goo blog サービス終了のお知らせ 

おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

八丁堀。桜川。与力・同心組屋敷跡。(震災復興52小公園。番外編。その7。)

2014-01-04 22:22:38 | 震災復興小公園
 旧京橋小・京橋公園(現「京橋プラザ」)へ向かう前にちょっと寄り道。「京華スクエア」付近は、「八丁堀」。
 そこで、「八丁堀」別名「桜川」跡を探索しました。

「概念図」。

(「」H001八丁堀(はっちょうぼり=堀川の名称)、桜川(さくらがわ)編。homepage2.nifty.com/makibuchi-2/kyodoshi/.../rekisi_map_kaisetu.htm‎」より)
 赤い色の地域が「八丁堀」町。亀島川と日本橋川(北新堀川)に囲まれた地域が霊岸島。その中央の堀割が「新川」。




1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。上の図から下の図へとつながる。上の図で、左(西)の堀が「楓川(もみじがわ)」。中央の堀が「八丁堀」。「白魚橋」の西の堀は「京橋川」。南に屈折している堀が「三十間堀」。
 下の図。西から東に流れて合流する川が「亀島川」。
 「桜川」と呼ばれたのは、「楓川(もみじがわ)」に対応させたものか。「楓川」と「桜川」が交叉するあたり、「楓川」に架かる橋が「弾正橋」(現在、「鍛冶橋通り」にある「弾正橋」よりも少し南)。
現「弾正橋」。
弾正橋公園にある旧弾正橋(都内最古の鉄骨の橋)のモニュメント(本物は、深川八幡宮の東のところ現存。)

「鍛冶橋通り」沿いにあった案内図。黒い枠のところが「八丁堀(桜川)」。右の赤丸は「明正小」左上が「京華小(現京華スクエア)」左下が「中央小(旧鉄砲洲小)」。明治時代から現代まで堀割が埋め立てられた以外には、大きな変化はない。

「桜橋ポンプ場」。
道路を挟んで東側(下流)は下水道工事中。
「桜川公園」。埋め立てられ、公園や保育園、地域センターなどになっています。一方で、もともと水流があった堀割だったようで、上流と下流の二箇所に大きな下水道処理施設があります。

東西に幅広く長い公園。
保育園。正面が区の施設。建物の幅が水路の幅。かなり幅広い堀であったことが分かります。戦後も昭和40年代までは水運として賑わったようです。
亀島川合流地点にある「桜橋第2ポンプ場」。 
合流地点。コンクリートの護岸がかつての八丁堀の河口か? 奥に見える橋が「南高橋」。都内で二番目に古い橋。
「鉄砲洲通り」。

「京華スクエア」前に設置されている与力・同心組屋敷跡 説明板。現在の八丁堀から茅場町の一帯に組屋敷があった。

所在地 中央区八丁堀1~2丁目・日本橋茅場町1~3丁目の一帯。
 江戸初期に埋め立てられた八丁堀の地は、はじめは寺町でした。寛永12年に江戸城下の拡張計画が行われ、玉円寺だけを残して多くの寺は郊外に移転し、そこに与力・同心の組屋敷の町が成立しました。その範囲は茅場町から八丁堀の一帯に集中しています。
 八丁堀といえば捕物帖で有名な「八丁堀の旦那」と呼ばれた、江戸町奉行配下の与力・同心の町。与力は徳川家の直臣で、同心はその配下の侍衆。着流に羽織姿で懐手(ふところで)、帯に差した十手の朱房もいきな庶民の味方として人々の信頼を得ていました。
 初期には江戸町奉行板倉勝重の配下として与力10人、同心50人から始まってのち、南北両町奉行が成立すると与力50人、同心280人と増加し、両町奉行所に分かれて勤務していました。与力は知行200石、屋敷は300~500坪、同心は30俵2人扶持(ぶち)で、100坪ほどの屋敷地でした。
 これらの与力・同心たちが江戸の治安に活躍しましたが、生活費を得るため町民に屋敷地を貸す者も多く、与力で歌人の加藤枝直・千蔭父子や医者で歌人の井上文雄などの文化人や学者を輩出した町としても知られています。
 平成13年3月 中央区教育委員会

 「八丁堀」付近は、史跡に富んだところのようです。

この周辺には、近代的ビルの中に、戦前を思わせるコンクリート製の高層建物が残っています。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京華スクエア(旧京華小)。(震災復興52小公園。番外編。その6。)

2014-01-03 20:17:46 | 震災復興小公園
 さて、「京華スクエア」とは?

俯瞰写真。

 産業振興のためのハイテクセンターや、シルバー人材センター、京華コミュニティルーム、さらに早稲田大学エクステンションセンター「八丁堀校」などの施設を兼ね備えた京華スクエアは平成13年1月にオープンしました。

 この京華スクエアは平成5年3月をもって閉校した中央区立京華小学校、京華幼稚園の建物を再利用したものです。当初、跡地利用に当たっては取り壊しの話もありましたが、区の財政負担をできるだけ軽減して、地域の活性化を図る活用方法を検討した結果、既存校舎を改修し利用することとなりました。

 昭和4年完成のこの校舎が、新たに「京華スクエア」として生まれ変わることができたのは、建物の構造がしっかりしていたということも大きな理由の一つです。

 京華小学校は明治34年(1901年)に開校。校舎が大正12年(1923年)の関東大震災により全焼、教員の皆さんや生徒たちは仮校舎に移りました。この震災後当時の東京市は災害時の学校建築の重要性を認識し、東京市臨時建設局学校建設課の共同設計による「復興小学校」の建築を実行に移しました。
 中央区にはこの当時建てられた「復興小学校」が京華小学校を含めいくつか残されています。中央小学校、泰明小学校、明石小学校、城東小学校、常盤小学校、明正小学校、また「京華スクエア」同様、廃校後に区の複合施設となった「十思スクエア」の十思小学校などです。(注)

 「復興小学校」の特徴は、
•耐震・不燃のため鉄筋コンクリート造三階建
•地域とのつながりを持たせるよう公園を隣接
•災害の際の救助・救援活動の拠点となること
などが挙げられます。

「京華スクエア」の主な施設
●中央区立ハイテクセンター
●京華コミュニティルーム
●中央区シルバー人材センター
●中央交通事故相談所
●早稲田大学エクステンションセンター八丁堀校

(以上、「」を参照。写真も。)
(「おやじ」注:2013年末現在、「中央」、「明石」は、取り壊されて、新校舎完成、「明正」は新校舎建設中。また、上には載せられていないが、「阪本小学校」校舎は健在。)

「鍛冶橋通り」の向かい側から。曲線に特徴が。
防災拠点でもあるのでしょう、屋上には大きな拡声器が。
校庭側の側面。
西側校舎。
正面玄関の庇部分に特徴。


東側道路側の側面。
校舎角面の円柱状の柱。震災復興校舎に特徴的な形式。


少し手を加えた感じの校舎外壁。
敷地の外塀。コンクリート製で当時のまま?


 新年になってもまだまだ続きます。「旧京橋小」・京橋公園、さらに「城東小」・・・。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明正小。越前堀児童公園。(震災復興52小公園。その25。)

2013-12-31 18:11:25 | 震災復興小公園
⑧越前堀公園。明正小。

 「震災復興52小公園」の一つ、越前堀公園は、現在は、「児童」と付されているように、遊水池があって夏には水遊びができます。
「ECHIZEN LINE」と名付けられた豪華客船も浮かんでいる。真冬でも象が水浴び、ラッコも泳いでいる。脇には、ささやかだが恒例の藤棚も。
四阿風。史跡・記念碑などや緑も濃く大人もゆっくりと楽しめそう。

「明正通り」。
 道路を挟んで南側にあるのが「明正小」。公園との一体感はあまりなさそう。
「明正小」は旧校舎(震災復興校舎)を取り壊し、新築中。全面シートに覆われている。公園側から。
工事中の明正小から公園を望む。

新校舎は、2014年に完成予定。
校舎の印象が旧校舎の雰囲気を残しつつ、モダンな印象。
1927年に完成した「旧校舎」。保存・維持運動もあったようだが。
円形の部分はそのまま生かすようす。
かつての3階建てからみると、けっこうな高さ。

 取り壊す前の校舎の写真がコメントとともに「関根要太郎研究室@はこだて・fkaidofudo.exblog.jp/10731739
2009/04/07」に掲載されています(このblogにはすでにない震災復興校舎の「鉄砲洲小(現中央小)」「明石小」なども掲載されていて、貴重な写真となっています)。

 中央区内で、震災復興校舎当時から今も現役なのは、「泰明小」「常盤小」「城東小」「阪本小」などわずかになりました。また、当時の校舎を生かして他のものに転用・活用されているのが「十思スクエア」(すでに紹介済み)


