビオトーブは公園に隣接する環境ふれあい館「ひまわり」が運営しています。ビオトープとは「野生の生き物が生息する環境」のこと。小さな水辺の周りを植物がかこっている。「小さな自然」観察園、という趣。
入口の案内板。
ささやかな空間。植物も20種以上、水辺の生き物もいくつか、無農薬の田んぼづくり、などエコの取り組みも含めて多彩な取り組みがされているようです。

《田原公園》

地下鉄「田原町」駅の近く。浅草の繁華街からそう離れていないところにある「田原小学校」の南側。
なかなか見栄えのいい、しゃれた校舎。
ところが、大半を校庭にとられて、実に小さな公園となっていました(戦前からこんじまりとした公園になってはいましたが)。校庭との大きい出入口があります。
コンクリー製の大きな柱が何本か立っている?
校庭の中には、「藤棚」。建設当時のコンセプトは残っていました。
狭い公園。遊具も、ささやか。足下は、一面、砂場。これはアイデアもの。

1970年代のようす。(「同」より)コの字型の校舎が大きく変わりました。
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黒門小。防空壕。奉安殿。・・・(震災復興52小公園。番外編。その3。)

2013-11-01 23:06:50 | 震災復興小公園
※「www.maroon.dti..jp/ne~satton/kyouiku/matutiyamael.html」より。但し、「黒門小」HPによると、校歌の制定は、昭和5年となっている。


1880年代のようす。赤丸に「黒門町」とある。右上が「広小路」。(「歴史的農業環境閲覧システム」より。)

②黒門小学校
 明治43年5月7日創立。江戸時代から日本を代表する繁華街である上野をそっくり学区域に持つ小学校で、校舎は、今は都内でも少なくなった、いわゆる震災復興校舎(昭和5年竣工)を、大きく手を加えることなく現在も使用している。建築当初からある地下の防空壕と二宮金次郎像もそのまま残っている[1]。
 現校舎建築当初から平成元年まで使っていた旧体育館には、戦前に御真影を安置していた奉安殿が残っていたが[2]、体育館の改築とともに消滅した。
 ・・・卒業生のほぼ8割から9割が私立・国立の有名中学に進学しており、公立小学校の名門として都内や近県からの区域外就学児童が在校している。
 上野にある小学校として、上野公園内にある文化施設との連携・協力も密にしており、地の利を生かした教育活動を実践している。同窓会も活発で、黒門小学校育ての会(PTA組織)や地域との連携しながら黒門小学校の教育活動や児童の為に活動している。

《脚注》
1. 防空壕は、入口が特殊な場所にあって施錠されており、普段はまったく人の出入りがないこともあり、中は昔の雰囲気がよく残っている。建設当時のものと思しき、壁を碍子一つで伝う裸電線に電灯、昭和30年代の生徒の手によると思しき落書きなどが残る。学校の正面玄関を入って左右に行くと、同じ1階であるにもかかわらず、廊下を進むのに不自然にも若干の階段を登らなければいけないのは、上げ底となった部分の下に防空壕があるからである。

2. 舞台の奥に大理石で囲まれ、複雑なレリーフが施された大きな木の引き戸があり、扉を開けた奥行き僅かなスペースが奉安殿として使われていた。戦後は、学校教育から国体思想が排除されたことに伴って奉安殿として使うことを止め、全面を緞帳で覆って存在を隠し、運動会の入退場門を収納するなどの大物用倉庫としてひっそりと使っていた。
 (以上、「Wikipedia」より)この、2つとも興味深い記事です。

正面玄関。
玄関部分の装飾は、この時代らしいアールデコ調のデザイン。
校舎西側。こちらが当時のモダンスタイルの窓。丸窓が連続して設けられている。
北西の角。大きな曲線を描く。階段室。
校舎東側。大きくごつそうな窓。空調などの配管が目に付くが。

図書室。(どちらも「黒門小」HPより)。内部は撮れないので、お借りしました。
 壁の丸くなったレイアウトなどが、学んだ高校の古い校舎(1960年代)の構造とよく似ているので、懐かしくなりました。おそらく天井も、今の小学校の校舎よりも高いと思われます。
南側から。校庭。コの字型の校舎配置。

 上野広小路の繁華街西側のすぐ裏手。路地を入ると、周囲のモダンな建物と比べ、かなり古く重々しい印象の建物があるとは! そして、現在も現役で活躍している校舎があるのは、すばらしいことです。周囲をぐるっと回って、喧噪の街中に・・・。

付1 「防空壕」(ぼうくうごう)とは、敵方の航空機の攻撃(空爆、機銃掃射)及びミサイル攻撃から避難するために地下に造られた施設。日本では第二次世界大戦中に、アメリカ軍をはじめとする連合国軍機による銃後への大規模空襲が現実のものとなり、空襲の危険から逃れるため、1944年頃から学校の校庭、強制疎開跡の空き地、個人宅内などに大量に作られるようになる。空襲警報が鳴ると、身近なところに造られた防空壕に身を隠した。(「Wikipedia」より)

付2 「奉安殿」(ほうあんでん)とは、戦前の日本において、天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めていた建物。御真影の下賜が始まった時期は、教育勅語が制定された後の1910年代であり、奉安殿の成立もその時期と推測される(小学校の奉安殿建築は1935年頃に活発化)。また学校への宿直も、この御真影の保護を目的として始められた面もある。
 四大節祝賀式典の際には、職員生徒全員で御真影に対しての最敬礼を奉る事と教育勅語の奉読が求められた。また、登下校時や単に前を通過する際にも、職員生徒全てが服装を正してから最敬礼するように定められていた。
 当初は講堂や職員室・校長室内部に奉安所が設けられていた。しかしこの奉安所の場合、校舎火災や地震などによる校舎倒壊の際などに御真影が危険に晒される可能性が高く、また実際に関東大震災や空襲、校舎火災の際に御真影を守ろうとして殉職した校長の話がいくつか美談として伝えられている。このため、さらに万全を期して校舎内部の奉安所は金庫型へ改められ、また独立した「奉安殿」の建築が進められた。前者の校舎一体型は旧制中学などに多く、後者の独立建築型は小学校に多く見られた。(「Wikipedia」より)

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東浅草小(旧待乳山小)。見返り柳。(震災復興52小公園。番外編。その2。)

2013-10-31 22:00:45 | 震災復興小公園

 ※「日本堤公園」側からの「東浅草小」校舎。

 震災復興校舎で現在も小学校の校舎として使用されている二つの学校を紹介します。

①東浅草小学校
 (またまた「www.maroon.dti.ne.jp/~satton/kyouiku/matutiyamael.html」さんより引用させていただきます。なお、このブログは、台東区の歴史・文化・産業など網羅されていて、たいへん興味深く、示唆に富んだ内容になっています。)‎

☆明治6年5月 浅草聖天町、待乳山中腹に第5中学区三番公立小学校として敷地37坪の中に誕生。前身は明治五年に今戸六七番地の潮江院内に設立された習成舎の分校であった。
「明治五年 第五大区十一小区浅草聖天町、待乳山山上ニ共立学校習成舎ヲ開キ、同六年二月府立トシテ名ヲ命ス」(東京府志料)。習成舎には待乳山山腹に分校があったが、学制施行にともなって公立小学校に改称されている。この小学校が第五中学三番小学校待乳山学校である
 習成舎は相当規模も大きく寄宿舎も設け、授業内容のかなり程度が高く第五大区唯一の区学校であった。習成舎は明治二年に、浅草の有志が清島町誓願寺内に設け漢籍、英字、習字を教授していた。これを引き継いで明治十二年に下谷西町3-21に習成小学校が創立された。校地は筑紫柳川藩藩主、立花家の敷地を無償で供出されて出来たものだった。
 明治19年に小学校の統廃合が行われたが、下谷小学校が坂本3丁目から車坂町33に移転する際にこの習成小学校は下谷小学校に統合された。廃校となった習成小学校跡地は、明治33年に西町女子小学校として独立し、さらに西町小学校となるのである。

