おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR総武本線「津田沼」駅~「四街道」駅。その1。(「東金御成街道」をゆく。第1日目。)

2019-09-12 19:34:40 | 東金御成街道
 今回からの街道歩きは、「東金御成街道」。

 御成街道は1613年12月、徳川家康が東金へ鷹狩りに出かけるために作られた。
 家康に命令を受けた老中佐倉藩主土井利勝は船橋~東金間約37キロに及ぶ沿線の村々97ヶ所の明主を召集、村ごとに工事区分を分担させ、農民を動員し、昼夜兼行で造ったところから別名「一夜街道」「提灯街道」、また家康の名をとって「権現道」とも呼ばれている。
 下総台地の分水嶺を西南にほぼ直線につづく御成街道は道幅3間(約5.5m)、両側には松が植えらえ、小川には橋を架け谷間には土手を造り、船橋市本町4丁目、千葉市御殿町、東金市県立東金高校敷地の3ヶ所に宿泊所が建造された。
 御成街道のように真っ直ぐに造られた街道はとてもめずらしく北海道の一部を除いて他にない。
 現在の御成街道は造成や開発などで一部寸断されているところや、立派に舗装された箇所も多くあるが、街道の道筋がほぼ当時のまま残り、鷹狩りに向かう家康の面影を思いながら探訪すると楽しい。


(「」HPより)

 船橋市本町から東金市田間、山武市小松までの約37 kmをほぼ一直線に結んでいる街道である。なお東金市田間から山武市小松までの部分は砂押街道と呼ばれる。
 至極短期間の工期で作られたとする伝承があるが、誤りであることが史料などから確認されている。沿道の村々の農民たちが石高に応じて駆り出され、「三日三晩で造られた」とか、「昼は白旗、夜は提灯を掲げて昼夜兼行で工事が行われ、一晩のうちに完成した」などといわれ、提灯街道、一夜街道とも呼ばれるが、実際は慶長19年正月に着工し、数ヶ月間かけて元和元年11月に完成した。
 なお、東金市田間から山武市小松までの部分は砂押街道、あるいは御成新道と呼ばれ、別のものかつ後から造成されたような印象を受けるが、実際には山武市小松までを含めた御成街道全体が同時に造成された。
 道中には将軍が休息・宿泊する為の施設として船橋御殿(現・船橋東照宮)、千葉御茶屋御殿(千葉市若葉区御殿町)、千葉御殿(千葉市中央区中央)、東金御殿(現・千葉県立東金高等学校)、土気御殿(大網白里町池田)が造られた。千葉御茶屋御殿と千葉御殿は別の物件であり、現在の千葉市内には御殿が二カ所存在していた。

(この項、「Wikipedia」参照)

 8、9日に襲った「台風15号」の甚大な被害。鉄道、電気、水道などのライフラインの復旧がままならぬ千葉県内。農作物などの被害も掌握できず。マスコミは内閣改造の話題が中心。そういえば、アベ自公政権はこうした内閣改造にうつつをぬかして、災害対策はいったいどうなっているのでしょうか? また千葉県の森田知事は・・・。

 今回歩いた地域の状況はどうだったのか? そして現状は? と大いに気になります。

 9月7日(土)。晴れ。 

 「船橋」からの道は省略し、JR総武線「津田沼」駅を降りて、いったん西に向かい、「成田街道(佐倉街道)」との分岐まで戻って、そこから歩き始めます。
 
  「成田街道(佐倉街道)」との分岐点。左手の角に「左 成田山道」と刻まれた大きな道標。

解説板。
御成街道(東金街道)について
 御成街道(東金街道)は、慶長18年(1613)12月徳川家康の名を受けた佐倉藩主土井利勝が三日三晩で造成したと伝えられています。
 家康の東金への鷹狩り等のために作られたとも言われ、船橋から東金までほぼ直線で結ばれています。徳川家康・秀忠・家光が御成街道を通り、東金周辺で鷹狩り等を催しました。将軍や大御所がお通りになる=お成りになるというので、御成街道と呼ばれたと言います。

 (前原西1丁目)は 成田街道と東金街道との分岐点です。明治12年(1879)に成田山の信徒と地元前原の有志が建てた道標があり、前面には「左成田山道」と刻まれています。また、右側面は「成田山 従是房総街道」(東金街道を房総街道としています。)左側面には「成田山道」と刻まれています。

 江戸時代、主要な街道などには、一里ごとに一里塚をおいて松などの木を植え旅人の目印としていましたが、船橋を過ぎると一里塚は次のようにおかれていました。
 ①一里塚  習志野市実籾
 ②向山   千葉市花見川区犢橋
 ③焼き塚  千葉市若葉区若松町
 ④提灯塚  千葉市若葉区千城台東
 ⑤椎の古木 千葉市若葉区富田町
 ⑥一里塚  八街市上砂
 ⑦殿山   東金市黒田
  一里塔  東金市
(⑦が2つあるのは表道と裏道の2つの道筋があったため)


分岐点付近の今昔

1880年代のようす。北に向かうのが、「成田街道」。東に進むのが「東金御成街道」。この当時は、「成田街道」の方が広い道だった。


2010年代のようす。現在は、「津田沼」駅へ向かう道でもあるので、こちらの方が広い通りに。

(9:26)「津田沼十字路」から「新京成線」の踏切を越えます。

 しばらくすると、「習志野市(藤崎)」へ入ります。まっすぐな道ですが、思ったよりアップダウンがあります。
 

(9:38)左手に旧家らしい大きな屋敷。

↓が「東金御成街道」。(南北を入れ替え)。左が「津田沼駅」方向。

四つ角に「東金御成街道」の解説板。

                       
 東金街道は、徳川家康が上総国東金(現東金市)での鷹狩りに向かうための通行路として造られたと言われ、御成街道とも呼ばれます。船橋を起点として、市内の藤崎・大久保新田・実籾を通り、犢橋(こてはし)・金親(かなおや)・小間子牧(おまごまき)を経て東金に至る約37キロメートルの道です。

 慶長18年(1613)12月、家康は翌年正月に東金で鷹狩りを行うため、佐倉藩主土井利勝に東金までの新道築造を命じ、沿道の村に工事が割り振られ、「提灯街道」「一夜街道」の別名があるように、昼夜兼行の工事でごく短期間のうちに完成させたと伝えられています。
 ただし、家康がこの道を初めて使ったのは元和元年(1615)11月ですので、実際の完成はこの頃だったと考えられます。
 この道は鷹狩りのためだけでなく、政治的・軍事的な理由から造られたという説があり、また、家康の鷹狩りには軍事訓練・周辺諸大名の牽制・権威の誇示・庶民の視察などの目的もあったと言われています。
 徳川秀忠も鷹狩りのためにこの道を何回か通行しましたが、寛永7年(1630)を最後に東金での鷹狩りは行われなくなり、この道は役人の通行路・民間の物資輸送路・庶民の生活道となり、大部分は今日も道路として使われています。
 なお、ここから南東100メートルほどの位置に一部が残る藤崎古道は、東金(御成)街道以前の道の名残であると伝えられています。

1880年代のようす。「藤崎」地区がまとまりのある集落。

2010年代のようす。左に「津田沼」駅。

周囲には緑が多くありますが、街道筋には木々がありません。

(9:55)しばらく先、右手の造園会社のデコレーション。

   夜は、さぞかしきらびやかに。

けっこう暑くなってきたので、日陰が欲しいところですが。
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