と「京華スクエア」。
 そこで、次に八丁堀方向に向かい、「京華スクエア」へ移動します。

亀島川・高橋から隅田川方向を望む。
 奥の橋が「南高橋」(関東大震災で損害を受けた旧「両国橋」の鉄骨橋梁を再利用した。都内で車が通行できる橋として一番古い橋)。遠くの高層ビル街は隅田川河口の月島地区。


1980年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。赤丸が越前堀公園と明正小。矢印の橋が「高橋」。下に見えるのが「南高橋」。亀島川に合流する堀(左下)がまだ健在のころ。
 この堀は、古くから「八丁堀」と呼ばれていた。現在の首都高・京橋インター付近から鍛冶橋通りを東へ進み、亀島川に至るまでの区間に存在した水路。別名は「桜川」。
 京橋川・楓川より亀島川を連絡する運河として、江戸時代初期に開削されたといわれる。戦後もしばらくは水運として活躍していたが、昭和40年代以降、順次埋立てられ、水路としての「八丁堀(桜川)」は完全に姿を消し、下流は「桜川公園」などになっている。

 この続きは、年明けに。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

霊岸島。豊海橋。越前堀(児童)公園。(震災復興52小公園。その24。)

2013-12-30 22:56:00 | 震災復興小公園
 「越前堀(児童)公園」と「明正小」。日本橋川、隅田川、亀島川、旧新川(現在埋め立てられている)に囲まれたこのあたり一帯は、「霊岸島」と呼ばれた。現在は、一大商業地域。そのほぼ中央に位置する。

《霊岸島》

 霊岸島の歴史は、江戸初期に八丁堀先の東方海上を埋め立て、雄誉霊巌上人が霊巌寺を建立したことにはじまる。霊岸橋もこれに由来するといわれ、「こんにゃく島」との里俗名もあった。明暦の大火後、霊巌寺は深川に移転するが、霊岸島の地名は、霊岸島はもとより、霊岸島塩町、霊岸島四日市町などとして継がれ、酒問屋・酒蔵が集積し、初物好きの江戸っ子連に新酒を扱っていた。関東大震災後は区画整理で一帯が旧霊岸島の町名となり、旧越前堀・旧新川とともに親しまれた地域であった。(「中央区観光協会オフィシャルブログ・中央区観光協会特派員ブログ」より)
 
「越前堀児童公園」にある「霊岸島」の碑。

 当地区は、今から370~80年前、江戸の城下町が開拓されるころは、一面の沼地葭原であった。
 寛永元年(1624年)に、雄誉霊巌上人が霊巌寺を創建して、土地開発の第一歩を踏み出し、同11年(1635年)には、寺地の南方に越前福井の藩主松平忠昌が27,000余坪におよぶ浜屋敷を拝領した。
 邸の北、西、南3面に舟入堀が掘られて後に越前堀の地名の起こる原因となった。
 明暦3年(1657年)の江戸の大火で、霊巌寺は全焼して深川白河町に転じ、跡地は公儀用地となって市内の町々が替地として集団的に移ってきた。
 明治大正年間には富島町、四日市町、浜町、塩町、大川端町、川口町、長崎町、霊巌島町、銀町、東港町、新船松町、越前堀、南新堀の13町に分れ、多額納税者も多数居住して検潮観測所もあり、湾内海運の発着地、倉庫地帯として下町商業の中心地であった。
 大正の大震災により全部焦土と化し、昭和6年(1931)7月区画整理によって、ゆかり深い町名も新川1、2丁目・霊巌島1、2丁目・越前堀1、2、3丁目と改称され、さらに昭和46年(1971年)住居表示制度の実施により新川1、2丁目となった。江戸時代からの歴史を象徴する懐かしい遺跡も消えつつあるのを憂慮してこの記念碑を建立する。
 昭和52年3月 霊巌島保存会

周辺の見所(の一部)。
 
 そこで、寄り道。ここも、関東大震災に関わるもの。

《豊海橋》

日本橋川河口(隅田川との合流点近く)に架かる「豊海(とよみ)橋」。昭和2年関東大震災復興事業の一つとして鉄骨橋になった。橋の形式は、フィーレンデール橋(考案者の名前をとった)。ハシゴを横にしたようなこの橋は、日本では数例しかなく希少価値の高い橋。
「日本橋川」の西側を望む。
「豊海橋」。

「はしご」を横にしたようなかたち。

由来碑。永井荷風の一文も刻まれている。

「日本橋川」が隅田川に合流するところに架かる橋。


1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。赤丸が「豊海橋」(当時は「木橋」か?)。すぐ東、隅田川に架かる橋は、「永代橋」。中央の○が「越前堀公園」「明正小」付近。下の○が「越前堀」下流。上流の部分はすでに埋め立てられている。中央の水路が「新川」。左端、霊岸島を取り囲むように流れている「亀島川」に合流する水路が「八丁堀(桜川)」。


同じ地域の、1970年代のようす(「同」より)。明正小の最近まで使用されていた「戦災復興校舎」が写っている。

 「永代橋」は、明治30年(1897年)、道路橋としては日本初の鉄橋として、現在の場所に架橋された(「日本橋川」河口の北から100㍍ほど南へ)。
 しかし、橋底には木材を使用していたため、関東大震災の時には炎上し、多くの焼死者、溺死者を出した。その後、大正15年(1926年)に震災復興事業の第一号として現在の橋が再架橋された。
 この橋は、ドイツ ライン川に架かっていたルーデンドルフ鉄道橋をモデルにし、現存最古のタイドアーチ橋かつ日本で最初に径間長100mを超えた橋でもあるとのこと。
「日本橋川」河口付近から「永代橋」を望む。

《越前堀》
近年、出土した「越前堀」護岸に用いられた石垣石。公園内に設置。
説明文。
 内容は、次のものの碑文とほぼ同じだが、特にこの公園は「関東大震災復興公園」の一つとしてつくられたことが記されている。

「明正通り」沿いある「越前堀跡」碑。

 江戸時代、この辺りは越前福井藩主、松平越前守の屋敷地でした。屋敷は三方が入堀に囲まれ、これが「越前堀」と通称されていました。越前堀の護岸は石積で、今でも建設工事中や遺跡の調査中に、越前堀のものとみられる石垣石が出土することがあります。堀の幅は12~15間(20~30m程)もあり、運河として用いられ、荷を積んだ小舟が通っていたようです。
 明治になり、越前守の屋敷地が「越前堀」という町名となりましたが、堀は次第に埋め立てられて行きます。大正12年(1923年)の関東大震災以後、一部を残して大部分が埋め立てられ、わずかに残っていた隅田川に近い部分も、戦後完全に埋め立てられました。その後町名が改められ、「新川」となって現在に至っています。
 今では往時をしのぶ「越前堀」の名は、ここの越前堀公園にみられるのみとなりました。
 平成17年3月 中央区教育委員会

青い線が推定される「越前堀」。その赤いところから出土した。


公園周囲の石垣にも出土した越前堀護岸用の石垣を用いている。
説明板。
 周囲を堀・川で囲まれた地域であったことが分かる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阪本小学校。第一大学区第一中学区第一番官立小学。(震災復興52小公園。その23。)

2013-12-29 23:07:18 | 震災復興小公園
 日本橋兜町。国内でも有数の金融・ビジネス街にある小学校。公園も周辺のビルに囲まれた一角。

⑦坂本町公園。阪本小。

1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
 中央に「坂本小学」とあり、「阪」が「坂」と表記されている。「坂」が「阪」にいつ変わったのか、もともと「阪本」だったのか。学校のHPを見ると、当初から「阪本」だったらしい。ただ、地名の方は、「坂本」となっている。
 「大坂⇒大阪」と変更されたのは「坂」が「土に反(か)える」で縁起がよくないというのが理由のひとつだったと言われているが、そういう理由ではなさそうだ。「中央区の歴史」(tokyochuo.blog.shinobi.jp/)でも、表題は「坂本学校」となっているが、本文は、「阪本」に。

 なお、西側に流れる堀・楓川(もみじがわ)は東京都中央区にかつて存在した河川。日本橋川の兜町付近(現在の江戸橋ジャンクション付近)から南へ分流し京橋川・桜川合流地点(現在の京橋ジャンクション付近)に至る約1.2kmの河川であったが埋め立てられ、現在は首都高速都心環状線がその跡を通る。江戸時代以前は楓川付近は海岸線付近であったと考えられている。

この絵では、「坂本」となっている。
 ちなみに以前紹介したことがある、同じ関東大震災復興校舎の一つで、台東区下谷にあるのは「坂」本小学校。

正面玄関。
しっかりした現役の建物。

公園側からの校舎。
公園との一体的な利用がなされている。
校舎側から公園の北方向を望む。
公園正面。公園名は「坂本町公園」。
公園の沿革史がモニュメントとして保存されている。
校舎方向。
築山風。平日の昼間などは会社員の憩いの場所に。北側にはプールが。