☆明治12年 吉野町正法寺境内にあった開明学校を分校とし、男子は本校、女子はこの分校で授業を行った。児童数は164名
☆明治16年10月 亀岡町1丁目1番地(現在の都立台東商業高校付近)に移転し、新校舎落成。敷地105坪、木造2階建て1棟、平屋1棟、建坪84.5坪
☆明治19年11月 待乳山尋常小学校と改称。児童数240名。小学校令発布、小学校は高等.尋常の二科とし、児童は6歳から14歳まで8ケ年を学令とした
☆明治23年4月 高等科併置
☆明治24年12月 地方(ぢがた)今戸町に移転(現在地)敷地342坪、校舎16.7坪で費用は5200円であった。
☆明治25年 校章を制定。待乳山の「待」の字を真ん中にして、旭日の光の模様を型どり、校運の隆昌を祈念したものだった。
・・・(中略)
☆大正12年9月 関東大震災発生、倒壊はまぬがれたが類焼する。10月青空バラック校舎で授業再開。登校児童は4分の1の約400名であった
☆昭和3年5月 鉄筋コンクリート3階建て現校舎落成。建坪1149坪、建築費38万6300円。全教室スチームを通すモダンな造りであった。校旗を作り、以後5月31日を開校記念日とした。
☆昭和4年3月 校歌制定

☆昭和16年 国民学校令施行、4月1日より東京市待乳山国民学校と改称。児童数1204名
☆昭和19年8月 第3学年以上の児童、384名を宮城県赤湯に集団疎開させる。
☆昭和20年3月 東京大空襲で通学区域全焼。学校は羅災者を収容。
☆昭和22年3月 浅草区と下谷区が合併して台東区が発足。4月、台東区立待乳山小学校と改称。
☆平成13年4月 田中小学校と統合し、待乳山小学校の場所で「東浅草小学校」となる。

 以上のようになります。
 「待乳山聖天」は、山谷堀が隅田川に注ぐ辺りにあります。この小学校は、その「山谷堀」の上流、「吉原大門」交差点から少し入ったところ。現在の位置と「待乳山聖天」とは1キロ以上離れていますが、設立当時はすぐ近くにあったことが分かります。
公園脇からの遠望。
正面玄関。校舎の外壁は新しく塗り替えられたようだが、ここは、かつてのまま?
これまで見てきた二つの校舎に比べると、復興校舎様式のもう一つ、インターナショナルスタイル(国際建築様式)のもの。
しっかりした鉄筋造りで、築85年とは思えない。これから先も現役であってほしい。

1970年代のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)コの字型の校舎は現在もそのまま。左方、「日本堤通り」をはさんで少しくねった道が「吉原」への道。手前の道路際に「見返り柳」。

「見返り柳」。「吉原大門交差点」にあるガソリンスタンドの前。
「見返り柳の碑」。
説明板。

 見返り柳 台東区千束4-10-8
 旧吉原遊郭の名所のひとつで、京都の島原遊郭の門口の柳を模したという。遊び帰りの客が後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳のあたりで遊郭を振り返ったということから「見返り柳」の名があり、
 きぬぎぬのうしろ髪ひく柳かな
 見返れば意見か柳顔をうち

など、多くの川柳の題材となっている。
 かつては山谷堀脇の土手にあったが、道路や区画整理に伴い現在地に移され、また震災・戦災による焼失などによって、数代にわたり植え替えられている 平成8年9月 台東区教育委員会

交差点付近にあるクラシックなたたずまいの天麩羅屋さんの店構え。「土手の伊勢屋」。明治22年創業。今の店主は、5代目。昭和2年再建の建物は隣の「桜なべ・中江」と共に国の有形文化財に指定されている。

この奥に遊郭が広がっていた。
山谷堀跡。現在は旧今戸橋まで緑道公園になっている。学校付近、三ノ輪に向かう旧「山谷堀」に今もあるコンクリート製の堤防の一部?
撤去された「今戸橋」の親柱。隅田公園入口付近。
1970年代のようす。(「同」より)まだ山谷堀があったころ。上方の橋が「今戸橋」。すぐ脇が「待乳山」。この当時は悪臭の漂うどぶ川に近かったようです(隅田川の同様)。


学校近くからのスカイツリー。
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旧台東区立柳北小学校校舎。柳北公園。(震災復興52小公園。その12。)

2013-10-28 19:43:51 | 震災復興小公園
※ 正面玄関左側に設置されている「旧柳北小学校」の記念碑。

明治 9年 第5中学区第14番公立小学柳北女学校として設立
明治20年 柳北女子尋常高等小学校と改称
明治41年 柳北尋常小学校と改称
大正15年 現在地に鉄筋コンクリート3階建て校舎が竣工
昭和18年 東京都柳北国民学校と改称
昭和22年 東京都台東区柳北小学校と改称
昭和51年 創立百周年記念式典挙行常陸宮殿下同妃殿下御臨席
平成12年 統合新校設立のため廃校
・・・ 台東区教育委員会


 旧台東区立柳北小学校。ここは、北側に隣接して「柳北公園」があります。災害復興52公園の一つ。
広場。隣接する校舎は、「都立忍岡高校」。
古木が何本か、広場に。
ささやかだが、藤棚。
西側部分に砂場や遊具。
かなりごつい組立て物。飛行船? 屋形船? それとも機関車? ・・・。復興公園探訪で、他には見たことがない。


南側にある校舎が「旧柳北小学校」。夕方。明かりが付いています。

[柳北小学校]
創立年月 明治9年10月
竣工年月 大正15年11月10日
工事請負 藤本清次郎
校地坪数 1,326.900坪
校舎坪数 1,590.700坪
学級規模 32学級

[柳北公園]
開園年月 大正15年8月14日
公園面積 901.43坪
(「essay bibliophobia」finches.exblog.jpさんを参照。)

 32学級という大規模校でしたが、時代とともに児童数は減少。平成13(2001)年には隣の育英小学校と合併、明治9年より100年以上続いた柳北小の長い歴史の幕を閉じました。
 廃校後、一時期、フランス人子女が通う〔東京リセ・フランコ・ジャポネ東京校〕の中等科・高等科の校舎として使用していましたが、すでに移転し、今年の4月から、一階部分には「柳北保育室」が開設されています。

(以下、「kyosanto.com/index.php?tn=index&in=307161&pan=1163‎」より。)

 台東区は、4月から3年間、旧柳北小学校跡地に保育室をつくり、3年後に南部地域に認可保育所を整備してその受け皿にすると発表しました。「旧柳北小学校跡地に認可保育所をつくって」という区民の運動が一部実を結びました
 旧柳北小学校は一昨年6月いっぱいでフランス人学校が移転。その後は台東保育園の改修工事中の仮園舎として活用されてきました。
 地域住民からはフランス人学校移転後の活用について、「認可保育所と特別養護老人ホームの整備を」という声と運動が続いています。
 「旧柳北小跡地に複合福祉施設を求める会」(田子ノブ子代表)は一昨年11月、吉住区長に同趣旨の署名721人分を提出していました。
 私はこの運動に参加。署名にとりくむとともに、区議会では、子育て支援特別委員会や決算・予算審議で3回にわたり取り上げました。
 今回の区の方針は、旧柳北小に安定した認可保育施設を整備するのではなく、3年後に南部地域に認可園をつくるまでの暫定的措置で、区民要望を全面的に実現するものではありませんが、来年度の待機児童対策が全く示されていなかった中で、この方向は前向きな変化です。
 この4月は0~2歳児を33人(0歳=9人、1歳=12人、2歳=12人)受入れ、来年4月はこれに加え3歳児を15人、翌年は4歳児をさらに15人、と受入れ年齢を毎年増やします。
 認可保育所の4月入園申込が年末に締め切られましたが、昨年より100人希望者が増えており、今回の対応では昨年以上の待機児童が出るのは必至です。つぎはぎではなく、長期的展望に立ち、認可保育所を整備すべきです。

