おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「三ノ輪橋」。「日本堤」。音無川跡をたどる。(台東区と荒川区の区界。その2。)

2013-09-14 12:54:54 | 河川痕跡
 「明治通り」は台東区と荒川区の区界。「泪橋」交差点を過ぎてしばらく進むと、明治通りを北に越えて「台東区」が。右に折れて広い路地に入ると、東が荒川区、西が台東区というぐあい。日光街道までジグザクに道(「音無川」跡)は続いていきます。

右が荒川区、左が台東区。この道幅がかつての流れ「思川」だとすると、ちょっと川幅が広すぎる感じですが、「音無川」本体は川幅十㍍近くあったようです。
振り返って明治通り方向を望む。右が台東区、左が荒川区。
(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。北に直角に曲がり、さらに西に曲がっているのが「思川」。人工的な流れ(用水)という印象。ちょうど上の写真の部分か? 明治通りはもちろん、鉄道も通っていない頃。

 日本の鉄道は明治5年(1872年)9月12日(旧暦、新暦だと10月14日)に、新橋駅 - 横浜駅間で正式開業したばかりです。「歴史的農業環境閲覧システム」はそのしばらく後の地図(明治10年代初め頃)で、東海道線・横浜駅付近など興味深いようすになっています。それは、また別の機会に。

 山谷堀へ向かう流れとの分岐は、左上方付近。

(「同」)。「泪橋」から「三ノ輪」、「南千住」にかけて。
西に向かう。右奥が浄閑寺。吉原遊廓の近くにあり、遊女の投げ込み寺としても知られる。
浄閑寺門前の説明板。

 「音無川と日本堤」
 音無川は王子で石神井川からわかれている。その清流は田端、日暮里、金杉を流れ、三ノ輪橋をくぐり、浄閑寺の西側にそってここから山谷堀をへて隅田川にそそいでいる。今は暗渠になっているが、明治のおわりまで灌漑用水に使われていた。
 音無川にそって、三ノ輪から聖天町(現浅草七丁目)まで続く土手を日本堤(吉原土手)といった。安藤広重の『名所江戸百景』に描かれ、新吉原への遊客でにぎわった堤も今はない。浄閑寺前の三叉路の最も南寄り道路がその名残である。
                                               荒川区教育委員会

公衆トイレの後ろ。中央に家が建ち並び、その先の一部は公園。それをはさんで両側には道。その道と比べて一段低く家が建っていて、いかにも河川跡という印象。
少し道もカーブしている。このあたりは、一部を除き台東区の地域。 
道路とけっこうな段差がある。音無川をはさんでの「日本堤」。吉原「土手」とも言われるようにまさに土手の道。明治通りを越えるとまったく遺構はなさそうなので、ここが唯一の遺構?
明治通りに出たところから「山谷堀」方向を望む。
浄閑寺方向を望む。中央が音無川跡と日本堤跡。

斜め南東に向かう直線が「日本堤」。音無川は「土手」の北側を流れている。中央の区画された地域が新吉原。左上が「日光街道」。右の斜めの線が「奥州街道」。南千住で日光街道と合流する。
「山谷堀」と隅田川。吉原を過ぎた辺りからは音無川は暗渠になり、再び今戸付近で開渠となっている。
吉原「土手」、日本「堤」というように「日本堤」は土手のように土盛りされていることが分かります。

浄閑寺の西側の道。音無川は正面方向に流れ、その先で「思川」と分岐していた。
「音無川」は、日光街道・「三ノ輪橋」をくぐって浄閑寺の脇に流れていく。右は台東区、左が荒川区。
台東区側にある「三ノ輪橋跡」碑。

 かつて石神井用水(音無川)と日光街道が交叉する地点に架かっていた。江戸時代には市中と市外の境界に位置して、現在の台東区域と荒川区域を結んでいた。昭和初期に石神井用水は暗渠となっっため三ノ輪橋も撤去されて、現在は都電荒川線の停留所にその名が残る。

 台東区は市中、荒川区は江戸時代は(もとより、明治に入っても北豊島郡という)市外。実にはっきりした台東区の説明ではある。
 ちなみに、「goo」の地図(明治中期)でも、「市内」は詳細に記されているが、「音無川」の北側などの「北豊島郡」地域は掲載されていない。「音無川」が、明治に入ってからも、東京市内と市外との境界線であったことのようだ。「三ノ輪橋」は表記されている。
 
こちらは、荒川区側の説明板。川は日光街道を渡った正面の道路方向から流れてきていた。

 三ノ輪橋は、石神井川の支流として王子から分流した音無川が現在の日光街道と交叉するところに架けた橋である。橋の長さは五間四尺(約十㍍)幅三間(約六㍍)であったという
 音無川は日暮里駅前を経て、台東区(根岸)との区境を通り常磐線ガード手前を右折、その右角は私立池谷小学校(明治二六年廃校)跡。そして現日光街道を横切り日本堤の北側を流れて山谷堀にいたるものであった。
 明治四一年、三ノ輪が属する一六番分水組合が廃止され音無川は農業用水としての役目を終えた。現在は暗渠となり、橋の名前は都電荒川線の停留所名として残されている。荒川区教育委員会・台東区教育委員会
 
 二つの区の教育委員会が連名で説明している。市中、市外などいう表現もなく、客観的に記されていることに。けっこうな川幅であったことが分かる。

 さらに、気になった上の記述内容。「私立小学校の存在」。荒木茂さんという方の個人ホームページ
(www16.ocn.ne.jp/~ondoku/esseisyougakouhuukei.html)に興味深いことが記されていましたので、引用させてもらいます。

 「明治期の小学校の風景」より。
 明治時代は、学制によって設立された公立小学校と、従来の寺子屋から受け継いだ私立小学校との二つの種類の学校がありました。公立小学校は欧 米の教育制度や教 育内容や方法をまねた学校で教科書には翻訳物が多くありました。一般民衆はむしろ従来からの「読み書きそろばん」の寺子屋式な教育を歓迎しました。明治学制の新教育体制は、従来の寺子屋から内在的連続的に発展した学 校ではなく、まったく非連続的に発生した学校制度でありました。・・・
 唐沢富太郎『日本教育史』には次のように書いている。

 「私立小学校の方では組合を作り、組合長副組合長などの役員を置いて一致団結して公立と対立するようになった。かくて東京府においては、明治11年学校全数829のうち684校におよび、教員の全数が1914のうち1197名の多きに達し、小学生徒全数66539のうち46553名は私学生徒である。すなわち児童の66%はみな私学において教育を受けている割合である」
      唐沢富太郎『日本教育史』(誠文堂新光社、昭和28)より。

 恥ずかしいことですが、初めて知ったようなわけ。他にもこの方のHPは元々のテーマに沿った有意義な内容が多いのでまたの機会に訪問させてもらうつもり。

「日光街道」を西に渡ったところ。奥が常磐線のガード。その手前で左に曲がる。右が荒川区、左が台東区。
川の跡を追って、上流方向(南)に進みます。先に見えるのが「明治通り」。右が荒川区、左が台東区。
「明治通り」との交差点にあるお酒屋さん。

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