前掲の古地図とほぼ同じ地域の1980年代のようす(「同」より)。中央が「阪本小」「坂本町公園」。一番西側にある広い通りは「昭和通り」。
 なお、公園の北側には都立紅葉川高校(「楓川(もみじがわ)」からとったと思われる)があった。長い間、狭い敷地で苦労・難渋したが、後に江戸川区内の広い敷地に移った。この校舎は、中央校舎としてしばらく存在していた。その跡地が現在、「警視庁中央署」となっている。

《「阪本小学校」沿革史》

明治 4年 7月18日 文部省設立
明治 5年 8月 2日 学制発布
明治 6年 3月 同年2月小学校設置の布達により十五小区二十六ヶ町有志が協議し、官立小学校設立伺を申請。
明治 6年 5月 3日 開学許可を第一大学区督学局より受ける。
明治 6年 5月 7日
 第一大区十五小区坂本町二十八番地(現校地の一部)に創設し、『第一大学区第一中学区第一番小学 阪本学校』
と称して、開校の式を挙げる。出席生徒三十六名。出席者に赤飯菓子を与える。この敷地は元熊本藩主細川家の下屋敷であったといわれる。
明治 7年 4月 生徒数267名、校舎、新築。
明治13年 9月29日
 従来の学制廃止。教育令発布。学区番号廃止。校名を公立阪本小学校、同女子小学校と称する。
明治19年11月 校名を、日本橋区阪本尋常高等小学校同女子尋常高等小学校とする。
明治22年 2月 学年の始期を四月に、終期を三月に改める。
明治22年 7月 男校舎を取り除き女校舎に合併。男女授業を隔日とする。
明治22年10月23日 新築校舎落成、開校式挙行。新校舎は木造総二階。
大正12年 9月 1日 関東大震災に罹災。校舎全焼。帳簿類一切焼失。卒業生台帳焼失。
昭和 3年 3月15日 東京市臨時建設局学校建設課設計による三階建鉄筋コンクリート校舎落成。
昭和 3年 5月 7日 新校舎落成。落成式、祝賀会挙行。
昭和 8年 5月 7日 開校60周年記念行事として校章・校旗・校歌を制定。
・・・
(「阪本小」HPより)
 
 1873(明治6)年の創立。都内でも有数の長い歴史と伝統を誇る小学校の一つ。校舎は1928(昭和3)年に建てられた「震災復興校舎」を現在も使用している。その際に隣接して「震災復興52小公園」の一つとして「阪本公園」が出来た。



 創立明治6年(1873)3月
  第一番官立小学 阪本学校
 中央区立阪本小学校は、明治4年(1871)の文部省設置及び明治5年(1872)の「学制布告」により、明治6年(1873)3月、「第一大学区 第一中学区 第一番官立小学 阪本学校」として創立、明治6年(1873)5月7日に開校式が挙行された。
 我が国の公立学校の創生期において「一、一、一」を冠した小学校は日本中でも阪本小学校だけであり、「一番学校」としての伝統と歴史を引き継いでいる。
 明治28年(1895)に附属幼稚園が開園された。

現校舎は、細川藩下屋敷跡に立地。
大正12年(1923)関東大震災後、昭和3年(1928)3月に落成した。
尚 文豪・谷崎潤一郎、本宮内大臣・石渡荘太郎、元一橋大学長・山中篤太郎、歌舞伎名優・左団次、桶屋六左衛門ほか、多数を輩出している。

 平成21年2月14日 中央区立 阪本小学校



 学制布告(明治5年8月)
全国を8大学区に分別、各大学区に1本部、各大学区を32中学区、各中学区を210小学区に分別(後に、改定)
第1大学区:東京・関東地方・山梨・一部静岡
第2大学区:愛知・岐阜・三重・一部静岡
第3大学区:石川・福井・富山・一部長野・岐阜
第4大学区:近畿地方・岡山・一部四国地方
第5大学区:中国地方・一部四国地方
第6大学区:九州地方
第7大学区:新潟・長野・山形・一部福島
第8大学区:東北地方

 ということで、日本橋から新川(霊岸島)、八丁堀、京橋、東京駅八重洲口へと探訪の足跡は続きます。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鉄砲洲児童公園。中央小学校(鉄砲洲小学校)。湊界隈。(震災復興52小公園。その22。)

2013-12-22 19:54:35 | 震災復興小公園
※「鉄砲洲小学校」の沿革碑。(鉄砲洲児童公園内に設置されている。もともとは、小学校の敷地にあったものか)

⑥鉄砲洲児童公園(旧鉄砲洲公園)

学校の解体、新校舎建設と合わせて整備されたようす。
こじんまりとした公園。児童の帰りを待つ母親達が団らん。
公園の東側の通り「鉄砲洲通り」。

 隣接してある小学校が「中央小学校」。
公園東南から中央小学校を望む。

中央小学校(旧鉄砲洲小学校)
 明治時代に創立された旧京華小学校と旧鉄砲洲小学校が統合されて、平成5年4月1日に誕生した学校。


平成24年9月より新校舎での生活が始まりました。(「中央小」HPより)
正面玄関はかつての意匠を生かした感じ。
外壁などのつくりは、かなり斬新なデザイン。復興校舎の趣とはかなり異なる印象になるのは、しかたがないが。

※「中央区立中央小学校(昭和モダン建築探訪)」として、旧「明石小」と同じく、すでに取り壊された「中央小(旧鉄砲洲小)」の震災復興校舎の貴重な写真が文章とともに掲載されています。
(「関根要太郎研究室」...fkaidofudo.exblog.jp/10882180 2009/04/23)

 この「湊」地域は、かつての家屋が残っている一方、再開発で取り壊され新しい町づくりが始まっている地域でもある。「中央小学校」も新しい町づくりの一環としてモダンな様式の校舎になったようだ。
1970年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。周囲のほとんどが低層住宅の中で、「鉄砲洲小学校と「鉄砲洲公園」は目立った存在だった。右の運河(川)は「亀島川」。

隅田川沿いの地域。再開発が進んでいます。対岸は、月島地区。
昔ながらの街並み。
歯が欠けたような一角。
ぽつんぽつんと残された家屋。
古風な家の構えとマンション。
近代的なビルと日本家屋。後者がしだいになくなっていく時代の流れ。
数年のうちにまるっきり雰囲気の違う街並みになるほどの再開発ブーム。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中央区立明石小学校。築地外国人居留地。(震災復興52小公園。番外編。その5。)

2013-12-21 16:11:24 | 震災復興小公園

 (「http://akashisho.web.fc2.com/index.html」HPより)

 なお、「関根要太郎研究室@はこだて fkaidofudo.exblog.jp/10854674」2009/04/20に解体前の校舎が写真で詳しく紹介されている。
 そのときの文章を転載させてもらう。

 東京の築地といえば魚市場でお馴染みの場所だが、今回はその魚市場より歩いて5分ぐらいの所にある中央区立の明石小学校を紹介させていただきたい。
 この明石小学校は明治42(1908)年に開校。そして昨年創立100周年を迎えた同校の校舎は、大正15(1926)年に建てられた築83年の鉄筋コンクリート製校舎を現在も使い続けているという、まさに歴史ある小学校である。
 なお以前に中央区の明正小学校を紹介したときにも触れさせていただいたが、中央区内には10軒近くの大正末から昭和初期に建てられた小学校舎が現存しているが、その最古参がこの明石小学校である。その存在はあまり知られていないが、今日も教育の場として使われている、まさに街の生きる文化財とも言うべき存在だ。
 鉄筋コンクリート製の小学校というと、無骨とか冷たいという印象を持たれるかも知れない。この明石小も一見するとそのようにも見えるが、じっくり観察していただければ、80数年前この学校を設計した人たちの心遣いを感じていただけるのではないかと思う。例えば窓の間の柱や軒や庇、そし玄関窓や門柱まで曲線が多用されている。外観だけでも校舎内がどんな作りになっているか想像できる、やさしいデザインだ。・・・(中略)
 函館の小学校は明石小より12年後の竣工だが、明石小の設計を手掛けた東京市の技師、函館の弥生小の設計を手掛けた函館市の技師ともに、関東大震災・函館大火からの子供たちの心の復興という、共通したビジョンを持っていたのではないかと思う。当時の人々のが思いを託し作り上げた美しい校舎が、長年に渡り子供たちを育んできたと思うと感慨もひとしおである。
 この明石小は美しい搭が印象的な聖路加病院が表通りの喧騒を遮断したかのような、とても落ち着いた雰囲気。恐らくこの周辺の環境は変われど、聖路加病院と明石小の連続した佇まいは今も昔も同じなのだろう。
 しかしこの落ち着いた小学校には、唯一そうではなかった時代があった。それは太平洋戦争が激しくなった昭和20(1945)年、同校の児童たちは地方に学童疎開し、この校舎は日本軍の高射砲陣地として使われていたという過去を持つ。歴史ある建造物、そして明石小をはじめとした歴史ある校舎はその存在により、これまでの歴史を明確に後世に伝えることができる訳である。


1970年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。「明石小」と「第二中」(上)が並んで建っている。下方が「聖路加病院」。西側の川は旧「築地川南支流」(埋め立てが進められ、親水公園風に)。
 その後、震災復興校舎は解体され、新築工事が始まった。卒業生などが中心となって建て替え反対・保存運動があった、明石小学校校舎。平成25年(2013年)1月24日に新校舎が完成しそこでの学校生活が始まった。
新校舎(「明石小」HPより)。

円柱など、以前の校舎の特徴を生かす工夫がうかがわれる。

校庭と校舎。アーチ状の外廊下。

正面外壁。
校庭脇の倉庫の屋根にもかつての意匠の雰囲気が。
正門前の通り。
裏手のようす。

 児童数は、全校で232名(25年9月現在)、1学年2学級規模。児童数の割には、葛飾区や足立区とは比べものにならないほど、豪華な施設・設備。さすが「金持ち」区は違います!