 「株式会社日本保育サービス」という会社への民間委託方式での開設となっているようです。

玄関のアールデコ風装飾に当時の特徴が。
南側からの眺め。
 コの字型の校舎だった。正門が公園に面していて、中庭が校庭。現在は、西側の校舎は取り壊され、「柳北スポーツプラザ」という建物になっている。

中央と東側部分が大正15年竣工当時のままの校舎。
重厚な趣の校舎。


1970年代のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)樹木の多い「柳北公園」をはさんで、南に「柳北小学校」北に「忍岡高校」。右下が「JR浅草橋駅」。

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旧台東区立坂本小学校校舎。(震災復興52小公園。番外編。その1。)

2013-10-27 22:31:34 | 震災復興小公園
 今回は、公園を伴わない「復興小学校」の一つで、現在も残り、活用されている校舎を訪ねました。「台東区区立坂本小学校」。

 ここで、「復興小学校」についてのおさらい。(以下「Wikipedia」参照。)

 復興小学校は、1923(大正12)年には発生した「関東大震災」後に復興事業の一環として建築された一連の小学校の総称です。
 関東大震災により、東京市立小学校は大きな被害を受け、全195校のうち無傷で残ったものは2校にすぎず、約2/3が倒壊・焼失しました。
 復興事業にあたり東京市は、不燃化構造とするため鉄筋コンクリート建築を採用しました。また、52の学校では、公園を併設するなどの試みも行われました(「震災復興52小公園)。
 復興小学校として建築された小学校は全部で117校。建設時期は1924年から1935年にかけての時期(多くは1928年頃までに完成)。
 なお、同時期に建設された鉄筋コンクリート造りの学校建築の中にも、厳密には復興小学校ではないものが含まれています。それらを「改築小学校」と呼びました。校舎の被害はさほど大きくなかったが、ついでなので鉄筋コンクリート建築によって建て直したというもの。更にそれ以外に、震災前には小学校として存在していなかったが、震災後に鉄筋コンクリート建築の校舎を新築して開校したものも含まれます。

復興小学校一覧
※以下のリストは復興小学校を網羅したものではない。

1925年(大正14年)建設

・明石小学校(中央区明石町1-15)
2008年現在も小学校の現役校舎として使われている。北側に隣接していた公園の大半は失われたが、わずかながら残ってはいる。建築学会から重要文化財相当と指定されている。2010年8月9日から取り壊しが開始された。

1926年(大正15年、昭和元年)建設

・九段小学校(千代田区三番町16)
建設当時は「上六小学校」。2008年現在も小学校の現役校舎として使われている。西側に隣接して東郷元帥記念公園がある。
・坂本小学校(台東区下谷1-12-8)
建設当時は「入谷尋常小学校」。小学校としては廃校になり、建物は2006年1月現在残されてはいるが、跡地利用が検討されており、解体される可能性もある。


1927年(昭和2年)建設

元町小学校(文京区本郷1-1-19)
小学校としては1998年に廃校。南側には同時期に作られた元町公園が残されている。文京区が区施設の建設を計画したことから解体の懸念が強まっていたが、2010年段階ではその計画はたなざらしとなり、建物は耐震補強の上で2016年まで順天堂大学にレンタルされることになった。

1928年(昭和3年)建設

・阪本小学校(中央区日本橋兜町15-18)
2008年現在も小学校の現役校舎として使われている。なお、本校は1873年に「第一大学区第一中学区第一番小学阪本学校」として開校した、都内最古の小学校のひとつであり、文豪谷崎潤一郎の母校としても知られる。北側に隣接して阪本町公園がある。
・十思小学校(中央区日本橋小伝馬町5-1)
小学校としては廃校になり、中央区の施設「十思スクエア」として使われている。東京都選定歴史的建造物に認定されている。東側に隣接して十思公園がある。
・早稲田小学校(新宿区早稲田南町25)
2008年現在も小学校の現役校舎として使われている。東京大空襲では4分の3が損害を蒙った。
・下谷小学校(台東区東上野)
1990年に清島小学校と統合し閉校。その後は、近隣にある岩倉高等学校の代用校舎としてなど、活用されている。

1929年(昭和4年)建設

・常盤小学校(中央区日本橋本石町4-4-26)
2008年現在も小学校の現役校舎として使われている。東京都選定歴史的建造物に認定されている。西側に小規模ながら常盤公園が隣接している。
・泰明小学校(中央区銀座5-1)
2008年現在も小学校の現役校舎として使われている。東京都選定歴史的建造物に認定されている。東北東側に小規模だが数寄屋橋公園が隣接している。
・城東小学校(中央区八重洲2-2-2)
建設当初は「京橋昭和小学校」。2010年現在も小学校の現役校舎として使われている。

1930年(昭和5年)建設

・黒門小学校(台東区上野1-16-20)
2010年現在も小学校の現役校舎として使われている。
・明化小学校(文京区千石1-13-9)
2013年現在も小学校の現役校舎として使われている。2014年度には140周年を迎える。

1932年(昭和7年)建設

広尾小学校(渋谷区東3-3-3)
2008年現在も小学校の現役校舎として使われている。東京都選定歴史的建造物に認定されている。建築当時は校舎の隅に消防署が併設され、消防車用の車庫と望楼が組み込まれた(1947年に消防署は移転)。様式はインターナショナル・スタイル。

1934年(昭和9年)建設

四谷第五小学校(新宿区新宿5-18-21)
2008年から、よしもとクリエイティブ・エージェンシー東京本部として使われている。日本におけるDOCOMOMO150選。改築小学校。

1935年(昭和10年)建設

高輪台小学校(港区高輪2-8-24)
2008年現在も小学校の現役校舎として使われている。耐震性能などの向上を目指した全面改修工事が行われている。東京都選定歴史的建造物に認定されている。いわゆるモダニズム系のデザインであり、あまり古い建物には見えない。なお、本校校舎も狭義の「復興小学校」には含まれない(震災後に開校したため)。

建設時期不明

・京華小学校(中央区八丁堀3-17-9)
小学校としては廃校になり、中央区の施設「京華スクエア」として使われている
・窪町小学校(文京区大塚3丁目)
2006年現在も小学校の現役校舎として使われている。耐震性能などの向上を目指した全面改修工事が行われている。なお、本校校舎は狭義の「復興小学校」には含まれない(「改築小学校」にあたる事例)。

「言問通り」を挟んで。校舎の通り側に面した全景。
 上記に引用した「Wikipedia」とは少し異なっていて、1996(平成8)に廃校となってからも、区の施設として利用されており、現在は都の教職員組合や東京都美術館リニューアル準備室が入居して、現役中。
 ただ、外見からはあまり手を入れた様子もなく、このまま朽ち果てる(撤去、解体される)のを待つ、という感じがしないでもなかったが。
正門の門柱には、しっかりと校名が。
正面玄関。校章も残っていました。
階段室。
玄関のアーチ。
入口や階段室にアーチ状の造形を持つ。復興小学校のひとつの様式。
円柱が並ぶ外壁。
校庭側(南西側)から。コの字型の校舎配置。
体育棟?
東側の校舎側面。
校舎裏手の小道。
ツタ、雑草で覆われた建物。
あえて手を入れないのか。
しっかりした鉄筋造りの建物のようだ。
「都教組台東支部」とあった。
正門前の通り。向こうの広い道路が「言問通り」。右が入谷交差点。左へ行くと、JR鶯谷駅方向。
「言問通り」から入谷方向を望む。校舎の向こう遠くにスカイツリー。
 JR線からも近く、また、言問通りと国道4号線(昭和通り・日光街道)という交通量の激しい交差点から、道一歩入ったところにある、古き「近代」の趣。


1970年代のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
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小島公園。旧小島小学校。Taito Designers Village。(震災復興52小公園。その11。)

2013-10-26 21:51:24 | 震災復興小公園
 小学校の校舎がその当時のまま残っている復興公園を訪ねました。
(注:校歌は、「www.maroon.dti.ne.jp/~satton/kyouiku/kojimael.html‎」より引用)

⑩小島公園
公園の東側。大きな広場があります。
 台東区内の震災復興小学校の一つ、「小島小学校」は、現在も残っています。既に廃校にはなっていますが、今でも活用されている建物の一つ。
「旧小島小学校」の南側に隣接する復興小公園「小島公園」から撮影したもの。

 当時は、「学校・公園」という考えのもとにつくられ、連続して使えるようになっていました。今でも墨田区や江東区内の小学校ではこうした考えが残っているところもあります。しかし、ここではそれぞれ独立している印象。
校庭の一部は、民間の時間貸し駐車場になっています。公園との間には出入り口がありますが、常時、使われているようなようすはありません。


正面玄関。庇に「Taito Designers Village」と。併設として「小島アートプラザ」。

 台東区の地場産業であるファッション・雑貨産業の活力、競争力を高めるため、平成15年の統廃合によって使われなくなった小島小学校の1、2階部分を改修して、ファッション関連のデザイナーのための創業支援施設とした転用事例である。
 事業・運営計画としては、台東区産業部経営支援課とインキュベーションマネージャー(通称:村長)が核となり、入居者のニーズにあわせて最適な企業等を紹介できるコーディネート能力や新たなビジネスの展開をサポートしている。
 入居者はおもに靴、鞄、バッグ、ベルト、帽子、アクセサリー、ジュエリーにアパレル等を加えたファッション・雑貨産業を中心としたデザイナーである。入居期間は、3年以内(ただし、最長5年まで延長可)で、現在18組のデザイナーと早稲田大学映像コミュニケーション研究所、早稲田大学ヒューマンリソース研究所、東京藝術大学が入居中である。
 そして、早稲田大学・東京藝術大学との連携を図り、産学公交流事業を展開することで、地域住民との交流を深め、手作り教室や入居者の作品展示会などのイヴェント等を企画しながら、産業と地域を結ぶ核としての役割を担っている。

(以上、「forum.inax.co.jp/renovation/archives/053taito/053-summary.html‎」より。)




1970年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。上の大きな赤丸が白鴎高校(旧・府立第一高女)、下の赤丸が「小島小学校」「小島公園」。「白鴎高校」も中高一貫校に変わり、中学校の校舎が別の場所に出来ています。


半円柱状(丸い搭状)の外観。運動場に面した南西の角。

 この部分は各階には半円形のトイレがあるとのこと。見上げると、屋上は完全な円形で、物見塔(火の見櫓?)のようになっています。とてもユニークな発想。回り階段用の構造なのかと思ったが違っていました。
見上げると、意外と存在感がある。
西側の校舎。
正門脇の「小島小学校」のモニュメント。校舎の写真と校歌の一番。当然ですが、現在と変わりありません。上部の円形の部分がはっきり分かります。
これは、「台東区立上野小学校」のシンボル・時計台。上部の構造が物見のようになっていて、雰囲気が似ています。
別の角度から見上げたもの。
 余談ですが、この「上野小学校」。清島小学校の跡地につくられ、清島小と下谷小との統廃合でできた小学校。旧清島小の校舎は、震災復興校舎の一つでした。戦前、コの字型に囲まれた校庭の一部をプールにしたようです。
その当時のプールにて(「上野小」HPより)。

 「旧校舎」内に入る時間のなかったのが、残念!

 廃校直前に、校舎訪問をする機会のあった
廃校 リノベーション(renovation) 旧小島小学校|いろいろずかん - Ameba」(ameblo.jp/tatemonoxxx/entry-10542453280.html‎)さんのブログから貴重な写真をお借りします。
内部のようす。
手洗い場。



 「復興小学校」であった「入谷(坂本)小学校」の校舎もそのまま現存されているそうです。入谷インター近く、鬼子母神の脇の辺り。また、JR浅草橋駅近くの「柳北小学校」(隣接「柳北公園)の校舎の一部も現在、活用されているようです。

 さらに重要なことは、台東区内では「震災復興小学校」(注:公園を隣接しない。従って、「震災復興52小公園」ではない。)校舎が二校、「黒門小」と「待乳山小(現東浅草小)」が現在も校舎として使われていることです。
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松葉公園。マッピー。西町公園。統廃合。(震災復興52小公園。その10。)

2013-10-25 20:33:51 | 震災復興小公園
 引き続いて、台東区編。
⑧松葉公園


中心となる広場。
公園の一角に竹林。なまこ壁。興趣あるあつらえ。
 日本では1928(昭和3)年に始まったラジオ体操。戦中戦後には休止されていたのが、戦後、1951(昭和26)年に再開したのが、ここ松葉公園だったそうです。

道路を挟んで西側に「松葉小学校」。公園とは切り離されている。校舎は、ユニークな建物と色彩。

 「松葉小学校」のHPはなかなかおもしろい。
松葉小学校マスコット : マッピー。ゆるキャラ?
 「学校の歴史」から何枚か写真を引用させてもらいます。
関東大震災震災の頃の路面電車の路線図。「菊屋橋」の一つ上、「松が谷一丁目」が最寄りの停留所。
震災復興校舎。鉄筋コンクコンクリート造り(現校舎の前にあった校舎)。震災直後は、テント張り、バラック校舎での授業になったそうです。
東京大空襲後のようす(河童橋道具街)。


⑨西町公園

 「区立西町小学校」は、1998年統合で廃校になり、跡地には、永寿総合病院が建っています。


東側から。きちんと整備された公園という印象。
上野や御徒町からも近く、行き交う人々が多い。右(北側)が病院の建物。
大きな広場。遊具は一般的。

 ところで、台東区立小学校の統廃合(「Wikipedia」による)

・台英小学校(1976年廃校。山谷地区の長期欠席児童のための学校として設置)
・清島小学校(1990年下谷小と統合し台東区立「上野小学校」へ)
・下谷小学校(1990年清島小と統合し上野小へ)
・竹町小学校(1990年二長町小と統合し台東区立「平成小学校」へ)
・二長町小学校(1990年竹町小と統合し平成小へ)
坂本小学校(1996年台東区立「大正小学校」へ統合)
西町小学校(1998年上野小へ統合)
・育英小学校(2001年柳北小と統合し台東区立「台東育英小学校」へ)
柳北小学校(2001年育英小と統合し台東育英小へ)
・田中小学校(2001年待乳山小と統合し台東区立「東浅草小学校」へ)
・待乳山小学校(2001年田中小と統合し東浅草小へ)
小島小学校(2003年統合により台東区立「蔵前小学校」へ)
・済美小学校(同上)
精華小学校(同上)
台東小学校(2005年在校生を台東区立「金曽木小学校」に移動して廃止)

注:赤色が復興小学校・公園。

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山伏公園。金竜公園。千束公園。(震災復興52小公園。その9。)

2013-10-23 19:45:44 | 震災復興小公園

⑤山伏公園


公園脇にある町会事務所「山伏会館」。

山伏町
 享保九年、牛込山伏町(現新宿区)から出火し付近一帯が焼失し、本多邸が公収された。その代地として町屋が造られた。幕末には黒鍬組屋敷、燈明寺門前、その他武家屋敷が建ちかなり開けていた。明治2年下谷山伏町、同44年山伏町となった。昭和40年の改正で大部分が北上野2丁目となり、一部東南隅の地が同1丁目になった。

1880年(明治中期)代のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)武家屋敷の雰囲気が残っている。

 現在、北側の区立駒形中学校の敷地と隣接し、公園の一部は、駒形中のグランドになり、当初の時よりも小さくなってしまいました。

 学校と公園とは数奇な歴史があるようです。(「www.maroon.dti.ne.jp/~satton/kyouiku/komagatajr.html」より引用。)‎