「旧校舎の石」。

 このベンチに使われている花崗岩は大正15年に建設された復興小学校である明石小学校・明石幼稚園の旧校舎の階段に使用されていた石材を再利用したものです。

 左に当時の昇降口の階段の写真がある。奥のレンガ塀は、築地外国人居留地のレンガ塀の遺構の一部。関東大震災や空襲による戦禍を免れ、残されたものをモニュメントとして保存してある。

「築地外国人居留地跡」碑。

雙葉学園発祥の地」記念碑。
 徳においては純真に 義務においては堅実に
 SIMPLE DANS MA VERTU FORTE DANS MON DEVOIR

歴史
1875(明治8年) 築地居留地内に修道院を開設。孤児院・寄宿学校を開設。
1909(明治42年) 雙葉高等女学校設立、築地明石町にて開校。校長メール・セン・テレーズ。(同学園のHPより)



 東京は開港場ではないが、開市場に指定されたため、1869年に築地鉄砲洲に外国人居留地を設けた。今日の中央区明石町一帯である。しかし、横浜居留地の外国商社は横浜を動かず、主にキリスト教宣教師の教会堂やミッションスクールが入った。このため、青山学院や女子学院、立教学院、明治学院、女子聖学院の発祥地となっている。また外国公館も多く、1875年にアメリカ合衆国公使館が設置され、1890年に現在の赤坂に移転するまで続いた。

1880年代のようす(「同」より)。赤丸が米国公使館。
築地居留地も1899年の治外法権撤廃で廃止されている。
 ここが発祥の学校・学園はまだ他にもたくさん。
移設されたガス街灯の柱。
旧明石小校舎脇にあった「ガス灯」(HPより)。

ガス街灯柱                    所在地 中央区明石町1番15号
 これは、ガス灯を点ずるための街灯柱です。高さは3.4mで柱は鋳鉄製、コリント風の様式をとり、柱頭・柱身・基部の部分から成っています。柱頭のランプ部分は後に付けられたものです。柱頭の下には左右に長さ20cmの腕金が出て、柱身の下部には繰型が見られます。この街灯柱は明石町の築地居留地で使用されたと伝えられています。
 当時は、夕方になると点火夫が長い棒の先に鍵と点火具の付いたものを持って、ランプの底を開いて点灯し、夜明けには、ガスのバルブを閉じて消灯して歩いていました。
 日本の都市ガス事業の始まりは、明治5年に横浜の外国人居留地でしたが、東京は翌七年銀座煉瓦街の完成を機に、西村勝三・フランス人フレグランらが、芝浜崎町にガス製造所を設けて始まりました。
 京橋から金杉橋間にガス灯85基を建て、明治7年12月に点灯したのが最初といわれています。ガス灯の明るさは当時の人々を驚かせました。
   平成9年3月                          中央区教育委員会

「ガス灯」。中央区立第2中にあったもの。現在は廃校。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蛎殻町公園。有馬小。(震災復興52小公園。その21。)

2013-12-17 23:00:03 | 震災復興小公園

⑤蛎殻町公園(有馬小)
「由来碑」。左が「切絵図」(幕末・1850年頃のようす)。

蛎殻町公園の由来
 この蛎殻町辺は、江戸時代の切絵図によると周囲を堀割で囲まれた武家地で、大名の下屋敷が建ち並ぶ静かな落ち着いた町並みであったと思われます。
 蛎殻町公園のあるこの場所も、江戸時代、松平三河守(津山藩主)の下屋敷があったところで、その後京都出身の豪商杉村甚兵衛氏の屋敷となり、現在公園内にある大イチョウも、当時、かなりの大木として育っていました。
 大正12年の関東大震災の時には、近所の人達がその広い庭園内に難を逃れて助かった話も伝わっています。その後、震災復興御計画により、蛎殻町公園として整備され、昭和6年4月に開園しました。
 このたび、有馬小学校と蛎殻町公園を改修整備するにあたりこの地域の歴史を思い起こさせる江戸情緒のある築地塀と門構えを造って町並み景観に特色をもたせ、往時をしのぼうとするものです。
平成元年4月   中央区土木部公園緑地課

隅田川最下流付近にあたり、古くから市街地を形成していた。地形的には、流入する土砂の集積で、この辺りの標高は、海抜2㍍。(「今昔マップ」より)


1880年代のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。中央に「有馬小」の名。現在地よりも北にあったようだ。「松平邸」跡が現在の「有馬小」の位置と思われる。
 右の堀割は「浜町川」か? 「久松小」の西側にあった流れの下流にあたり、隅田川に注いでいた。


2010年代のようす。(「同」より)。

現在の公園正面。問門構えと築地塀に特色が。
奥が「有馬小」。
校庭の北側と西側を囲むように公園がある。
設立当初とは学校のと公園の位置は異なるが、一体型というコンセプトは引き継がれている。

 この公園は「有馬小学校校庭」と「蛎殻町公園」とを一体的に整備してつくられたものです。利用に当たっては有馬小・幼稚園の児童・幼児等が使用する時間帯と一般の皆さんが利用できる時間帯が区分されています。・・・
土曜日のせいか、校庭も開放されていた。公園と校庭が一体のため、学校長名でこんな掲示がある。一般の校庭や公園ではありえない。
校舎側から西を臨む。奥に古い色づいたイチョウの木がある。
左が校舎。
藤棚。
遊具施設があるコーナー。
落ち着いた雰囲気の公園。

道路をはさんだ西側の一角も公園の一部となっている。お尻を見せるサンタ。西側は「ロイヤルパークホテル」。
喧噪の中での憩いの場所に。
見上げると、首都高(箱崎インター付近)。

1965~68年のようす(「今昔マップ」より)。上から「久松小」「有馬小」「箱崎小」。堀割(浜町川)がまだあります。「有馬小」と「箱崎小」の間にある堀割は現在埋め立てられ、首都高の橋脚部分になっている。堀割の南を通るのが、「箱崎湊橋通り」。左上から下に流れるのが、「日本橋川」。上は、現在ほとんど首都高。

・有馬小

 校名は旧久留米藩主有馬頼咸の寄付を受けて創立されたことに由来する。
 1873年に「幼童学所」として創立。翌年、第一大学区第一中学区第六番公立有馬小学校となる。
 1945年には「付属幼稚園の形で有馬幼稚園」が開園。(戦前からの長い歴史を持つ幼稚園)
 今年で、創立140周年を迎えた伝統校。

1927(昭和2)年完成の校舎(鉄筋コンクリート造り)。1987(昭和62)年に現在の校舎が完成するまで使われていた。(「有馬小」HPより)「戦災復興校舎」の一つ。
 「有馬小学校は今年度学校創立140周年・有馬幼稚園は開園68周年の節目の年を迎えました。今年度在籍している子ども達が、将来に夢と希望を抱けるように様々な取り組みを計画しています。」(「同」HPより)
校舎校庭側のベランダには「祝 開校140周年 開園68周年」の文字が。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

箱崎公園。旧箱崎小。都立日本橋高校校舎。小転校。(震災復興52小公園。その20。)

2013-12-16 20:24:49 | 震災復興小公園

④箱崎公園(旧箱崎小)
奥に見えるのが、区立箱崎小→都立日本橋高校→水天宮ピットの建物。
公園の西側から旧校舎を望む。公園は、首都高箱崎インターに近く、複雑に高速道路の橋脚があり、すぐ南には、IBMの高層ビルなどが建ち並ぶ地域にある。そうした喧噪を忘れさせる児童公園風の空間になっています。夜には、クリスマスツリーなどのイルミネーションが点灯するようです。
土曜日に訪れたせいか、家族連れがちらほら。平日の昼休みなどにはサラリーマンなどで賑わうような印象。
学校、公園を再整備したために、公園と校舎区域とは関連がなくなっているようだ。
公園の一角にある「吉田松陰像」。
 説明板によると、