【万年小学校と駒形中学】
 駒形中学校の用地と歴史は、明治33年大正天皇(当時皇太子)のご成婚記念として下賜された教育賜金により、時の東京市長、松田秀雄の計画で市内の細民教育機関として同35年12月、当時の万年町2丁目に万年尋常小学校として設立されたことに始まる。
 当時の小学校は区立だったが、万年尋常小学校のみは東京市直轄であった。皇室より慰問、お手許金の下賜などを受けて恵まれない境遇にある子弟の教育に貢献してきた学校である。
 校長は創立の為、寝食を忘れて尽力し開校にまでこぎつけ、21年間校長として心血を注いで教育に当たり、町の信頼は勿論、教師の鑑とされた坂本竜之輔である。
 万年町2丁目(現北上野1丁目)にあった万年小学校は関東大震災で焼失し、旧校舎跡地にバラック校舎を建て授業を再開したが、、大正15年東京都から下谷区に移管され、上野尋常小学校と改称し、特殊教育学校としての存在に終止符がうたれた。校名改称に際して、上申書にはつぎのように書かれている
大正十五年五月五日    東京市長 中村是公 印
東京府知事 平塚 廣義殿
校名変更ノ件申請
本年四月一日区に移管セシ本市万年尋常小学校々名を左記の通変更致度候條御認可相成度及申請候也

一、東京市上野尋常小学校
変更理由
本市万年小学校は細民学校トシテ一般社会ヨリ擯斥セラルル傾向アリ為ニ教育上支障不尠モノアルヲ以テ移管ト共ニ普通小学校タルノ実を示スベキ名称ヲ附スル必要アルヲ以テナリ
 昭和3年に、震災前まであった山伏小学校跡地に上野尋常小学校として移転、鉄筋コンクリートの新校舎が落成したが、昭和20年3月の東京大空襲で廃墟と化し、上野尋常小学校も消滅した。

・・・山伏公園脇に、特殊教育の先駆者で、万年小学校校長坂本竜之輔像がある。

 駒形中学校のHPには次のような沿革が載せられています。

昭和 22. 4. 1 台東区立駒形中学校、松葉小学校内に開校
   31. 4. 1 台東区立金竜小学校内に第2分校設置
31. 9. 1 台東区山伏町46番地(現在地)に校舎移転
32.11. 6 校歌制定(独立校舎完成記念)

公園から望む駒形中学校。公園と校庭とはしっかりと仕切られています。この中学校は運動系が盛んのようで、大きなグランドを所有しています。
1970年代のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より。)まだ、校舎が北に移転する前。「山伏公園」もかつてのように広い。
ボールが飛び出さないように高くて厳重なネット。
手狭な公園内。
公衆トイレ。
そして、しっかり藤棚が。

⑥金竜公園


 1986(昭和61)年、100mほど北の現在地に移転。その跡地には、 2001(平成13)年、「台東区生涯学習センター(「区立中央図書館」)」が建設されました。

1970年代のようす。(「同」より)
 金竜小学校が北に移り、跡地に「台東区生涯学習センター」が建設される以前のようす。
「図書館」の南側に公園が広がる。運動広場がメインのため、遊具類も少ない。「図書館」との有機的なつながり、たとえば、テラスを設けるとか、緑を増やし、視界を豊かにするとかの工夫があってもよかったのではないか。
遊具類。
この円形の藤棚はヒット作。

 自然環境は、「言問通り」をはさんで北側、大きな敷地をもつ「金竜小学校」の方が充実しているようです。

(「金竜小」HPより)
 豊かな自然環境の中で学んできた金竜小学校に、地域の人たちが子どもたちの教育環境をさらによりよくしたいという願いから、平成14年11月にビオトープ『金竜の里』ができあがりました。これは、ビオトープができたことで自然とふれあう環境は充実させることができました。 ビオトープの開園式で児童会で私たちは自然を保護できる人になります。私たちは自然を復元できる人になります。私たちは自然と共生できる人になります。表しました。私たちは、この恵まれた環境を生かして自然・環境についてさらに学習していきます。


 また、「金竜小学校」の長い歴史の中で、「関東大震災」と「東京大空襲」は特記すべき事項でした。

(「金竜小」HPより)
 大正12年9月1日午前11時58分、関東地方は大地震に襲われました。地震の大きさは震度六というはげしいもので、人々は立っていられないほどのゆれを感じたのです。ちょうど昼ご飯の支度で、火を使う時刻でした。家が傾いたり、こわれたりすると同時に、あちらこちらで火事が発生し、みるみるうちに火は広がりました。関東大震災で起きた火事は、3日間も燃え続けました。
 そのために、たくさんの家が焼け、多くの人が焼け死んだ のです。ひ害は大きく、当時の浅草の町は、96パーセントが焼け野原になりました。そして、3千人近い人々が命を落とし、たくさんの人々が、ゆくえ知れずになったりしてしまいました。 金竜小学校は悲しいことに、木造校舎の西側から火がついて焼け落ちてしまいました。
このような猛火の中において、浅草寺と伝法院は、奇跡的に焼けおちずに助かったのだそうです。
 昭和3年鉄筋コンクリート造り、3階建ての校舎が完成しました。バラック校舎や仮校舎での不自由な勉強が、約6年間続いていたのですから、この校舎の完成を、子どもたちはどんなに待ち望んでいたことでしょう。 当時としては台東区で一番の、東京でもめずらしい立派な校舎でした。その校舎で学べることを、子どもたちはほこりをもって通学したそうです。教室は明るく、冬はスチーム暖房の設備も整っていました。子どもたちはお弁当を乗せて、暖めて食べるのを楽しみにしていたそうです。
 そのころ、子どもによい童話を聞かせたいという先生方の願いから、『金龍童話会』が誕生しました。この童話会は昭和18年には130回ほどにもなっていました。先生方の努力で学童疎開の前ぐらいまで続けられました。 また、同じころ、子どもたちの剣道部がつくられ、猛練習を重ねた結果、昭和の初めから、戦争が激しくなる昭和17年ころまで全国に『金龍剣道部』の名声をとどろかせることができました。 このころの金竜小学校は、一つの組には5、60人くらいの子どもがいました。中には70人近くいた組もありました。また、給食はなく、お弁当を学校に持ってきていました。世界恐慌のまっただ中で、そのお弁当のおかずは粗末なものでした。
 太平洋戦争は終わりましたが、浅草地区は焼け野原となり、9343名もの尊い命が失われ、家を失い、家族と死に別れた人もたくさんいました。金龍国民学校は、多くの人たちの必死の消火活動により、焼失をまぬがれ、11月12日には53名の児童が集まり、学校が再開されました。22年3月14日、宮城県に集団疎開していた児童も全員無事に帰ってきました。21年4月123名、10月には242名と増え続け、教室、机、椅子が足りなくなり、二部式授業になりました。
 21年11月、日本国憲法が公布されました。戦後の教育は憲法の民主主義の精神を取り入れ、戦前の神話や伝説による国の成り立ちや戦争に関わる文章がなくなり、考古学や庶民の歴史なども多く取り入れた教科書になりました。学校も金龍国民学校から金竜小学校と改められました。
・・・

⑦千束公園


千束小学校との境はあるが、開放的な印象。
我が子の姿を見ているのだろうか、親たちがフェンス越しに校庭を眺めていた。

 千束小学校の児童数は、現在、200名ほど。1学年1学級ということになる? 小規模校故の良さも悩みもありそう。
 台東区(のみならず)、都内(一部の地域を除き)では、児童数の減少により公立小学校・中学校の統廃合がどんどん進められている。浅草の繁華街にほど近いこの小学校。今後はどうなるのか? 気になるところです。
広い運動広場。放課後や休日は大勢の子ども達で賑やかに(なってほしい)。今は、鳩たちが。
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台東区立石浜公園。富士公園。猿若町。(震災復興52小公園。その8。)

2013-10-22 21:36:47 | 震災復興小公園

③石浜公園 
墨田区でも台東区でも、公園の広場が、朝のラジオ体操の場所になっているところがほとんど。
 さらに、台東区内では地元の方の長寿を寿ぐ記念樹が必ずあること。とてもいいことですね。
 
隣接する「石浜小学校」とは植え込みがあって、ほぼ独立した公園となっています。
 ここに校庭との出入口がありました。公園を利用することもあるようです。

「石浜小学校」

 明治40年創立。校舎は長らく震災復興校舎(昭和2年竣工)を使用していたが、昭和50年に新校舎に建て直され、現在に至る(平成元年~3年にかけて改修あり)。当時大理石を多用した造りは極めて珍しく、入り口のロビーや階段はまるで銀座のデパートのようであった。・・・

明治40年6月15日 - 創立(浅草・富士・千束・待乳山の各小より4学年男女で492名)
大正12年 - 関東大震災により、校舎全焼。犠牲者教師2名、児童28名。
昭和2年 - 鉄筋校舎が完成する。
昭和16年 - 東京市石浜国民学校と改称する。
昭和18年 - 東京都石浜国民学校と改称する。石浜少年団を結成する。
昭和19年 - 宮城県に学童疎開する。
昭和20年3月9〜10日 - 空襲により校舎全焼する。・・・
(以上、「Wikipedia」より。)

 ここにある「昭和2年鉄筋校舎」が「復興小学校」としての校舎でした。戦災後も使用していたが、その後取り壊され、新校舎になっています。
当時の校舎。(「www.maroon.dti.ne.jp/~satton/kyouiku/isihamael.html」より引用。)生徒数も大勢いたことが分かります。その後、戦争の激化とともに学童疎開、さらには東京大空襲で全焼と辛酸をなめてきました。

中央に運動広場。東側に遊具施設。
藤棚。
スカイツリーを望む。
 この公園だけでなく、「復興公園」には、きれいな公衆トイレが必ず設けられている。「藤棚」とともに建設当時のコンセプトは継承されているようです。

④富士公園


1970年代のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より。)中央が「富士小学校」と西側にある「富士公園」。

公園の北側に浅草警察署の大きな建物があって、公園が手狭な印象。
東側に「富士小学校」。公園の一角には民家もあって、ますます狭くなっています。

道路を挟んだ東に「富士小学校」。正面が道路側にあり、公園とは独立した存在となっています。

「Wikipedia」によると、

 1923年、新校舎を9月1日に落成する。東洋一の校舎と評される素晴らしい校舎だった。しかし始業式を午前中行ったのちに大地震(関東大震災)が発生。半日通っただけで灰と化してしまう。
 
 とあります。
その時の校舎?(「富士小」HPより。)

砂場を覆うように「藤棚」。

 富士山を模した公衆トイレに入ってきました。


 ついでに、「猿若町」。


「江戸猿若町市村座跡」。
「猿若座由来記」。

 天保期、一丁目に中村座、二丁目に市村座、三丁目に河原座(のち守田座となる)があって、わが國始めての芝居町を形成していた。これがいわゆる猿若三座である。猿若は江戸役者の始祖猿若勘三郎に因んだ町名で・・・

明治中期の猿若町。(「今昔マップ」より。)
現在は、「浅草六丁目」の一角。(「同」より。)





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台東区立東盛公園。一葉泉。玉姫公園。(震災復興52小公園。その7。)

2013-10-21 21:25:21 | 震災復興小公園

 台東区は、墨田区、江東区と同様、東京大空襲でほぼ壊滅的被害を受けました。
 そのため、多くの復興小学校、また公園も外形を残して焼失しました。戦後、再建されて位置の変わらない学校も多くありますが、校舎や公園も、かつての痕跡をとどめていません。そういう中で、現在も、建設当初の「学校+公園」という考え方は残っているのでしょうか。
 ご多分にもれず、この地域も児童数の減少により、学校の統廃合がかなり進んでいます。統合、廃校、・・・、
学校名も変わっています。そういう状況の中で、果たして「復興小公園」は、どうなっているか?

①東盛公園
明治通りと日光街道の交叉する手前を斜め左に入ったところ。
西に接する小学校の校名は、「東泉」となりましたが、公園名は「東盛公園」。きちんとよく整備された広い公園。
樹木は周囲にあるだけ。かなり大きい広場。学校に接する一角が「球技スペース」。

 この小学校、かなり歴史の古い学校です。(以下、学校のHPより。)

 創立は、明治 21(1888). 5.10。(ということは、今年で、創立125周年)
 東京府北豊島群竜泉寺村112番地に公立東盛小学校として開校。当時、この地域は北豊島郡といい学区域は、竜泉寺村、坂本村、日暮里村、金杉村、千束村の一部の五か村であった。
「東端の隆盛ト云フ意味ヨリ東盛ト命名ス」と記録にのこっているとおり、将来ますます盛んに発展するようにとの願いから名付けられた。
昭和21年竜泉国民学校と合併し、東盛の「東」と竜泉の「泉」の一字ずつをとり「東泉」とし、東の方の、ますますの隆盛を願った学校が、竜泉を得てとうとうと人材をわき出す学校になることを願って名付けられた。

 この小学校には、なんとオーケストラがあります。(以下HPより。)

 東泉オーケストラは昭和44年に創設されました。今年で44年目を迎える歴史あるオーケストラです。情操豊かな児童の育成を願って、その当時のPTA役員と東泉小学校の教師が力を合わせて、この音楽クラブを誕生させたと言われます。音楽に夢中になっている子ども達を見守る地域の温かい眼差しと、健やかな成長を願う家庭の保護者の熱い思いは今も変わりありません。
 創設当初は鼓笛隊に金管楽器が加わった形でスタートし、「ブラスバンド」と呼ばれていましたが、楽器の編成も充実していき、10年後に弦楽器も加わって「オーケストラ」となりました。入団する子どもの人数も増えてきて活動も盛んになり、毎年行う校内の演奏発表は定期演奏会として位置づけられ、また、TBSコンクールに出場したりした時期もありました。学校創立110周年の節目の年、平成10年は東泉オーケストラ創立30周年にもあたり、第30回定期演奏会を浅草公会堂で盛大に行うまでになりました。
 東泉オーケストラは東泉小学校の特色ある教育活動として位置づけられ、校内組織の中のオーケストラ推進委員会が企画、運営し、音楽専科が実際の音楽指導にあたっています。また団員児童の保護者は父母会を組織し、予算的な支援と演奏会の手伝いを行っています。
 平成20年度には、学校創立120周年、「東泉オーケストラ」創立40周年にあたり、第40回定期演奏会を浅草公会堂で行いました。
 平成21年度末には、東京ドームのプロ野球セ・リーグ開幕戦の開幕セレモニーに出演して演奏をしました。
 
 「吹奏楽」はあちこちにありますが、小学生のオーケストラとは、びっくり。

校庭との境は、開閉が出来るフェンス。学校+公園という初期の目的は残されているようです。

ちょっと寄り道。
「一葉記念館」。
「樋口一葉旧居」碑。
 この一帯、3月10日の東京大空襲によって壊滅し、菊池寛が文を寄せた記念碑も溶解。そこで、昭和34年3月、小島政二郎の文によって再建された。その碑。
佐佐木信綱揮毫の「一葉女史たけくらべ記念碑」。


一葉記念館そばの「一葉泉」が取り壊し作業中。
より。
 昭和30年代の創業。入り口正面に向かって左側に陸中海岸を描いたペンキ画が目印。脱衣所と浴室内は昔ながらの造作と高い天井と、浴槽の上に描かれた富士山のペンキ画がより一層癒し感を増幅させてくれます。湯上りはロビーでくつろいでみませんか?
陸中海岸のペンキ絵も壊される寸前。(写真は、「HP」より。)
「一葉泉」と描かれた煙突。
跡地はマンションになるとか。