 現在の水天宮ピットの場所が、旧東京市箱崎尋常小学校として使われていた昭和12年(1937)の末、当時6年生の児童であった岩井光子さんが病気で亡くなった。
 光子さんは成績優秀なうえ、特に吉田松陰の生き方に深く感銘を受けており、亡くなる前に自分の貯金で、学校内に吉田松陰の銅像を立ててくれるよう両親に遺言を残した。
 両親は生活が苦しい中でこの遺言を実現し、昭和13年(1938)3月22日に除幕式が盛大に催された。当時この話は教育美談として東京日日新聞に表彰され、時の文部大臣や東京市の関係者など多数が参列した。吉田松陰像は竹山蘭山が製作するとともに、話に感銘を受けた当時の海軍大将高橋三吉が台座の「松陰先生」の文字を揮毫した。
 昭和19年(1944)4月、小学校は全自動が戦火を逃れるため疎開したのち廃校となったが、吉田松陰像は同じ場所で日本橋箱崎町の変遷を見守り続けてきた。
 平成22年度に都立日本橋高校の移転と箱崎公園改修工事にあわせ、吉田松陰像をこれまで以上に町の方々に親しんでいただくため、この場所に移設することとなった。 平成23年(2011)3月


「水天宮ピット」正面玄関。

 この建物・校舎には、最近まで「日本橋高校」があった。そこには、興味深いいきさつがあるようです。

《都立日本橋高校の場合》
1940年1月12日 - 府立十七中学校設置認可(府立七中(現・墨田川高)内)
9月13日 - 敷地の決定(葛飾区亀有一丁目1765番地外58筆)
1942年1月31日 - 府立葛飾中学校と改称
10月1日 - 府立第二化学工業学校跡に移転(東京府東京市向島区寺島町三丁目106番地)
1943年7月1日 - 都制実施に伴い都立葛飾中学校と改称
1944年4月1日 - 旧日本橋区立箱崎小学校(旧校舎)に移転(東京都日本橋区箱崎町三丁目1番地)
1947年2月6日 - 都立日本橋中学校設立決定(中央区箱崎町三丁目1番地(従来の都立葛飾中学校内において))
4月1日 - 都立日本橋中学校開校(東京都立葛飾中学校の教職員・生徒及び卒業生を引き継ぐ)
5月24日 - 校章制定
1948年4月1日 - 都立日本橋新制高等学校と改称、夜間定時制課程を設置
1950年1月28日 - 都立日本橋高等学校と改称
2009年4月1日 - 東京都中央区日本橋箱崎町18-14墨田区八広・東京都立向島商業高等学校敷地内へ移転


《都立葛飾野高校の場合》
1940年1月12日 - 東京府立十七中学校として府立七中(現墨田川高校)内に設置。
1941年6月30日 - 敷地を現在地(葛飾区亀有1-1765)に決定。(※日付に違いあり。)
1942年1月31日 - 東京府立葛飾中学校と改称。(※「寺島」に移転の記述なし)
1943年7月1日 - 東京都立葛飾中学校と改称。
1948年4月1日 - 東京都立葛飾新制高等学校と改称。(※同じ校舎に「日本橋」と「葛飾野」が存在した?)
1949年2月7日 - 移転先の日本橋から新校舎に移転完了。この日を創立記念日とする。
1949年4月1日 - 東京都立葛飾高等学校と改称。
1950年1月28日 - 東京都立葛飾野高等学校と改称。

(どちらもそれぞれのHPによる)。

 ということは、「府立十七中」は二つに分かれた、それとも最初から「二つ」あったということ? 
 「府立葛飾中」が日本橋への移転に伴って、地元の地名に基づいた名称「日本橋」になり、2年後、当初の建設予定地・葛飾区亀有に新校舎が完成、移転した時が「葛飾」、後「葛飾野」の創立記念日となっています。
 その後、幾星霜を経て、「日本橋高校」が「葛飾野高校」と同じ、隅田川以東の下町地域に移転してきたことで、ようやく(再び)双子の「旧制府立十七中」になった、ということになります。

 「日本橋高校」は、かつては「小転校」と言われ、小学校の校舎を転用していたために、狭隘な敷地でいろいろ教育活動に支障があった、それが墨田区内に移転したことで新たな学校づくりが進むことになりました。

震災復興校舎の特徴である正面入口の庇。
東側と南側は、新しくタイルを貼ってあるが、西側の部分などはかつてのままの校舎・外形になっている。


 現在、コの字型の校舎すべてが残っているわけではなく、西側にあった校舎はありません。

 基本的には、台東区立東浅草小(旧待乳山小)や旧柳北小の外形と似ています。
「東浅草小」。しっかりした鉄筋造りで、築85年とは思えない現役校舎。
「柳北小」。南側からの眺め。ここも再利用・活用されている。
すぐ北にある「箱崎湊橋通り」。「湊橋」は、「日本橋川」に架かる橋の名。
首都高橋脚に囲まれながら、二階建ての民家や神社がある、昔ながらの一角。

 中央区内の復興小学校校舎の現状と今後の方策に関する資料の一部を以下に掲載します。

 平成23年3月で 5校(明正小、阪本小、常盤小、城東小、泰明小)を残すのみとなっています。 校舎以外に転用された事例は、十思スクエア(旧十思小)、京華スクエア(旧京華小)、水天宮ピット(旧箱崎小→都立日本橋高校)の 3校があります。

・・・
 復興小学校の価値として日本建築会からは以下3点が指摘されています。

(1)小学校教育に関する東京市の理想高さを示す建物としての価値
・大地震にも耐えうる「絶対耐火耐震」を目標とした構造計画としました。
・環境面および衛生の向上のために、蒸気式暖房設備や自動水洗便所を備えた最新の設備計画としました。
・緊急時における児童の避難も考慮し、廊下や階段の幅を従来より広くしました。
・採光通風を重視し窓の面積大きく、また室内換気考慮して天井を高くしました。特に明るさを必要とする図画教室や屋内体操場にはトップライトも設置しました。
・校舎の配置はコ字型平面を基本として、南向きの校庭は、土埃発散防止と水はけ改善するために、タールを主成分とした当時の新材料であった防塵舗装を採用しました。

(2)表現主義的な外観デザインによる建築の秀作としての価値
・既成の規範にとらわれず、建物の平面や造作の細部などに曲線をよく用い、建築物の・開口部にアーチ形を多用するなど、当時のヨーロッパで見られた新建築の流行に影響を受けた自由な造形が用いられました。表現主義建築とも呼ばれています。
・平面計画、架構形式、および各部の寸法には統一規格に倣っていますが、一方で外観のデザイン(建物の立面)についてはそれぞれ個性をもたせました。

(3)小公園の付設や避難拠点として位置づけにみられる都市計画的な価値
・都心部に建てる小学校地が狭隘であため、それを補うために小公園を隣接してつくり、かつ非常時の避難場所としても使えるようにしました。
・校舎と小公園が一体化し、周辺地域のアイデンティティをかたち作るランドマークとして、豊かな都市空間を形成しています。

(「第1回明正小学校改築準備協議会資料(平成23年3月18日)株式会社文化財保存計画協会 http:/www.city.chuo.lg.jp/kosodate/kyouikuiinkai/kyogikai/siryou2.pdf」‎より)

 以上、震災復興小公園・小学校についての歴史的な価値についてまとめられていました。


1870年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。「箱崎町三丁目」と記されている上あたりが旧箱崎小。左に「湊橋」。右下には「日本銀行」創業の地。
「日本銀行創業の地」の碑。永代橋西詰付近。
 碑面には 「創業時の本館」の図が彫られたプレートが取り付けられています。
碑文 日本銀行創業の地
 明治十五年十月十日日本銀行はこの地で開業した
 明治二十九年四月日本橋本石町の現在地に移転した
 創業百周年を記念してこの碑を建てる
      昭和五十七年十月
         日本銀行総裁  前川春雄
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久松児童公園(久松小学校)。(震災復興52小公園。その19。)

2013-12-15 22:57:15 | 震災復興小公園
 ここは、まさに開設当初のように、公園・学校が一体型の運営を行っているところ。

③久松(児童)公園(久松小)
学校開校時は午後4時までは学校の校庭として使用、その後、児童公園として開放される仕組み。墨田区内の一部の復興公園・小学校であったやり方。その代わり、校門の西側には、歩行者道路を挟んで、広く細長いスペース・公園がある。


1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
 中央に、現「久松小」。その西側には堀割(「神田川」と「隅田川」を結んでいた「浜町川」のことか?)