②玉姫公園


 道路を挟んで西側に隣接していた学校が「蓬莱中学校」。

「www.maroon.dti.ne.jp/~satton/kyouiku/houraijr.html」より。

 江戸三名園のひとつ蓬莱園に生まれ、忍岡高校に同居、台東商業高校を経て歴史を刻んできた蓬莱中学校は、平成14年4月に、今戸中学と統合して桜橋中学になった。
☆明治38年4月 前身の正徳小学校が玉姫町に、東京市直営の特殊学校「玉姫」として開校
☆大正15年 玉姫が東京市から浅草区へ移管され、同時に普通学級となり、正徳小学校と改称する
☆昭和16年 国民学校制とともに正徳国民学校と改称
☆昭和20年3月 東京大空襲で全焼する。戦後は廃校となり、校舎には被災者が住むようになる
☆昭和22年4月 都立忍岡高校内で新制蓬莱中学校が開校する。忍岡高校敷地が江戸三名園(後楽園、六義園、蓬莱園)のひとつである旧蓬莱園の跡地であることから、蓬莱中学校と名付けられた。校章の銀杏は、蓬莱園にあった公孫樹(大銀杏)に由来する。開校当時の生徒数は、男女合わせて87名。
☆昭和23年4月 新1年生108名が入学し、1年生は分校の柳北小学校に、2年生は忍岡高校に分かれて授業をした。
☆昭和25年4月 本校を山谷堀校舎(現在の都立台東商業高校)に移し、分校を都立忍岡高校内に置く。
☆昭和27年4月 本校を旧正徳小学校跡に移転、分校を台東商業高校内に置く。9月には全校生徒が1つの校舎(現校舎)で授業を受けるようになった。11月、創立5周年記念式典が挙行され、この時校歌制定が発表される。
・・・

 「正徳小学校」跡地→「蓬莱中学校」→「桜橋中学校」。
 ここも東京大空襲で壊滅した地域。戦後、小学校は、廃校になってしまった。「玉姫」のいわれは、公園の南に「玉姫神社」があることによる。

大きな運動場があるが、厳重な囲い。北側の公園の一角では、将棋などを楽しんでいる人たち。
「蓬莱中」跡地には、「老人ホーム 浅草ほうらい」。


 ここは、かつての「山谷」地区。「清川」となって「山谷」という地名・名称はなくなった。

 山谷(さんや)は東京都台東区・荒川区にある寄せ場(日雇い労働者の滞在する場所、俗に言うドヤ街)の通称(旧地名)。
 元々は日光街道の江戸方面の最初の宿場で、明治初期から政府の意向で市街地の外れの街道入口に木賃宿街が形成され、吉原遊郭の客を送迎する車夫等、戦前より既に多くの貧困層や労働者が居住していた。
 戦後、東京都によって被災者のための仮の宿泊施設(テント村)が用意され、これらが本建築の簡易宿泊施設へと変わっていった。まもなく高度経済成長期が到来すると労働需要の高まりに対応し、日本有数の寄せ場として発展した。1961年には簡易旅館約300軒が建ち並び、労働者約2万人が集まる居住地となった。
 1960年代以降、この地域に新設された山谷地区交番(通称「マンモス交番」、移転した後現在は「日本堤交番」に改名)の警察官との間で数千人規模の暴動(山谷騒動)が複数回発生した。
 1969年、フォーク歌手・岡林信康が日雇労働者の悲哀を歌った『山谷ブルース』を発表した。
 1984年と1986年には、この地区で暗躍する暴力団(金町一家)と労働者の闘争を描いたドキュメンタリー映画『山谷(やま) - やられたらやりかえせ』を製作した監督2名が暴力団(日本国粋会)の組員によって相次いで暗殺される事件が起こった。
 2002年のFIFAワールドカップ日韓大会の頃から、外国人旅行者が山谷地区の宿泊施設を利用するケースが見られるようになった。その後も料金が安いことや(諸外国の安宿街に比べて)治安が良いこと、最寄り駅である地下鉄南千住駅からは日比谷線一本で「上野」「秋葉原」「銀座」「六本木」などの観光スポットに行けることから更に外国人利用者が増加し、それに伴い施設側の外国人への対応も進んだことから、「外国人向けの安宿のある町」として定着し、往年のイメージから変貌している。
 英語表記の案内を施設内に充実させるなど簡易宿泊施設のオーナーらには外国人利用者の利用を促進したいという動きがみられる他、真新しい新築の簡易宿泊施設も次々と登場している。さらに近年では休みを利用した都内に旅行やイベントに来る国内外の若者が簡易宿泊施設を利用するケースも見られるようになっている。
(以上、「Wikipedia」参照。)

 TV番組の「出没!アド街ック天国」でも、2011年に取り上げられた。
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永倉公園。日進公園。茅場公園。三四郎。(震災復興52小公園。その6。)

2013-10-16 22:05:04 | 震災復興小公園

 ついでにすでに墨田区内で消滅した公園の痕跡を二カ所を訪ねました。

①永倉公園
区立竪川中学校。旧日進小学校(のちには本所小学校)跡地。昭和46年、校庭を拡張するために、南側にあった公園がなくなった。
 ちなみにgoo昭和38年の航空写真には、中学校の南側に公園が写っています。
1970年代のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)校地拡張のため、南側にあった公園部分も工事中。赤丸のところ。

竪川中と「三つ目通り」との角地にある公衆トイレには、「永倉」という表示が。旧本所区永倉町。JR線路を挟んだ狭いエリア。
ガード下の細長い地域に学校と接して公園があった。

 「日進小学校」は、復興公園の北側に併設された小学校。元・三笠小学校。
 1916年4月、日進尋常小学校に改称、1928年6月、高等科を併置、1945年、空襲で校舎全焼。

「日進公園」。右の建物は、軽音楽の練習など地域のコミュニティーセンターとして存在する「家庭センター」。
 昭和46年に竪川中の校地拡張のため消失した「永倉公園」の代替として公園をつくり、「日進」という名を付したようです。
高い樹木も多く、花壇などもよく整備されている。コンクリート製の段差など変化に富む。子どもの遊具類が目立たないのはかえって、いい。隣の「家庭センター」と敷地が一緒。
関係図。トイレの位置を中心に。(墨田区公式HPより)

②茅場公園
 戦後、区画整理で消滅(代替公園江東橋公園)。今や賑やかな飲食街の一角。「丸井」、かつてかなり大きい都電の車庫だったところの裏手。代替の江東橋公園は少し西に行ったところ。都立両国高校の近くに位置。ただ、学校は廃校になったが、しばらく校舎は残っていた。

1970年代のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
 右の大きな赤丸が旧茅場小学校校舎。その上が、都電車庫(現「丸井」)。西側の公園はすでになく、代替の公園「江東橋公園」が左の赤丸。左上は都立両国高校の旧校舎。すでに周囲はびっしり建物に囲まれている。

パーキングタワーと隣のマンションが校舎跡地?
両国方向から続く「馬道通り」に面していた。
左の雑居ビル付近が公園跡地?
その近くにある、古くからの居酒屋「三四郎」。ここの女将ならこのへんの昔のことはよく知っているはず。
江東橋公園。芝生の養生をしていた。思ったよりもこぢんまりとした公園。
墨田区内の公園はどこも禁煙はもちろん、禁止事項が多い。

江東橋公園近くのビルのガラス壁に映るスカイツリー。

 機会があったら、台東区内を探訪してみます。学校の統廃合によってなくなった学校校舎もあるようです。古い校舎も解体されない前にぜひ。
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墨田区立中和公園。菊川公園。(震災復興52小公園。その5。)

2013-10-15 20:21:07 | 震災復興小公園
 ちょっと想像していたような公園ではなかった(学校と公園との一体的な利用など)ので、少しがっかりしながら、残りの二つに向かいました。ところが、「中和」も「菊川」も建設当時の考え、一体化がまだ残っていたのです。

①中和公園


西側から望む。北側には「中和小学校」。
西側部分に遊戯施設。中央は広場。
公園との仕切りは、緑の大きな網。開閉が出来るようになっている。すでに放課後。指導員の元で数人の児童が遊んでいた。中和小の屋上、「創立139年」と。墨田区内で現存する小学校の中では最も古い歴史をもつ小学校。
 HPにある「沿革」によると、

 明治5年学制が頒布、近代的な学校制度が始まり、弥勒寺を借りて「育幼社」という名で学習をしていた。そして、明治7年に第六学区一番土屋学校の分校として開校、これが墨田区で一番の伝統と歴史のある中和小学校の始まりである。次の年、明治8年8月町の人たちの寄付金で木造の校舎が新築され、名前も改称された。親しまれている校歌は、♪夏は来ぬ♪の作曲者「小山作之助」である。滝廉太郎の才能を見いだして育てた作曲者でもある。また作詞家「中村秋香」は国文学者であり、宮内庁御歌所寄人をつとめた。
 
 とありました。

「中和」の由来は、「中庸」の内容からきている、とのことです。
 なお、「中和小学校」より更に古い公立(墨田区立)小学校は、昭和21年3月廃校になった「牛島小学校」(現・都立本所高校の敷地)。

東側から公園中央を望む。平日の授業中などでは、公園との仕切りを開け、校庭の延長として大いに活用しているのだろう。

 また、この地域一帯は「東京大空襲」で壊滅的被害を受けたところ。

 「比企の丘から」(「blog.goo.ne.jp/musshu-yuu/e/b9e4c844b81102293f59123fc9e42818」)に、海老名香葉子さんの本が紹介されています。引用させてもらいます。ここに、「中和小学校」のことが出ています。


「うしろの正面だあれ」(金の星社1985年刊)

 1933年東京下町の本所堅川(現墨田区立川)に生まれた香葉子さん。実家は「竿忠」という代々続く竿師・・・手作りの高級和竿を作る職人。曾祖父は1900年のパリ万国博に出品して入賞した名人。作家の長谷川伸、彫刻家の朝倉文夫、落語家の三遊亭金馬もお得意様だったようです。
 職人兼お店の主人、飛び切り金持ちではなく、たまに近所に気兼ねしながらスキ焼きを食べる程度、ごく普通の生活を営んでいたことが窺えます。優しい家族に囲まれて成長。下町娘ですから、近所の悪ガキと遊んだり、好きでない三味線を習わされたり、楽しかった思い出ばかりです。
 やがて日本は戦争に突入、1945年3月10日東京大空襲。静岡県の沼津に疎開していた香葉子さんのほかは東京にいた家族は避難した中和小学校で6人が焼死、三兄の喜三郎兄ちゃんだけ奇跡的に生き残ります。
 疎開していたおばさん夫婦の転勤で沼津から石川県の穴水町へ、おじさんの失業で中野のおばさんの家に、焼け跡からトタン、木材を集め作った三畳ぐらいの部屋、おじさん、おばさんと子ども、それに香葉子さんの4人で暮らします。
 1945年の暮れ本所堅川の実家の焼け跡に立ち、目をつぶり・・・そっと目をあけます。
   坊さん坊さん どこ行くの わたしは田圃に稲刈りに
   お前が行くとじゃまになる このかんかん坊主くそ坊主
   うしろの正面だあれ
ふり向いてもそこには母の姿も、友だちの姿も見えません。

・・・

 この他にも「東京大空襲」の大惨事・悲劇について、中和小の地域を含め、地域の子ども達に語り続けている方々がいるようです。後世、特に若い人々にしっかり語り伝えていかなければならないことです。

②菊川公園
菊川小学校との緑の仕切りは開かれ、体育の授業を行っていた。ハードルが公園内まで並べられてハードル走の練習中。
西側は遊戯施設。親子連れは、こちらのエリアの方で楽しむ。
小高い丘をしつらえて大型の遊具が置かれ、けっこう楽しめそう。
藤棚もあった。
木々もほどよく配置されている。校庭にもなる中央、東側の運動広場と遊戯施設がある西側とを明確に区分したかたち。
公園東入口付近からのスカイツリー。

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墨田区立横川公園。若宮公園。両国公園。(震災復興52小公園。その4。)

2013-10-14 21:20:37 | 震災復興小公園

 そこで、墨田区内にある、震災復興52小公園計画で実現した公園の現状をぐるっと一回り。

①横川公園

 横川小学校の南に接した東西に細長い公園。当初よりも校地を拡張したために細長く小さくなったのか?
公園側の校門。登下校時のみ開放する感じ。西側に遊具。東は広場。
広場は朝のラジオ体操の会場になっていて、その記念碑があった。
門柱の公園名?が削られていた。
 当時の遺構はなさそう。

②若宮公園
「若宮」という名称は、公園の一角に神社があることに由来。

 道路をはさんで西側には、「外手小学校」。この学校は、地元の方がつくった私立学校がはじまりとか。この地域は、石原寄りの隅田川に面する地域で、かつては「大川」(隅田川)の土手の外にあるために「外土手村」と言った。その後、「外手町」となった、そうです。「外手小学校」は、歴史・伝統のある学校のようです。



広場から南側を望む。正面が藤棚・テラス。
当時のパーゴラ(つる棚)の考え方はこうして残っていました。
樹木も植えられています。
北側の児童遊戯施設の隣には、簡単な運動器具がある広場が。
 ただ、車が通る道路をはさんでいるせいか、小学校との連関は薄いようです。

③両国公園(建設当時「江東公園」)


「両国小学校」(西側)と道路をはさんでいる。東側が公園。旧名は、「江東小学校」。)
勝海舟の生誕の地の碑。
由来碑。

 勝海舟は幼名を麟太郎といい、文政6年(1823)1月13日この地・男谷精一郎邸内で生まれた。剣は島田虎之助に師事し、蘭学海洋術を学び、万延元年(1860)幕府軍艦海臨丸艦長として太平洋を横断渡米した。
 慶応4年(1868)3月13日、高輪薩摩邸において、大統督付参謀西郷隆盛と会談し、江戸城の開城を決定して官軍の江戸進撃を中止させ、江戸百万の庶民を戦禍から救ったことはあまりにも有名な話である。
 明治32年(1899)1月21日、赤坂氷川町(港区内)の自邸で死去、行年77歳であった。墓は、洗足池畔に建立されている。
平成元年 墨田区 (幕府講武所剣術師範役
          元男谷邸跡)

藤棚。東側隅。
支柱に当時の雰囲気を残している。
段差をつけているところなど、かつてのパーゴラの面影を継承しているようだ。
広くて、樹木・灌木も多く、管理も行き届いているようす。京葉道路から少し南に入ったところの住宅に囲まれた公園としては、すばらしい印象。
公園入口付近から藤棚方向を望む。

 「両国小」との関連はあまりなさそうだったが、公園内のところどころに、「両国小」という立て札があって、植物の世話などを行っているようすがありました。建設当時の学校・公園という考え方を引き継いでいるのでしょうか。

 園内には、コンクリート製の半円系の遊具、ロッククライミングのミニ版(板)、海賊船の遊具、海賊の親分のブランコなど、広場のスペースや憩いのスペースなどけっこう多目的に施設が設置されており、子供たちが遊びに来るだけでなく、日中(昼休み)には、のんびりできる公園。
 昭和40年代に大改修を行ったとの碑がありました。
1970年代頃の様子。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)赤丸が「両国公園」。道路を挟んで西側が「両国小学校」。一番左(西)に見える半円形はかつてあった「日大講堂」。中央東西の道路は、「京葉道路」。交叉する道路は「清澄通り」。 
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