1970年代のようす(「同」より)。中央が「久松小」。東側にある広い通りは「清洲橋通り」。

 なお、「goo」の昭和22年の航空写真では堀割は残っていて、橋が架かっている。さらに同じく昭和37年では、すでに堀割はなくなり、一部、民家が建っている。

 「久松小」は、都内でも「中央区立常盤小」などと並ぶ、古い歴史ある学校の一つ。

沿革
1873年(明治6年)3月 - 「第一大学区第一中学区二番小学久松学校」として久松町三十八番地にて創立。校名の由来は伊予松山藩主の末裔・久松定謨伯爵(右写真)の巨額の寄付によるもの。
2002年(平成14年)11月 - 創立130周年記念式典を行う。
2012年(平成24年)11月 - 創立140周年記念式典を行う。


関東大震災により校舎全焼。当時の在籍児童数1,396名、職員27名、学級数24。


昭和 4年 5月 震災復興本建築鉄筋コンクリート三階建校舎完成

昭和18年 7月 東京都久松國民学校と改称
昭和19年 8月 第二次世界大戦の激化により縁故疎開、集団疎開を勧告


昭和20年 3月 戦災により校舎全焼書類の大部分焼失、通学区域の9割以上が焼失。(以上、「久松小」HPより。)


 訪問した時間帯がまだ学校の校庭として使用中だったため、公園内には入れず。遠目の写真のみ。
現在の校舎。
校舎全景。
公園東側。プールが隣り合っていて、細い通路。奥に運動場・児童公園が広がる。

西側。歩行者専用道路をはさんで、こちらにも「久松児童公園」が広がる。堀割を埋め立てて作られているので、広く細長い。
併設の「久松幼稚園」側から南を望む。児童の帰りを待つ親子連れで公園は賑やか。
右が小学校側。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

十思公園。伝馬町牢屋敷跡。吉田松陰。(震災復興52小公園。その18。)

2013-12-14 20:12:31 | 震災復興小公園
身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

 吉田松陰の辞世の歌。吉田松陰が処刑された「伝馬町牢屋敷」跡の「十思公園」内に大きな石碑に刻まれています。小塚原刑場で処刑(斬首)された、との記述も時に見受けられますが、吉田松陰を始め幕末の国粋思想家は小伝馬町牢に置かれ、牢内で斬首されており、小塚原刑場は遺骸の取り捨てられた場所。
左手の石碑。

 大老・井伊直弼による安政の大獄が始まると、江戸の伝馬町牢屋敷に送られた松陰は尋問に際し老中暗殺計画の詳細を自供し、自身を「死罪」にするのが妥当だと主張。これが井伊の逆鱗に触れ、安政6年(1859年)10月27日に斬刑に処された。享年30(満29歳没)。
 獄中にて遺書として門弟達に向けて『留魂録』を書き残しており、その冒頭に記された辞世は“身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂”。また、家族宛には『永訣書』を残しており、こちらに記された“親思う心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん”も辞世として知られている。
 処刑後、小塚原回向院(東京都荒川区)の墓地に葬られたが、文久3年(1863年)に高杉晋作ら攘夷派の志士達により現在の東京都世田谷区若林に改葬された。(以上、「Wikipedia」参照)
「回向院」。

   
  
  左が1880年代のようす。右が2010年代のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
 左図で、左中央の大きな空間を中心として広がる一帯が、「伝馬町牢屋敷」の跡地。空白になっているのは、なかなか跡地の土地利用が決まらなかったためのようだ。現在の大安楽寺、身延別院、村雲別院、旧十思小学校、十思公園一帯にあたる。

 江戸時代の刑法には現在の懲役や禁固に類する処罰が原則として存在せず、「伝馬町牢屋敷」は現代における刑務所というより、未決囚を収監し、死刑囚を処断する拘置所に近い性質を持った施設。2618坪(約8639平方メートル)の広さがあった。江戸城外・常盤橋外に牢屋敷にあたる施設が設けられたのは天正年間。それが慶長年間に小伝馬町に移って来たようである。明治8(1875)年に市ヶ谷監獄が設置されるまで使用された。周囲に土手・堀を廻し、南西部に表門、北東部に不浄門が設けられていた。
 牢屋敷の責任者である囚獄(牢屋奉行)は石出帯刀であり、代々世襲であった。その配下として40人~80人程度の牢屋役人、獄丁50人程度で管理が行われていた。(以上、「Wikipedia」参照)

時の鐘。日本橋石町に設置されていたこの鐘が鳴ると共に処刑が執行された、という。

大きな説明板。

江戸三縁史蹟

石時町時の鐘宝永時鐘
工第四号  指定書
  石町時の鐘一口
所在地 中央区日本橋小伝馬町    所有者 東京都中央区役所
銅鐘   高さ一・七米口径九三糎    宝永辛卯四月推名伊予藤原重休
右を都重宝に指定する。
     昭和二十八年十一月三日   東京都教育委員会
江戸時代最初の時の鐘で、二代将軍秀忠の時は江戸城内の西の丸でついていたが鐘楼堂が御座の間近くで差障りがある為、太鼓にかえて鐘は日本橋石町に鐘楼堂を造って納めたのが起源で、明暦三年、寛文六年、延宝七年と三度も火災にあい破損したので、その後身として宝永八年に鋳造されたのがこの宝永時鐘である。音色は黄渉調長久の音という。享保十年旧本石町三丁目北側の新道の間口十二間奥行十九間三尺の土地に鐘楼堂を建て、時銭として一軒につき一ヶ月永楽銭一文ずつ当鐚で四文ずつを商業地区の大町小町横町計四百十ヶ町から集めて維持していた。鐘役は最初から代々辻源七が当たっていたので、辻の鐘とも呼ばれていた。鐘楼下では俳人蕪村が夜半亭と名づけて句会を催して深川の芭蕉庵と共に有名であった。当時江戸には日本橋石町、浅草、本所、横川町、上野芝切通、市ヶ谷八幡、目黒不動、赤坂田町、四谷天竜寺の九ヶ所に時鐘があったが石町時鐘はその最古のものである。石町鐘楼堂から二丁程の所に伝馬町獄があった。囚人たちは種々な思いをこめてこの鐘の音を聞いたことであろうし、処刑もこの鐘の音を合図に執行されたが処刑者の延命を祈るかのように送れたこともあって、一名情けの鐘ともいゝ伝えられている。幕末時鐘廃止後は石町松沢家の秘蔵となっていたが、十思後援会が寄進を受けて昭和五年九月十思公園に宝永時鐘々楼を建設し当時の市長永田秀次郎殿で初撞式を挙行した後東京に寄進した。

吉田松陰先生終焉之地
吉田松陰先生は天保元年(西暦一八三〇年)八月四日長州萩の東郊松本村で杉家の二男として生まれた。幼い頃に吉田家をついだ。成人しての名を寅次郎という。吉田家は代々山鹿流兵学師範の家であったので、早くから山鹿流兵学その他の学問を修め、その道を究めて、子弟の教育につとめた偉人である。安政元年三月師の佐久間象山のすゝめで海外渡航を計画し、下田から米艦に便乗しようとして失敗、下田の獄につながれたが伝馬町獄送りとなって途中、高輪泉岳寺の前で詠んだのが有名な次の歌である。「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」同年九月まで約六ヶ月間伝馬町獄に留置されていたが、国元萩に謹慎の身となって帰って後の松下村塾での教育が最も偉大な事業であろう。薫陶を受けた中から有爵者六名、贈位者十七名、有位者十四名等多くの著名の士が出て中でも伊藤博文、山県有朋、木戸孝允等は、明治維新の大業に勲功のあった人物である。わが国歴史の上での三大変革といえば大化の改新、鎌倉幕府の創立、明治維新の三であるが、その明治維新にこれら松下村塾生の動きが大きな力となったことを深く考えたいのである。後松陰は安政の大獄に連座して再び伝馬町獄に入牢となった。安政六年七月九日江戸の長州藩邸から初めて評定所に召出されたが、その時「まち得たる時は今とて武蔵野よいさましくも鳴くくつわ虫かな」と決心を歌にのべている。しかし幕府の役人を動かすことが出来ず、その後の三回の取調べで死刑を覚悟した十月二十二日に父、叔父、兄へ宛て永訣の書を送っているがその中にあるのが「親思ふ心にまさる親ごころけふのおとづれ何と聞くらん」の一首である。また処刑の時の近づいたのを知って十月廿五日より廿六日の黄昏までかゝって書きあげたのが留魂録でその冒頭に「身はたとひ武さしの野辺に朽ちぬともとゞめ置かまし大和魂」十月念五日 二十一回猛士 と記してある。松陰はこれを同囚で八丈島に遠島になった沼崎吉五郎に托したが二十年後当時神奈川県令で塾生であった野村靖に手渡したものが現在残っている留魂録である。それによって当時の法廷の模様、訊問応答の次第、獄中の志士の消息等がわかり、自己の心境と塾生の行くべき道を示したもので崇高な松陰魂の指南書ともいえるものである。安政六年十月二十七日は処刑の日であった。揚屋を出る松陰は次の詩を高らかに朗吟して同囚の士に訣れを告げたのである。「今吾れ国の為に死す 死して君親に背かず 悠々たり天地の事 鑑照明神に在り」継いで刑場では「身はたとひ」の歌を朗誦して従容として刑についた。行年三十歳明治廿二年二月十一日正四位を贈位され昭和十四年六月十思小学校々庭に留魂碑が建設された。

江戸伝馬町牢屋敷跡
史第二十九号  指定書
  伝馬町牢屋敷跡
所在地 中央区日本橋小伝馬町一の五先    所有者 東京都(中央区管理)
地積   一三・四五坪(二二尺四方)
右を都史蹟に指定する。
     昭和二十九年十一月三日   東京都教育委員会
伝馬町牢は慶長年間、常盤橋際から移って明治八年市ヶ谷囚獄が出来るまで約二百七十年間存続し、この間に全国から江戸伝馬町獄送りとして入牢した者は数十万人を数えたといわれる。現在の大安楽寺、身延別院、村雲別院、十思小学校、十思公園を含む一帯の地が伝馬町牢屋敷跡である。当時は敷地総面積二六一八坪、四囲に土手を築いて土塀を廻し南西部に表門、北東部に不浄門があった。牢舎は揚座敷、揚屋、大牢、百姓牢、女牢の別があって、揚座敷は旗本の士、揚屋は士分僧侶、大牢は平民、百姓牢は百姓、女牢は婦人のみであった。今大安楽寺の境内の当時の死刑場といわれる所に地蔵尊があって、山岡鉄舟筆の鋳物額に「為囚死群霊離苦得脱」と記されてある。牢屋敷の役柄は牢頭に大番衆石出帯刀、御□(木+豕)場死刑場役は有名な山田浅右エ門、それに同心七十八名、獄丁四十六名、外に南北両町奉行から与力一人月番で牢屋敷廻り吟味に当たったという。伝馬町獄として未曾有の大混乱を呈した安政五年九月から同六年十二月までの一年三ヶ月の期間が即ち安政の大獄で吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎等五十余人を獄に下し、そのほとんどを刑殺した。その後もこゝで尊い血を流したものは前者と合わせて九十六士に及ぶという。これ等愛国不尽忠の士が石町の鐘の音を聞くにつけ「わが最期の時の知らせである」と幾度となく覚悟した事であろう。尚村雲別院境内には勤王志士九十六名の祠と木碑が建てられてある。
          昭和二十九年十一月
  江戸史跡保存協賛会

 平成二年三月公園整備に伴い由来板を作り直しここに設置するものである。中央区土木部公園緑地課
説明板付近から「時の鐘」方向を望む。喧噪のオフィス街から一歩入ったところ、小さいが静かな公園風景。
緑も多く、よく整備されている。
児童遊具はこじんまり。

 周囲には、「伝馬町牢屋敷」跡だけに、曰く因縁のありそうな寺院もあって、ちょっと異質な感じがする「震災復興小公園」でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「十思スクゥエア」(旧十思小学校)。(震災復興52小公園。番外編。その4。)

2013-12-13 22:39:17 | 震災復興小公園
②十思公園(旧十思小)

 日本橋小伝馬町にある公園。「十思」と言う名前は隣接する廃校になった小学校の名前。今は「十思スクゥエア」という中央区の施設になっている。この小学校は明治11年創立。そのときの住所が「第一大区第一中学区第十四小区」と中国の司馬光の著書「十思之流疏」と掛け合わせた命名だそうです。「十思小学校」は関東大震災後の復興小学校のひとつで、その歴史ある建物を保存しようと区の施設として存続させることになった。公園は、学校と一体型の「震災復興52小公園」の一つ。

 旧十思小学校は明治11年に十思学校として開校しました。“十思”という名称は、開校当時の住所であった旧伝馬上町が第一大区第一中学区第十四小区に属する、つまり十四小区の学校であることからと、資治通鑑※1の「十思之疏」※2の十思の語と音が通じるところから「十思小学校」と名づけられました。この「十思之疏」は人の主となる者の守らなければならない大道であって、申し分のない枚処世訓であり、十思小学校の校風にも反映されていていました。

※1資治通鑑(しじつがん):
宗の司馬光の著書。周の威烈王から五代の終わりまで、113主1362年間の歴代君臣の事跡を編年体に編纂した書。治世に利益があって歴代為政者の鑑(かがみ)とするに足る意

※2十思之疏(じっしのそ):
唐の名臣魏徴が、大宗皇帝にさし上げた十か条を列挙した、天子のわきまえなければならぬ戒め

見可欲則思知足 欲すべきを見れば則ち足るを知ると思う
:欲しいと思ったときでも、足りれば十分であることを知って、いたずらに多くをのぞまないこと。

将興繕則思知止 将に興繕せんとすれば則ち止まるを知ると思う
:工事などを起こすにあたっては、止めるべき程度を知ること。

処高危則思謙降 高危に処すれば則ち謙降を思う
:高い地位にいる人ほど、へりくだるようにしなければいけないこと。

臨満盈則思ユウ*損 満盈に臨めば則ちユウ*損を思う
:みちみちている時には、心をおさえておごることがないようにすること。

遇逸楽則思ソン**節 逸楽に遇いては則ちソン**節を思う
:遊びくらすようなことは、ひかえて少なくするように心がけること。

在宴安則思後患 宴安に在っては則ち後患を思う
:宴をはって楽しむときも、後にわずらいや心配があることを考えること。

防壅敝則思延納 壅敝を防ぐには則ち延納を思う
:りっぱなよい帝王といわれるためには、かしこいけらいをもちいて、そのいましめを受け入れること。

疾讒邪則思正己 讒邪を疾むには則ち己を正すを思う
:よこしまで、人をそしるようなことをにくむには、まず自分自身の言動を正しくすること。

行爵賞則思因喜而僣 爵賞を行うには則ち喜によって僣することを思う
:位や賞を与える時には、喜びのあまり、分をこすようなことのないようにすること。

施刑罰則思因怒而濫 刑罰を施すには則ち怒によって濫することを思う
:刑や罰を行う時には、怒ったあまりに、不適当な刑や罰にしてしまうことのないようにすること。

*本来の字は「手辺」に「邑」、「ユウ損」=自分の心を抑えへりくだるの意。
**本来の字は「手辺」に「尊の旧字体」、「ソン節」=へりくだるの意

 「おやじ」注:どれも、今の為政者(自公政権のおごりのままのアベ政権運営)に突きつけたい教訓です。

 「十思スクエア」として生まれ変わった校舎は昭和3年に完成した建物で、それ以前は開校から度重なる火事などの災害により焼失しています。
 新しい校舎になってからは、戦火をのがれ平成2年3月に廃校となるまで、多くの卒業生をおくりだしました。廃校後、生徒たちは日本橋小学校に統合され、小学校としての役割を終えた校舎は、日本橋特別出張所仮庁舎として使われた後、平成12年に改修工事を行い「十思スクエア」として生まれ変わりました。
 また、この建物は関東大震災後の復興小学校の特徴である公園を隣接しており、この十思公園にはこの地の歴史を伝える史跡があります。江戸時代伝馬牢屋敷がここにあったため、安政の大獄により処刑された吉田松陰関連の碑が並んでいます。これらは以前、十思小学校の校庭にあったものです。また、十思公園には江戸城下に時刻を知らせていた本石町(現、日本橋室町3丁目)の時鐘が移転されています。
(「」HPより)

小学校として使用されていたころの建物。(「同」HPより)
現在のようす。

旧東京都中央区立十思小学校(現中央区十思スクエア)
 ◎設計:東京市
 ◎施工:鴻池組
 ◎竣工:昭和3(1928)年12月30日
 ◎構造:鉄筋コンクリート造り3階建て
 ◎所在地:東京都中央区小伝馬町5-1

❖東京都選定歴史的建造物
 旧十思小学校は明治十一年に開校し、現在使用されている建物は、関東大震災を機に、耐震・耐火性の高い鉄筋コンクリート造りの校舎として建て替えられたものである。
 震災復興期につくられた装飾性の強い小学校建築の代表作であり、その中でも特に地域とのつながりを重視した、アーバンデザインの優れた建物として評価が高い。表現主義と呼ばれる建築様式で、カーブさせた隅部、アーチ窓、半円形の円柱等の意匠に特徴がある。
 正面玄関口がある南西隅部は特にカーブが大きく、全面に小広場があるなど建物の顔となっている。
 また、隣接する公園は、震災復興期に同時に計画されたものである。
 平成二年三月の廃校後、改修工事を経て、平成十三年からは区の複合施設「十思スクエア」として広く区民に利用されている。
半円形の窓、円柱に注目。
円柱を取り入れた外壁(西側)。
曲線にしてある建物の角。
風合いのある側面。
屋上縁のデザインも
凝っている。
独特の校舎の造りとなっていた。


台東区立坂本小学校とは窓の形こそ異なるが、円柱を用いた外壁はよく似ている構造。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中央区立常盤公園。常盤小学校。(震災復興52小公園。その17。)

2013-12-12 19:13:51 | 震災復興小公園
 中央区編。神田から小伝馬町、馬喰横山まで。「江戸通り」を西から東へ、それから南に折れて。3箇所の探訪。なかでも、震災復興校舎が現役で活用されている二つと学校と一体化しているようすの一つ。常盤→十思→久松。
1970年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。左から「常盤」、「十思」、「久松」。久松小の右下にある広い公園は、関東大震災復興事業の一環としてつくられた「浜町公園」。隅田公園(台東区、墨田区)、錦糸公園(墨田区)とともに計画され、1929(昭和4)年に開園した。現在、公園内のレイアウトはかなり変わっている。


①常盤公園(常盤小)
線路際の道と学校の建物にはさまれた小さな公園。藤棚はしっかりとあります。

常盤小学校
都内でも有数の歴史を持つ学校の1つ、今年で140周年。

沿革
1873年(明治6年)3月 - 幼童学所と称しとして本町一丁目13番地にて創立。
1873年(明治6年)6月 - 「第一大学区第一中学区第四番小学常盤学校」として本町二丁目5番地にて官立となる。
1881年(明治14年)8月 - 本革屋町5番地に男女合併の校舎落成。
1895年(明治28年)3月 - 「常盤小学校校歌」が出来る。
2002年(平成14年)11月 - 創立130周年記念式典を行う。
2008年(平成20年)3月 - 創立135周年記念式典を行う。(「常盤小」HPより)

1880年代のようす。赤丸が、「常盤小学」(「同」より)。
 関東大震災の後に鉄筋コンクリートづくりの校舎で再建されており、復興小学校の1つに数えられている。この校舎は東京都選定歴史的建造物に指定されている。


 東京都選定歴史的建造物
 中央区立常盤小学校 
            所在地 中央区日本橋本石町4-4-26
            設計者 東京都
            建築年 昭和4年(1929)

 常盤小学校は、明治6年に開校し、現在使用されている建物は、関東大震災を機に、耐震耐火性の高いコンクリート造の校舎として建て替えられたものである。
 震災復興期の小学校建築は、装飾性を加味したスタイルと、機能を重視したインターナショナル・スタイル(国際建築様式)の二つの傾向があったが、この校舎は前者の代表作である。
 アーチのついた出入口、半円形の窓とその窓台、半円形の庇など幾何学的な装飾が特徴で、建築様式としては表現主義と呼ばれる。
 ビルが林立する中で、今なお往時の景観を残している。

 東京都


校庭正門。

 近代産業遺産 平成20年 経済産業省

 日本銀行、日本橋や三越百貨店日本橋本店等が周辺にある。
(「常盤小」HPより)


 立地条件の良さと、校風の良さから教育に関心があり、ほとんど、学区外から越境通学することが当たり前のように行われている。スクール・バスが月島方面から運行されている。
 進学熱の高い家庭が多いため、卒業後は中学受験をして、難関国私立中高一貫校や都立中高一貫校に進学する生徒が他の公立小学校と比べて多い。(この部分、「Wikipedia」参照)

校舎南側面。窓の意匠に注目。
右奥が玄関。アーチに特徴がある。
東側の校舎。
 その東側壁面。
左奥が、体育館(講堂)。
屋上の庇に注目。

《参考》
台東区立黒門小学校・校舎西側。同じようなデザインの窓。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東陽公園。扇橋公園。(震災復興52小公園。その16。)

2013-12-06 22:59:20 | 震災復興小公園

④東陽公園(東陽小)
永代橋通りと高層ビルに囲まれた公園。
こぢんまりとしたテラス。立ち上がった男性の頭がつきそう。
右奥が「東陽小学校」。
学校との関連は薄い。
街中の公園としては貴重な存在か。
面白そうな多面の滑り台。子どもがたくさん群がっていました。

1920年代のようす(「今昔マップ」より)「臨海小」はあるが、「東陽小」付近は、海岸縁の木材貯蔵場所。「永代橋」通りはほとんど海岸線を通る道。
2000年代。ちなみに「臨海小」付近の標高は、1m、「東陽小」付近の標高は、-1m(「同」より)。
臨海公園にあったものと同じ、過去の洪水のときの水位。はるか見上げるほど。たしかに2mの差は大きい。

⑤扇橋公園(扇橋小)


「木場公園」の北西方向。
学校は、全面改築中。
カーブした藤棚。ここにもありました。
藤棚から小学校方向を望む。
学校との境のフェンス。
「扇橋小」は、110周年の歴史を持つ。

「小名木川」「大横川」「竪川」など運河に囲まれた水辺の街並み。
中央奥が、「扇橋閘門・ロックゲート」。
 江東区の内部水域は、地盤沈下の影響から水位を隅田川の平均潮位に比べ、マイナス1M下げて常に一定にしている。そのため、満潮時の水位差は、3メートル以上。この水位差を調整しながら船を航行させる施設が、扇橋閘門。


パナマ運河と同じ仕組み。
2年前に訪れたときのもの。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

清澄庭園・旧東京市営店舗向住宅。臨海公園(臨海小)。(震災復興52小公園。その15。)

2013-12-04 20:45:52 | 震災復興小公園
 今度は、区立臨海公園と臨海小学校へ。門前仲町の南西。その途中、興味深い建物群。実は、これも関東大震災復興事業の一つ。

「旧東京市営店舗向住宅」

 「清澄公園」のすぐ東隣に接し、「清澄通り」沿いに建つ旧東京市営店舗向住宅。延長、約200メートル。1階が店舗、2階が住居となっています。その歴史はかなり古く、1928(昭和3)年に竣工。大震災後の復興建築ということで、耐震耐火のための鉄筋コンクリートつくり。
「清澄庭園」と清澄通りに挟まれた細長い商店の連なり。かつては総戸数48戸あった、という。
 このように計画的に造られたのは、この清澄の鉄筋コンクリート商店群が初めての例、らしい。

 時代とともに外壁を改修したり、3階や屋上を増築した商店がほとんど。
増築した建物。壁面に階段状の模様。

 しかし、建物ごとの角には竣工当初からのアールデコ調の装飾も残されています。
すでに「築85年」のレトロ建築です。
なかなか渋い!

この一画。いつまでこのまま残っているのか? それにしても、今も現役というのがすごい! 

 門前仲町は、富岡八幡宮の門前町。
旧富岡橋親柱(油堀川公園内)。首都高速9号線の真下。かつての「油掘川」に架かっていた橋。油堀川は、正式には十五間川という名前で、隅田川から富岡八幡宮の北側を通り、木場に至る川だった。

 賑やかな商店街を抜けた右手奥にあるのが、「臨海公園」。

③臨海公園(臨海小)


 今はまったく海を望めるところではありませんが、かつては隅田川河口に臨む地域。その後、越中島などが干拓・開拓されていきました。
1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。のところが、現在の「臨海公園」付近。


1970年代のようす(「同」より)公園南の「大横川」に架かる橋が「越中島橋」。東南が越中島方面。隅田川河口の南西は、佃島方面。
 ちなみに、臨海公園から、お台場まで車で約7キロの道のり。

臨海小の校庭拡張の影響か、内側にカーブしたかたちになっている。校庭とのフェンス。
この辺りも、学童急増地域なのだろうか?
藤棚。
ミニアスレチック。

過去の水害の潮位が記されている。目の位置に堤防の高さ。ところが、東陽公園では、はるか高くにその線が。

「大横川」。
 江戸時代に埋め立てられた場所にできた運河で、竪川と大川(現在の隅田川)の間の十万坪と呼ばれる葦原を流れていた。
 現在、墨田区・業平橋(スカイツリー)付近で北十間川から分流して南へ。江東橋付近は、親水公園として整備されている。その南で、竪川、小名木川、仙台堀川と交差し、横十間川を合わせる。江東区木場付近で西に流路を変え、大横川南川支川を分流し、平久川と交差する。江東区永代で大島川西支川を合わせ、その先で隅田川に合流する。

橋から公園・学校を望む。川の左手に見える乗船場は、1998(平成10)年に運行終了した水上バス用のもので現在は廃止。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする